1. 出会い
よろしくお願いします。
「良き市民は、記憶を捨てましょう。記憶はあなたの脳内メモリーを圧迫し、思考回転の妨げとなります」
スピーカーから流れる、無機質な女性の声。
下を向いて歩く、人、人、人。
俺も同じく、うつむいて前にすすむ。
「記憶の圧縮、コピー、売却はお早めに。ニューシナプス社のアーカイブは、安心、安全、合法です」
今日は雨が降っている。
先週のニュースで、雨中汚染物質濃度がここ10年で25%増加してるって言ってたっけ。
車が原因だ。俺は思う。
完全電気自動車化法が制定されて15年。
今やガソリン車に乗ってる奴はどこにもいない。古く懐かしいエンジンの音も、もう聞くことはめったにない。
そしてその自動車を動かすための電気は、重油を燃やして作られるのだ。
環境にやさしいはずの電気自動車。電気自動車を動かすための電気を作るために、大気が汚染されていくという皮肉。
硫化物の混じった雨にうたれるのが体に良いはずはない。
だが、俺は傘をささない。
傘を買う金が無いのだ。
◆ ◆ ◆
目的地に着いた。
治安庁職業安定化センター。
そんな建物の前には、今日も長蛇の列。建物を一周して、道路の反対側まで続いている。
これじゃあ、3時間はかかるな。
俺は列の一番後ろに並ぶ。みんな、雨が降ってるのに、ご苦労なことだ。
「よっ、アンディ」
後ろから肩を叩かれる。
振り返ると、そこには顔なじみのハナがいた。彼女もまた、ここに通う失業者のひとりだ。
俺の後ろに並んだ彼女も、傘をささずに、雨にうたれるままになってる。短い髪が濡れて、額に張り付いている。
「やあ、ハナ。久しぶり」
「今日は、仕事にありつけないかもよ」
「ああ…この調子じゃね。先週と同じ」
「私、聞いたんだけど、このセンター来年には無くなるんだって」
「それ、本当?」
「ホントホント。もう紹介できる仕事がないから。隣の13B地区のセンターと統合だって」
ハナの言葉に、俺はため息で答える。
13B地区は遠い。歩いて行くにはつらいが、値上がりを続けるトラムに乗る金なんてあるはずもない。
「私、この間また記憶を売ったんだ」
しばらくの沈黙の後、ハナがぽつりとつぶやいた。
「キャッシングの返済があったからさ。10万になったよ」
「そうか」
「私が持っていた一番楽しい記憶を売ったの。今はもう、どんな記憶だったのかさえわからない」
そう言って、彼女は微笑む。
彼女との時間は好きだ。彼女の笑顔も、俺を安心させてくれる。
だがその笑顔の中に、僕は彼女の抱えるかすかな痛みのあとを見つけてしまう。
楽しい記憶がなくなって、思い出すこともできなくなっても、ハナはこうして笑うことができるのだろうか。
「いつか、あんたとこうして話した記憶も、全部売っちゃうのかもね」
◆ ◆ ◆
「仕事ね。いいのがありますよ」
小太りの男がはっきりとした元気な声で言う。
治安庁職業安定化センター。広いフロアに、20箇所ほどのカウンターが設けられていて、それぞれに1人ずつ担当の職員がつく。
目の前の男は今日の俺の担当。彼はすこし窮屈そうなスーツに身を包み、自分の仕事に誇りをもって業務を遂行しているようだった。
この時代にあって、なんとも幸運なことだ。
そんな幸運が、俺にも訪れるかもしれない。
「本当に?どんな仕事が?」
「おっと、落ち着いてくださいよ」
そう言って小太りの職員は少し身を引いて手のひらを俺の前につき出す。気付けば俺はテーブルから半分身を乗りだしていた。
「これが求人票ですよ」
男が出したデジタルペーパーを強引に奪うように手に取り、隅々まで目を通す。
「会社名、DMA株式会社……初任給、20万クレジット」
