第2話 初日の風当たり
「ねえ、遥さんって今どこいるの?」
玄関を出て、歩き始めた時、月乃が問い掛けて。遥とは僕の母親のことである。
「前は南アジア、その前はヨーロッパにいたらしいから、そのうち日本に帰ってくるのかもね」
推測の範囲を超えないけど、と付け足し、欠伸をする。うん、まだ完全には起きてない。
軽く体をほぐしていると、月乃が呟く。
「光ちゃんは寂しくないの? 私だったら、寂しいな。ねえ、光ちゃんは平気なの?」
彼女の目の真剣さに息を呑む。こんな顔されたら、理由を述べない訳にはいかない。頬を掻いて、照れ隠しをしながら彼女に告げた。
「月乃、僕は寂しさは感じてないよ。そりぁまあ、父さん達がいないのは寂しいかもしれないけど、それ以上に楽しいから。ある人が支えてくれているから。だから大丈夫」
やはり恥ずかしく、月乃に向かってでなく、電柱に向かってになってしまったけど、言いたいことは伝わったと思う。
反応を確かめるべく、彼女の様子をうかがう。彼女はふるふると震え、下を向いている。
もしかすると、引いちゃった?
どうしようかと考えていると、月乃が僕の名を呟き、近付いて来て――ひしっ。
ひしっ? ……えっ!? 月乃が僕に抱き着いてる!?
ど、どうしよう? ここで振り払うなんて問題外だし、かと言ってこのままでもいけない。第一、僕が保たない。ああ……通り過ぎて行く人の視線が痛い。
月乃の力が弛む気配はなく、狼狽えた僕がただ立ち尽くすのみ。
そんな時であった。
「あらあら、朝っぱらからお暑いこと」
ニヤニヤとあざけるように笑う、彼女達がやって来たのは。
「朱音さん、仕方ないのですよ。あの二人は残された時間を必死に生きているのですから」
「えっ、そうだったんだ……。ごめんね、月乃、光君」
根も葉もなく、何が言いたいのかもさっぱり判らないことを、悪気もなさそうに嘲笑を交えながら、彼女達は話す。
「ちょっと、朱音も紫苑も変なこと言うの止めてよ!」
月乃は彼女達を止め、近付くと、楽しげに談笑を始めた。
……遅刻しちゃうよ。
僕の嘆きも何のその、彼女達は時間を忘れ笑っている。
駄目だこりゃ。
声を掛けるのを諦め、空を見上げる。空は青く澄み渡り、雲が風に流されていた。
本当に今日の運勢は今世紀最低なのかと疑ってしまう。それほどまでに穏やかな空だった。
「光ちゃん、早く行かないと遅刻しちゃうよ」
いやいや、誰のせいだよ。
十分ほど歩き、学校に到着。昇降口に行って、まずは組分けを確認する。
とは言っても、僕達四人は全員、理系生物だから同じクラスになると思われる。
「あっ、皆同じクラスだよ!! 私達は二年二組だって」
ほら、言った通り。
「やったね、光ちゃん。また同じクラスだよ」
朝日が月乃の髪を照らし、黒髪が輝く。その輝きに劣らぬ、彼女の笑顔。それをみた瞬間、僕の心臓が暴れ出す。爆発の如く脈打ち、体内を駆け回る。
まただ……。この感覚、いったい何なのだろう?
答えは出ない。彼女に返事を返して、共に教室へと向かった。
入るや否や、教室がざわつく。それもそのはず、月乃、朱音ちゃん、紫苑さんの美少女三人が教室内に入って来たのだ。煩くならない訳がない。
そして気付く。男子の彼女達に向いた興奮気味の視線が、数秒後には、僕に対する殺意の籠った視線に変化することに!
うわぁ……そんなに見つめないでよ。照れる。……いや、ごめん。冗談。冗談だから、拳を握り締めて振り上げるの止めて!
