クロック
その街を訪れたのはもう十数年前のことになる。
見た目はどこにでもある普通の街だった。ほどほどに栄え、食べ物と仕事の量には困らない程度の人口を有する都市。かといって、決して都会というわけではない、そんなありふれた街だ。
世界中の国々を放浪していたワタシにとって、その街は見慣れた景色のひとつとなるはずだった。
宿に荷物を下ろし、ワタシは一息ついていた。長旅で疲れていた体には、ベッドの埋もれるような柔らかさが心地よかった。
この街に来てから何不自由などしていなかった。食べ物や買い物に苦労はなければ、出会う人々もみなよくしてくれている。ただひとつ、この街には唯一欠けているものがあった。
「さて、今は一体何時であるのか」
この街には“時計”がなかった。
「もし、そこのお方。よければワタシに時刻を教えてはくれまいか」
ワタシは宿の受付の者にそう尋ねた。この街にはお店も駅も広場もあるが、そのどこにも時計がなかった。ワタシは旅の途中で時計をなくしてしまっていたから、こうして人に聞かざるをえないのだ。
「構いませんよ」
宿の娘は手元から時計を出すと、それをワタシに見せてくれた。
「ふむ、まだこんな時間か。どれ、街を散策でもしようか」
ワタシはまだ行ったことのない場所を見ようと宿を出た。
「もし、そこのお方。よければワタシに時刻を教えてはくれまいか」
街を歩き回るのに、結構な時間を使ってしまった。ワタシは再び時刻を確認すべく、通りすがりの者に声をかけた。
「もちろんですとも」
通りすがりの青年は手元の時計を取り出すと、それをワタシに見せてくれた。
「…失礼だが、この時計は正しいのか?」
「と、いいますと?」
「時刻が間違っているのではないか。なぜならば、ワタシが宿を出るとき、店の者に見せてもらった時刻と、君の時計の時刻はそう変わりないからだ。あれからどれだけ経ったと思う?」
ワタシは親切のつもりで教えたつもりだった。しかし青年は首を横に振ると「いいえ、これが私の時刻なのです」と答えた。
「私の時刻、とは?」
「文字通りの意味です。人には人の数だけ時間があります。ですから人によって時刻が違うのは当たり前のことなのです」
そう言って青年は立ち去ってしまった。ワタシはこの街のまだ見ぬ文化に触れてしまったのか、はたまた不思議な青年に出会ってしまっただけなのか、そのいずれかもわからぬまま、岐路に着いた。
帰りは時刻もよくわからずという事情もあり、大分遅くなってしまった。夜になりあたり一面の景色も不明瞭で、宿の場所もいまいち判別がつかなくなってしまった。
そんなとき、ワタシの目の前にひとりの老人が現れた。
老人は夜の公園でひとり、ひっそりとベンチに腰かけていた。その様子があまりにも不可思議であり、ワタシはつい声をかけることにした。
「もし、そこのお方」
ワタシの呼びかけに老人は焦点の定まらない目線を送る。ワタシの声が聞こえているのかいないのか、それすらもよくわからなかった。かといって、放っておくわけにもいかない。
「こんな遅くに何をされているのか? ご家族は心配されているのではないか?」
「…心配をかけたくないと、外に出てまいりました」
意外にも、というべきか、老人の受け答えはしっかりとしたものだった。
「ご事情はわかりませぬ。しかしこんな真夜中にひとりでおられるのはよくない。もう遅いですし…、といっても、ワタシには時計がないので知りようもありませんが」
すると老人は驚いたような顔をした。続いて胸元から時計を取り出すと、ワタシの目の前に差し出した。
「これは間違いではなさそうだ」
老人の時計はおそらく今の時間を正しく指し示したものだろう。
「あなたは時計を持っていないのですか?」
老人は不思議そうな表情を浮かべて問いかけてきた。
「あいにくワタシはこの街の人間ではありません。ここで暮らす方はみな時計を持っているのですね。広場や駅にはないものですから、ワタシのようなよそ者には苦労が絶えません」
「いいえ、あなたにも時計があるのですよ。気づいていないだけなのです」
そんな馬鹿なと驚くワタシを尻目に、老人はすっと一点を指差していた。その先にはワタシのズボン、ポケットがあり、ふと手を入れてみると、そこにはあるはずのない時計がうずくまっていた。
それはこの街に来てから見慣れたデザインである懐中時計。時刻は老人と同じときを指していたが、その針は止まったままだった。
「ネジを回してごらんなさい。この街で時計のネジを回したとき、あなたの時間が示されるのです」
ワタシは言われるがままにネジを回した。動き出す針に、格別の喜びを覚える。命を刻む秒針が、ワタシに時間という感覚を与えた。いや、それは誰しも知っていて、それでいて目を背けているものなのだろう。
この日はワタシにとって特別な日だった。ワタシが老人と初めて言葉を交わし、そして最後の言葉を交わした日でもあるのだから。
ワタシはベッドの上で、初めてこの街を訪れたときのことを思い出していた。
旅人として世界を周っていたワタシは、ついにこの地を定住の場とすることにした。
理由はいくつかあるが、やはり世界放浪の旅など、体に大きな負担がかかる。もう満足に動けなくなった現状を考えれば、あのとき旅をやめたのは決して誤りではなかったはずだ。
あの日、老人は静かに息を引き取った。ワタシの目の前で、眠るように、懐中時計を握りしめて。
この街を初めて訪れてからもう十数年が経とうとしている。
ワタシの時計は、あの日の老人と同じく子夜の時刻を迎えようとしている。