呪いと過去は安寧の影に蠢く
光の部分が強くなれば、闇の部分も濃くなるのもまた道理。
ひとりの影が動き出す。
情報を掴んでいるオシリスはおろか、イライラを日々募らせている魔王軍すらも正確にはその実情を把握できていない。
影は世界に手を伸ばしかけていた。
丁度それは黒く長い髪の女の姿形をしている。
美貌の目元には涙のメイクを施し、夜闇の森の中を薄ら笑いのまま歩むソレはまさしく物の怪の類。
『涙する死魂の女』の記号を持つ黒いマントと黒いドレスの呪術師は、好機を掴んでいると言わんばかりに上機嫌だった。
「さて、勇者に出会うまでにさっさと済まさないと。……コレが真上から落ちてきたときはビックリしたけど、念のために首だけ持っておいてよかったわ」
ネフティスは笑みを絶やさず、右手の血濡れた風呂敷を地面に置いて広げる。
それはかつての勇者一行メンバーで、魔術師のアンジェリカの首だった。
防腐処理と死に化粧が施されたそれは、まるで眠っているかのように穏やかな表情で、木々の間から降り注ぐ月光に照らされている。
かつての性根の悪さは死に顔からは見られず、こうして見ればただの憐れな娘だ。
しかし、ネフティスはこの女の邪悪さを知っている。
「なんて傲慢と強欲……よくもまぁこんな魂を持てたものだこと。だがグッド! これなら『魔王を越える逸材』にはうってつけね」
魔術と同じ起源を持ちながらも、異質な効果を持つのが呪術である
魔術は文字通り魔力を用いた術であり、呪術は自然の持つ力を異能の域まで昇華させ効力を発揮する術だ。
簡単なイメージとして、魔術が体内から体外へ発するエネルギーを炎や風に置き換えるものであるのなら、呪術は体外に存在する目に見えないエネルギーを、目的・現象として顕在するように仕向ける術だ。
自然と言っても木や水、土だけではなく、大気や宇宙という広域的なものも含まれる。
それらの中にあるエネルギーを操るのが呪術師であり、今は失われた大呪術こそ、高次元的な現象を起こす術なのだ。
ネフティスはその大呪術が使える。
未だ謎のベールに包まれた彼女は大呪術の行使を開始した。
特に呪文はない。
ネフティスという生命の波長に答える宇宙の脈動、それそのものが呪文に相当する。
「さぁ、勇者一行魔術師アンジェリカ。アナタは生まれ変わるの。人間を超越した……暗黒の女帝に」
アンジェリカに不気味な影がまとわりつく。
まるで食べ物を意地汚く咀嚼しているようなグロテスクな音だ。
アンジェリカの首がカッと目を見開き雄叫びを上げ始めたと同時に、ネフティスは自らの黒マントをアンジェリカに被せた。
「……早くて2日。もしかしたらそれよりずっと早いかも。それまでイイ子にグチャグチャしながら復活しててね。そのあとは……"自由"にしていいから」
破滅と混沌を孕んだ笑みを黒マントの向こう側のアンジェリカに向けながら、ネフティスは歩みを進める。
この笑みの裏側に隠された狂気を、強い月光が包み込んだ。
「魔王を倒して人類はハッピー? いやいやいや、そんなの勿体ないわ。折角この世界に『魔剣』があるんだもの、折角この世界に『ウェンディゴ』がいるんだもの……。この世界には混沌が必要よ」
森を抜けて静かな眼光を向けた先にあるのは、勇者レイドが夜営しているであろうかがり火。
薄ら高い丘の上に、灯りに照らされる人影がひとり。
ネフティスの位置からでもわかるくらいの血と大罪の臭い。
それらを嬌笑を以て受け入れ、レイドに近づいていく。
「勇者レイド様であらせられますね?」
「君は? こんな夜にこんな場所で女性ひとり……怪しいね」
「えぇ、アナタの仰る通り、私は怪しく、そして卑しい女です。アナタという高貴なる目的を持つ御方に一目会いたくて……いえ、力になりたくて」
「……詳しく聞こう」
レイドが以前訪れた村はすでに滅んでいた。
娘の行方を探そうとした父親を殺しただけでなく、村人全員をその毒牙にかけた。
自分はこれほど苦しい思いをしているのに、豊かに和やかに暮らしているので天罰を下すという名目で金品も奪い、最早レイドの外道の足は留まることを知らない。
もう自分以外なにも信じられなかったのだが、レイドはなぜか目の前のこの女に関心を寄せた。
ネフティスと名乗る彼女と話して、心を惹かれた。
