番外編④ オシュクル視点
「……よく、眠っているな」
口元に掛かる長い金髪を指先で掃ってやりながら、安らかに寝息を立てている愛しい妻の寝顔を静かに眺める。
育児疲れでアレクサンドラが先に眠ってしまうようになってからは、毎晩見ている寝顔だが、いくら見ても見飽きることはない。
思わず口元に笑みが零れたその時、不意に隣で眠っていた幼い息子がぐずりだし、オシュクルは慌ててその小さな体を抱き上げた。
「……こら。ヨシュア。お前の為にいつも頑張っている母を、起こしてやるな。このまま眠らせてやれ」
当然まだオシュクルの言葉を正確にできない筈のヨシュアだったが、それでも今日はたまたま機嫌が良かったのか、オシュクルの腕に抱えられた途端むずかるのをやめた。
そのままゆっくりと左右に体を揺らしてやると、まだ眠り足りなかったのか、その小さな目蓋は徐々に徐々に落ちていった。
ヨシュアが再び寝息をたてはじめたのを確かめてから、オシュクルは慎重にヨシュアを空専用の寝床の上に横たえる。ここで気が抜くと、再び目を醒まして泣きはじめるので、細心の注意が必要だ。
ヨシュアが再び寝床の上で寝始めたのを確認すると、オシュクルはほっと安堵の溜め息を吐いた。眠る息子の頬を、そっと指先で撫でて、隣で眠る母親とそっくりなその顔を暫く見つめた。
「以前よりも、随分と重くなったものだな……このまま、お前はどんどん大きくなっていくのだな……」
こんな風に、子どもの成長を身近で見ることが出来る日が来るなんて、以前は想像したこともなかった。
自分はきっと、愛がない婚姻をして、子を成すことなどないまま過ごすのだと思っていたし、もし万が一子を成すことがあったとしても、子と妻を王都に置いたまま旅を続けるのだと、そう思っていた。
こんな風に、愛する妻と、息子と一緒に日々を送ることなんて、自分がトゥズルセアであり、王である限り出来る筈がないと諦めてしまっていた。
それなのに。それなのに。自分は今、こんなにも幸福だ。
滅多に零れることがない涙が、思わず滲んでしまいそうになるくらいに、どうしようもない程幸福だ。
オシュクルはすっかり深い眠りに着いたヨシュアから手を離して、再びアレクサンドラに視線を戻した。
育児と旅に、毎日くたくたになりながらも、文句一つ言うことなく遊動の旅を続けている最愛の妻に。
王都で使用人に囲まれ余裕を持って子育てできる環境よりも、息子に父親を感じさせてやりたいのだと、そしてオシュクルにも息子が育っていく過程を見て欲しいのだと、そう言ってオシュクルと共に過ごすことを選んでくれた妻に。
「全部お前のお蔭だな……アレクサンドラ」
(お前が私に、この幸せをくれたんだ)
ルシェルカンドから嫁いだ、美しい高位貴族の娘。
感情の起伏が激しく、くるくると表情が変わる、子どものような女性。
遊動の旅に着いて行けるなんて、とても思ってはいなかった。
ましてや、自分を愛してくれるようになるなんて、ありえないと思っていたのに。
『――ならば、私も連れて行きなさい。貴方の妻として、私もその遊動の旅とやらに同行させなさいっっ!!』
『――ここに、残るわ。一緒に遊動の旅に着いて行かせて』
『久しぶりの贅沢は素直に嬉しいのに、オシュクルに言われるまで、戻りたいなんて考えてもなかったわ。私、もしかしたらあの質素な食事も、寝づらいベッドも、そんなに嫌いじゃないのかもしれないわ』
『置いて…いかれるのは、嫌よ…お願い…ここにいさせて…』
『オシュクル…私、ここにいていいの?私みたいに、何もできなくて、迷惑ばかりかけてばかりの人間を、皆仲間だと思ってくれているの?』
『【見届け人】の役割を、果たしに来たわ』
『……ねぇ、オシュクル。今は私とオシュクル、二人きりよ…王の姿のままい続ける必要はないわ。王と王妃以前に、オシュクルは私の夫で、私はオシュクルの妻でしょう?だったら取り繕う必要なんかないわ。…私の前で我慢なんかしないで』
『そんなことで悩んでいたなんて、馬鹿ね。オシュクル…貴方は、馬鹿よ……私は宝石も、ドレスも、贅沢な生活も、欲しいだなんて一言だって言ったことはないじゃないの』
『私が欲しいのは、未来よ。…オシュクルの隣で、優しい遊動の旅のみんなに、ドラゴン達に囲まれて、笑って過ごせる将来の時間だわ。そしてオシュクルはこれからも私に、それを与えてくれる。――それだけで、十分なのよ』
過去アレクサンドラがくれた言葉の数々が、オシュクルの脳裏に鮮やかに蘇る。その言葉の一つ一つが、今オシュクルの胸の中に宝物のように宿っている。
愛しはじめたのは、いつからだったろうか。
自分でもよく分からない。
病に侵されながら置いて行かないでと縋ったその時だったのかもしれないし、あまりの文化の違いに倒れながらも、そのまま残ると口にしたあの日だったかもしれない。
――否、もしかしたら、一番最初に遊動の旅に着いて行くと言った時に、既にオシュクルはアレクサンドラに特別な思いを抱きかけていたのかもしれない。
正確な始まりは、いつかわからない。だけどアレクサンドラはいつのまにかオシュクルの胸の中にするりと入り込んで、そのまま当たり前のようにそこに住み着き、日に日にその存在を大きくしていった。
気が付いた時には、婚姻前に自身に課していた戒めさえも忘れて、そのまま妻としてずっと隣にいて欲しいと思ってしまうまでに。
「本当に、お前の存在は私にとって『奇跡』のような存在だったんだ……」
アレクサンドラだからこそ、良かった。
アレクサンドラじゃなければ、駄目だった。
結婚相手が他のどの女性だったとしても、きっと自分は今ほど幸福にはなれなかったに違いない。そう、確信している。
だからこそ、きっと出会ったのは「奇跡」で「運命」だった。
「運命」は、存在するのか。
決められた未来をある程度見越すことが出来るドラゴン達と共に過ごしながらもなお、オシュクルは「運命」という概念には懐疑的だ。
目に見えない、人智を超えた存在の意図というものは存在するのだろう。だからこそ【トゥズルセア】という絆が存在している。
だけど、それが男女の恋愛にも及ぶとは、オシュクルにはとても信じられなかった。たかが一人の人間の恋愛ごとに、そんな大きな存在の力が及ぶとは思えなかったのだ。
だけど、ノーティがアレクサンドラを【トゥズルセア】に選んだことで、もしかしたら最初からアレクサンドラが自分に嫁ぐのが決まっていたのかもしれないと思った時、オシュクルは初めて「運命の出会い」というものを信じた。
そして、自分にそんな運命を与えてくれた神に、心から感謝を覚えた。心から愛しいと思える妻を、自分に齎してくれた神に。
「……そろそろ私も眠るか」
気が付けばすっかり夜が更けてしまっていた。
そろそろ眠らなければ、体がもたない。
遊動の旅は、明日もまた続くのだから。
「おやすみ……私の、【ラ ネグピヤトゥス】(最愛)」
瞑られた目蓋にそっと口づけると、眠るその体を抱きしめるようにして隣に横になった。
隣から聞こえる二つの寝息に安堵する。
これから、何百、何千もの夜を、こうして愛おしい家族と共に過ごせることを祈りながら、オシュクルもまた、眠りの淵に落ちて行った。
番外編はこれで最後です。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。