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明日が来なくてもいいよ  作者: limp-fiction
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2. リラックスして。大丈夫だから。

よろしくお願いします。

 アインと名乗る少女にうながされ、203号室の中に入る。薄暗い廊下に足を踏み入れてぎょっとした。ほこりがかなり厚く積もっていて、靴下にまとわりつくような感触がしたのだ。アインはまったく気にする様子もなく、奥へ進んでいく。彼女が歩くたび、廊下の板が古くなっているのか、ギシギシと地味な音を立てる。

 


「掃除とか、してないの?」



 思わず尋ねた俺に、アインは振り向いて、まったく表情を変えずに答える。



「してない。無駄なことにエネルギーを使いたくないの。私も、社長も」



 掃除を、無駄なこととはっきり言い切ったアインに、返す言葉が見つからずに黙ってしまう俺。

 アインは廊下の突き当りにあるドアを開けた。



「入って。私たちのオフィス」



 ◆ ◆ ◆ 



 狭いな。

 部屋に入ってまず俺はそう思った。狭く感じたのは、別に部屋自体が小さいからではない。部屋は8畳ぐらいの大きさがありそうだ。俺の暮らしている、1部屋2畳半で、ベッドを置けばいっぱいいっぱいになってしまうダウンタウンのタコ部屋に比べたら、とても広い。

 


 この部屋を狭く感じさせる原因は、所狭しと設置されたタワー型のデスクトップコンピュータ、天井までの高さがある本棚、そして部屋の中央にある革張りの黒いリクライニングチェアのせいだ。

 つまり、物が多いのだ。さらに床に散らばったよく分からない英語の雑誌や、カップラーメンの空容器などが、この部屋の雑然とした感じを補強している。



「適当に座って」



 そう言ってアインは、部屋の隅の薄汚れたクッションの上に座る。足を抱えて体育座りになるその姿は、とても小さく見えた。

 

 適当に座れって言ったってな……。

 

 何しろ足のふみ場が無いぐらい散らかった部屋なのだ。一体どこに座ればいいだろうかと部屋を見回す。座れそうなのは一箇所しかなかった。

 適当に座れって言ってたしな……。

 


 俺は部屋の真ん中に置かれたリクライニングチェアにそっと腰掛ける。



「そこはダメ」

 


 鋭い声。アインが部屋の隅に座ったまま、俺をじっとみて一言だけ言った。



「え?」



「そこは、仕事で使うイス。だからダメ」

 


 そういわれて、仕方なく俺はイスから立ち上がる。床に置かれた英語の雑誌をどかして、少しのスペースを作り、そこに小さくなって座ることにした。



 ◆ ◆ ◆



 一体何分ほどの時間がたっただろうか。アパートの薄暗くて狭く散らかった部屋に、中学生ぐらいの少女と二人きり。一言も会話をかわすこともなく、俺も少女もただじっと体育座りをして待ち続けている。異常な状況だ。



 何もすることもなくじっとしていると、色々なことを考えてしまう。

 

 俺の人生どうなってしまうのだろうか。これまで一度も定職を見つけたことはない。記憶を売って暮らそうにも、そもそも楽しい記憶がない。

 ただ、毎日職安と家を往復する日々。たまに見つける短期間の仕事は、機械工場で工作機の部品を交換したり、倉庫で自動荷役マシンの部品を取り替えたりといった単純で何も楽しく無いものばかり。今時の機械はコンポーネントを取り替えるだけで修理できるようになっていて、つまり誰にでもできる簡単な仕事だ。

 

 それより前の記憶は?