悲しい哉。
ネフティスはレイドを全肯定し、恐る恐る打ち明けてみたその悪行の数々さえ、まるで偉業のように讃えたのだ。
それを真っ向から信じて、レイドは歓喜に震える。
ようやく真の仲間を得たのだと。
「この私ネフティスは、レイド様に絶対の忠誠を誓います。なぜなら、アナタの行いは必ずや世界に光をもたらすものだからです」
「わかった。ネフティス、君を僕の旅路に加えることを許可しよう。くれぐれも僕の足を引っ張らないようにね」
「我が魂は光の勇者レイド様の御心のもの」
レイドの表情は明るかったが、その雰囲気には暗い影を落としている。
ネフティスは跪きながらも心内でレイドをほくそ笑んだ。
(旅の途中でメンバーを離脱させたり、無関係の人間を襲ったり、正気とは思えないことばかりするわねこのガキ。でもいいわ。この勇者とアンジェリカはとことん使えそうだから)
勇者サイドで動きがある中、魔王軍サイドでも動きがあった。
魔王軍は完全に疲弊しており、士気などゼロに近い。
ほとんどの魔物たちも癇癪を起こす魔王に愛想を尽かしている。
魔王には秘密で、各々派閥を作り、なんとか魔王軍の運営を行っている状態だ。
古参ではなく、比較的若い魔物たちは、圧倒的なパワーで戦場を駆けるセベクに一目置き始めている。
当然セベクは大して興味がないようだったが……。
「よっ、セベク!」
「あん? オタク誰……だっけ?」
「こらセベク! 我ら魔王軍幹部、邪妖精イシス様になんという口の利き方だ!」
「あーいいっていいって。オイラも魔王様にはこういう態度取ってるし……それに、堅苦しいの気持ち悪いんだよね」
あけすけな態度を取るセベクを叱責するゴブロクを、イシスは軽く笑いながら制止する。
エネルギー体のような輝く翼をはばたかせ、小さい男の子のような肉体を宙に浮かせながらイシスは欠伸をした。
「んで、俺になにかようかい? また出陣か?」
「いやいや違うよー。部下とのコミュニケーションだよコミュニケーション。セベク、今のアンタはここのエースも同然だからね。敬意を以て接しているのさ」
「妖精……しかも邪妖精に敬意なんて考えがあるのか? まぁいいや、それで? 別に話だけしに来たわけじゃないんだろう?」
「さっすが魔王軍最強の魔剣兵士! ……単刀直入に言うぜ。オイラの直属の部下にならない? 魔王様に右行け左行けって言われるのもう嫌でしょ? オイラならより効率的に難易度の高い戦場を選んで、アンタを派遣してやれる。どうだい?」
イシスの独断ども言える辞令にゴブロクは驚きを隠せない。
セベクも表情には出さないが、表情が少し硬くなっている。
「今の魔王様に正確な判断はできないさ。前までオイラの命令違反にぎゃいぎゃい文句つけてたのに、今じゃ逆に怒らないなんていう気味の悪い現象が起きてる」
「ククク、そりゃあ確かにキモいな魔王さん」
「だろぉ? でさ、勤勉且つ忠実なる魔王軍幹部イシス様ことオイラは考えた!! これを機にもっと面白おかしく人間たちをぶっ壊そうってね! そしたら、魔王様も少しは気が晴れるってもんだぜ」
「なるほど。まぁ俺は別にかまわんよ? 強い奴がいるのならそれでいい……」
「あぁ……情報にあった、セトとかいう人間の子供か」
「いつか必ず俺がぶった斬る。手ぇ出すんじゃ……いや、出してもいいな。それを乗り越えるってことはセトっちはさらに強くなったってことだからよぉおお~」
「ん~、そいつはどうでもいいなぁ~。オイラの狙いは……ククク」
「い、イシス様?」
「なぁんでもないよゴブロク。よし、お前も晴れてイシス組のメンバーだ! 張り切ってくれい。ハッハッハー!」
そう言ってイシスは上機嫌で飛び去ってしまった。
呆気に取られるゴブロクと、目を伏せるようにして笑みを浮かべるセベク。
彼らを背後にイシスは舌なめずりを行う。
(ふふふ、情報ではセトって奴の近くにはサティス姉さんがいる。あぁ、オイラはまるごとすべて覚えてるよサティス姉さん。あの日の夜……君の悲鳴と絶望で燃え上がったあの日。サティス姉さんをオイラ直々に痛めつけあの感触! ────また味わえるなんて夢みたいだ)
人と魔が織り成す光の裏で、人と魔が生み出す闇への欲望が蠢いていた。
 




