ロズアとリラ
翌朝、アレクサンドラはオシュクルの腕の中で目を醒ました。
目を開いた途端視界に入った、オシュクルの安心したような寝顔に笑みを零しながら、アレクサンドラはその裸の胸に耳を当てた。
オシュクルの心臓の鼓動が、布ごしではない分、いつもより少しだけ大きく聞こえた。
この鼓動の音に、何度安心させられてきただろう。泣きそうな夜も、この鼓動の音を聞くだけで、アレクサンドラは穏やかに眠りにつくことができた。
そして今、耳朶を打つその音が、アレクサンドラを鼓舞する。胸に抱く決意を、後押ししてくれる。
選ぶ道を決めた。――もう、迷わない。
例えその選択は、アレクサンドラが愛する人を…アレクサンドラを慈しみ、愛し続けた人を、傷つけるものだったとしても。
「おはようございます。お父様。リヒャルト」
アレクサンドラは、セゴールとリヒャルトが泊るテントに、一人で訪れた。
「……おはよう。アレクサンドラ。……返事は決まったのか」
「ええ」
よく寝たとばかりに大きく伸びをしていたリヒャルトと対照的に、慣れないテントで眠れなかったのか、少し目の下に隈が出来ているセゴールに向かって、アレクサンドラは微笑みかけた。
その髪の上で揺れるのは、艶やかな赤いリラの花。
昨夜同様に髪に挿していたリラの花を、アレクサンドラはそっと抜いて、セゴールに向かって差し出した。
「お父様……この花は一体何だと思う?」
「これは……ロズアか? しかし、一体何故こんな場所にロズアが…」
突然のアレクサンドラの言葉に戸惑いながらも、案の定な返答を返したセゴールにアレクサンドラは首を横に振った。
「お父様、よく見て。この花には、ロズアと違って棘がないでしょう? 花や葉の形も、ロズアのそれとは少し違うわ」
「…言われてみればそうだが。……それにしても、ロズアとよく似ている」
「この花は、リラの花と言うそうよ。モルドラの、ルシェルカンドに比べればずっと痩せた土地にでも自生することができる、野草なの。……おかしな話よね。人の手に守られて育つロズアには、それでもなお身を守る為の棘があるというのに、ロズアより苛酷な環境にある筈のリラが、棘を持っていないなんて」
どこか自嘲気の笑みを浮かべたアレクサンドラは、相変わらず無表情なままリラの花を眺めているリヒャルトへと、視線をやった。
「リヒャルト。貴方は私のことをロズアのようだと、そう喩えたわよね。覚えているかしら」
「……ええ。確かにそう言いました」
「貴方の喩えは、実に正しいと思うわ……ルシェルカンドにいた当時の私は、ロズアのようだった」
アレクサンドラはそっと目を伏せて、過去の自分に想いを馳せた。
セゴールにずっと守られていながら、それを当たり前のように甘受して、我儘放題だった昔の自分。
感情のままに、思うがままに動くことが当たり前で、それを疑問に思うことすらしなかった。自分のそんな行動のせいで、一部の大切な人達を除く他人がどんな迷惑を被ろうと、気にしなかった。
一方で、甘い顔をして近づいて来るセルファ家の外の人間を信用せずに、高慢な態度を貫くことで遠ざけていた。そうすることで、悪意から身を守っていた。
「お父様の手で守られながら、そのうえで全身に棘を纏って、他人を遠ざけながら生きていたわ。外の世界を知ることもなく、知ろうともせずに、私の為に作られた環境の中に生きることに何の疑問を思うこともなかった。それが当然だと、思っていたわ。……だけど私はモルドラに来て、色んなことを学んだの」
モルドラでアレクサンドラは、本当に数えきれない程多くのことを学んだ。
ドラゴンという未知の生き物の生態も。
世界には本当に様々な宗教観や、価値観が存在することも。
息が詰まるような、激しい劣等感も。