 楽しい記憶がなかっただろうか……。

 さらに深く、記憶の海に潜ろうとしたところで、響き渡る電子音に現実へと引き戻される。



「もしもし……うん、うん……」


 

 アインが携帯端末で誰かと話している。さっきの電子音は携帯の着信音だったのだ。



「わかった…じゃあね」


 アインは電話を切る。そして俺の方に向いた。

 

「社長があなたをテストするわ。実地試験で」


「社長が来るのか。実地試験?」


「社長は来ない。仕事中なの。あなたは社長の仕事を手伝って」



 そう言ってアインは、部屋の中央のイスをぽんぽんと叩いて、そこに座るように促す。

 


「これを飲んで」



 アインに渡されたのは一つの小さな白いカプセル。

 なんだか得体がしれないので、飲むのを躊躇する。



「私たちの仕事は、売れる記憶を手に入れること。瞑想によって人間の集合的無意識に干渉し、眠っている人の記憶メモリーに入り込む」

 

 訳の分からないことを説明し始めた。



「質のいい記憶をこっそりもらって、代わりの記憶を植えてつけてあげるの。私たちは記憶の泥棒」

 


 それって、よく分からないけど、犯罪なのではないだろうか?



「でも、記憶の泥棒なんてものを取り締まる法律なんてないわ。だって誰も、自分の記憶が盗まれたことに気がつかない。被害届だって一度も出されたことない」



「そうなのか?でも……」


「詳しく説明するのは面倒。飲んで。脳が活性化し、高度な瞑想状態に入れる」

 

「一体なんなんだ?この薬は?危ないものじゃ……」


「知らない」



 いよいよ怪しい。これはよくできた麻薬の売買組織の押し売りか?それともこれは睡眠薬で、俺はここで眠らされて臓器を抜き取られ、海の底にポイされるのか?



「はやく飲んで」

 


 どうしよう。どうするべきなんだろう。飲むべきか?それとも断って、今すぐこの部屋を出て行くべきか?

 

 迷う俺。その時ふと、俺の家、たった2畳の狭い部屋の風景が、なぜか俺の脳裏にとても鮮やかに浮かんだ。

 そして雨のなか並ぶ職安。とても悲しそうに笑う、馴染みのハナの顔も。

 

 たとえ俺が今日死んだとしても、失われるものなんて何もない。だって俺は何も持っていないから。悲しむ人も、誰もいないだろう。



 底深い虚無感が、俺を押しつぶしてしまいそうだった。そして俺のそんな現実が、俺の住む裏路地の2畳間の風景にすべて圧縮されている気がして、吐き気がした。



 いいだろう。どうせろくでもない人生だ。どうなったってかまうもんか。



 俺は薬を口に含み、飲んだ。


 

 カプセルの表面が、口の中で少し溶けたとき、わずかに甘い味がした。


 変化はすぐに訪れる。

 ひどい耳鳴りがして、すぐにやんだ。

 静寂の中にいる。

 

 部屋中が眩い光に包まれたかと思えば、それはあらゆる色に変わった。何千色、何万色ものあらゆる光の虹だ。

 空間が歪む。光の筋は円になり、やがてそれはらせんを巻く。

 

 皮膚の表面を、チリチリと焼くような熱を感じた。いや、しびれるような冷気だろうか。

 

 寒いし、暑い。変だ。一体俺はどうなってるんだ。

 

 頭がぼんやりする。手足の感覚がない。俺は起きているのか?それとも夢を見てる?

 

 光の螺旋は回転をはじめる。まばゆい虹のダンス。

 いや、回転しているのは俺の方だ。俺の体が、ぐるぐる空中を回っているんだ。


 顔の皮膚の表面に、冷たい風が当たるのを感じた。と思ったら、それは砂漠に吹く熱風に代わり、やがて何も感じなくなった。


 虹の螺旋は、だんだん白色に収束していく。

 回転の速度はどんどん早くなっていく。


 上も下もなかった。

 そこに俺の体はなかった。何もなかった。

 

 ただ白色だけがそこにあった。光もなく、音もなかった。

 怖い。怖い。俺はここで死ぬんだ。



「リラックスして。大丈夫だから」



 ふと、声が遠くから聞こえた。とても優しい声だった。

次話もよろしくお願いします。明日投稿します。

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