通じたのか、拳を降ろし、各々席に向かって行った。
ふぅー。危ない、危ない。胸を撫で下ろし、見渡すと、窓際の後ろに四つの空きが目に止まる。
月乃達に呼び掛けて、僕と月乃、朱音ちゃんと紫苑さんが隣りの形で腰を降ろした。
「今年も楽しい一年になるといいね」
だね、と返し、それから会話に花を咲かせていた。
しかし、周りはそんな僕達を(というか僕を)良く思わなかったようだ。こんな声が聞こえて来た。
「くそぉ、瀬川の野郎……月乃ちゃんと楽しそうに話しやがって」
「瀬川ナンテ死ンデシマエ」
「瀬川ナンテ死ネバイイ」
「瀬川……コロス」
「きゃあ、光君だぁ! 今日も、可愛い♪ 本当に食べちゃいたい」
因みに、“瀬川”ってのは僕の名字。月乃は“春日”、朱音ちゃんは“九条”で、紫苑さんは“橘”。
というか恐っ。特に最後の人、何をする気なんですか? あっ、止めて。聞きたくない。
穴が開くほど見つめてくるその女の子から目線を逸し、助けを求めていると、担任でも入って来たのか、教室が静かになった。
「はい、皆座った、座った。出席取るよ」
助かったと頭を持ち上げる。そこにいるは、昨年も担任だった数学担当の平塚 千智先生。ああ、千智先生が女神に見え……ないですね。
「光君、何か言ったかな?」
こ、この人、心を読んだのか!?
「そうよ。知ってる? 独身術って言うのよ」
千智先生。独身術というのは初耳であります。正しくは読心術かと。
「そ、そんなことはないわ。独身術がないなんて、有り得ない。もしそうだとしたら、私が独身なのは何でなのよ!」
いやいや、そんなこと僕に聞かれても困ります。それと千智先生、周りの皆、キョトンとしてますよ。先生が一人で喋っているように見えますからね。
「うっ……。まあいいわ。早速だけど、委員長を決めるよ。やりたい、又はやってもいいという人は手を上げて」
ふぅ、疲れた。これからは、千智先生の近くにいる時は注意しよう。
今の注意を心に刻み、周りを窺う。立候補者は……ゼロ。まあ自分から委員長になろうとする人は少ないから、当たり前っちゃ当たり前。
見兼ねた千智先生が、「いないようなら、推薦でもいいから、早く決めちゃうわよ」と促す。
教師として、それで間違ってないのですか?
その時、一人の男子生徒が勢い良く立ち上がり、「瀬川君がいいと思います!」と僕を推薦。
千智先生は、「じゃあ光君でいっか」と僕を委員長に決定。
うん。本人の意志は無視だよね。知ってる? 日本国憲法には基本的人権の尊重という、基本原理があるんだよ。ねえ、聞いてる? おーい。無視か。無視なのか?
「ほ、ほら光君、こっちに来て他の役割決める」
僕に目線を合わせずにそう言う千智先生に呆れ、ため息を吐いてから教壇に向かう。仕方ないから副委員長から決めることにした。
「じゃあ副委員長になってもいいという人、手を上げて下さい」
暫く待つも、挙手する者は現れず、時間だけが刻一刻と過ぎて行く。
半ば諦め、推薦に変えようとした所で、月乃の手が上がった。
「光ちゃん、私、やるよ」
「本当? 月乃ちゃんが副委員長だったらサボれ……助かるわ。皆もいいよね?」
先生……間違ってますって。サボれるとか言っちゃ駄目でしょ。
僕はつっこんだが、皆はどうでもいいようで、拍手を送っている。このクラス、冷め気味だね。だけど、嫌いじゃないよ、そう言うの。
月乃が副委員長になってくれて、内心ほっとした自分がいたことは、彼女には秘密。
その後も滞りなく役割は決まっていき、朱音ちゃんは体育委員、紫苑さんは書記のポジションに着いた。言わば適材適所というやつである。
「よしっ、全部決まったね。光君、月乃ちゃん、ご苦労さん」
先生から労いの言葉を言われ、席に着く。明日の日程や持ち物などの連絡を聞き、始業式の為に体育館に向かった。
頭の薄くなった教頭が壇上に上がって開会の言葉を発し、そして降りて行く。
うむ。暇だ。することもないし、聞くこともない。
春の心地よさに負け寝てしまおうか? いや待て。今は立っている。寝たら倒れるよ、うん。
起きてつまらない話を聞くか、寝て転ぶかを天秤にかけ、どちらがいいか考える。結果、睡眠を選択し眠りについた。
僕はある発見をした。立ったまま寝ると、足の力が抜けて、空から墜ちるような感覚を味わえる。興味があったら試してみるといい。
「いやあびっくりしたよ。いきなりカクンと倒れそうになるんだもの」
「光ちゃん……それ自業自得ってやつだよね」
ふふっ、それを言われちゃ何も言い返せないよ。