「デジタルメモリアルアーカイブスの略です。会社名」
「職務内容、記憶のサルベージ?初心者歓迎、学歴不問」
職務内容がよく分からない。DMAっていう会社名も聞いたことないな。
「どうします?面接受けられますか?」
まあダメもとで行ってみよう。今の俺は無職。そして仕事がなくては、明日にも飢えて死ぬような状況なのだ。
「行くよ」
◆ ◆ ◆
3日後。
面接会場として指定された住所に向かう。
交通費が支給されたおかげで、トラムに乗ることができた。ありがたい。
停留所から歩くこと10分ほど。薄暗い倉庫街を抜けて辿り着いたのは、一軒の小さなアパートメントだった。
「ここ……だよな?」
3階建ての、小さなアパート。
1フロアあたり4つある玄関の金属製の扉は、どれもあちこちが錆びて茶色くくすんでいる。
壁は灰色に薄汚れ、上の階に登る階段の手すりはひどい錆の侵食のせいで折れ曲がっていた。
1階のあるドアの前には、埃をかぶった旧式の小型モーターサイクルが駐められている。
つまり、どう見ても普通のオンボロアパートメント。
「俺の家よりボロいな」
ポケットからデジタルペーパーを取り出し、保存しておいた案内書を呼び出す。住所はここで合っている。203号室……2階か。
◆ ◆ ◆
203と書かれたドアの前に立つ。
ドアには、マグネットで、小さなカードが貼り付けてある。
「DMA株式会社 セールス・ポスティングお断り……」
これがデジタルメモリアルアーカイブスね…。
ドアの下の方に空いている郵便受けのスリットは、宅配ピザやパソコンショップの宣伝チラシがぎちぎちに詰められていて全く隙間がない。どうやら、ポスティングお断りの一文に、あまり効果はないようだ。
しょうがない。想像とは少し違うが、どうやらここがDMA株式会社のオフィスということらしい。
俺はドアをノックした。ドアは金属製なので、かなり大きな音が響く。
1度。2度。3度。
だが、何回ノックしても、誰も出てくる気配がない。部屋の中に誰もいないんじゃないのか?
「はあ……」
だまされたんだろうか。職安に。
とりあえず求人票に書いてあった連絡先に電話してみようとして、
「おじさん、誰?」
後ろから声がする。
振り返ると、そこには少女が立っていた。
茶色がかった髪。
「君は、ここの人?」
俺は203号室のドアを指差す。
「そうだよ。おじさんは?」
少女の声はとても平坦だった。
12、3歳ぐらいだろうか。
白いパーカーに、水色の長ズボン。どちらも、少女の身体のサイズよりだいぶん大きなものに見えた。
「DMAに面接に来たんだ。今日の1時からのはずだけど、中に誰もいないみたいで……。何か知ってる?」
少女は俺をじっと見る。吸い込まれそうな深い何かを感じて、思わず目をそらした。
「知らない。今、社長は出かけてるから」
「そうか………」
出かけてるなら、戻ってくるまで待つしかないのだろうか。
「君は、社長の娘さんとかなの?」
少女は少し驚いて、それからちょっとほほ笑んだ。
「違うよ。私もここの社員」
「社員?驚いたな。まだ……若いだろ?」
まだ中学生ぐらいだろうとは何となく言えずに、薄皮に包んだような言い回しになった。
「驚くことなんて、ない。誰だって働かなくちゃ生きてはいけない。でしょ?」
「あ、ああ……」
少女はドアの鍵を開けて203号室に入ろうとする。
「何をしているの?おじさん」
「え?」
「社長に会いたいんでしょ?なら中で、待つといいんじゃない?」
少女は親切に、俺を中に招き入れてくれる。
「ありがとう」
「いいの。私はアイン。アイン・グランツ・山田」
「よろしく。アンディ・トレランスだよ」