自分の考えなしの発言が、時に人を傷つけてしまうということも。
誰かに正面からぶつかって行くことの怖さも。
ぶつかって、その結果自分を受け入れて貰えた嬉しさも。
選ばれることの、苦悩も、歓びも。
運命の不思議さも。
誰かを愛し愛されることの、素晴らしさも。
全て、モルドラに来なければ、知りえなかったことだ。
そして、多くのことを学び、経験したアレクサンドラだからこそ、思う。
「お父様――私はロズアよりも、リラでありたい」
差し出していたリラの花を、口元へと運んでその香りを嗅ぐ。
甘く優しいその香りで心を落ち着けることで、零れ落ちそうになる涙を堪えて、アレクサンドラは真っ直ぐにセゴールを見つめながら笑みを作った。
「棘を身に纏って他人を遠ざけることもせずに、自分の力だけで力強く咲いて、しっかりとモルドラの大地に根を張るリラの花のように、私はなりたいの。そして、私をそんな風にしてくれる場所は、ルシェルカンドではなく、モルドラだわ。――ルシェルカンドでは、私はリラになれない」
「アレク、サンドラ……」
呆然とした様子で自分の名前を呼ぶセゴールの言葉に、胸が締め付けられる。
愛し慈しみ続けてくれたセゴールを、こんな風に突き放す自分は、なんて親不孝なのだろうとも。
それでも、アレクサンドラは決めた。選んだ。
父と共にルシェルカンドに戻るのではなく、モルドラに留まり、この地で生き続けて行く道を。
「お父様。聞いて。……これっきりではないわ。ルーディッヒ様が、私を妻にと言うくらいだから、ルシェルカンドでは私の罪はもう許されているということでしょう? それならば私は、許可証を貰ってルシェルカンドに帰ることもできるはずだわ」
脳内に浮かんだ、素直でない狐似の魔術師の姿に、アレクサンドラはくすりと笑みを漏らす。
「遊動の旅の人員には、転移魔法が使える凄腕の魔術師がいるの。生憎今はモルドラの王宮までしか転移させられないようだけど、プライドが高いから、リヒャルトが指環を媒体にした転移魔法を成功させたことを聞いたら、きっと悔しがって自分も同じことができるように鍛錬するはずよ。それが成功すれば、ルシェルカンドに帰ることなんて、簡単だわ。帰りも国境までさえ行けば、ドラゴンの背に乗ったオシュクルが私を迎えに来てくれるだろうから、そんなに大変な移動じゃない……私がお父様に会いに行くことは、そう難しいことじゃないのよ」
それに、今は口には出さないが、ノーティが大きくなって、その背に乗れるようになれば移動はさらに楽になるだろう。
アレクサンドラは、一層気兼ねなく父親に会いに行くことができるのだ。
アレクサンドラは口元に笑みを湛えたまま、そっと自身の腹部を撫でた。
「その時にはきっと……もう一人、連れていくわ。できるならば、オシュクルも一緒に、三人で」
そのアレクサンドラの言葉だけで全てを察したセゴールは、目を大きく見開いてアレクサンドラの腹部を見つめた。
「……子どもが、できたのか」
「まだ分からないわ……でも、そんな気がするの。もしそうじゃなかったとしても、きっと私は近い将来、母親になるわ」
それは予感というよりも、確信だった。
きっと自分は、そう遠くない未来に、オシュクルの子を産む。
オシュクルの妻という立場だけではなく、生まれてくる子供の母親という立場も得るのだ。
だからこそ、強くならなければならない。
生まれてくる子は勿論、オシュクルさえも守れるくらいに、強く。
「アレクサンドラ――お前は、変わったな」
暫し放心したように黙りこんでいたセゴールが、ぽつりと漏らすように、そう口にした。
その目から、つと一筋の涙が零れ落ちる。
「随分と、大人になった。……子どもは親の知らぬ間に成長するという、当たり前のことを、私は忘れていたようだ」
セゴールは泣きながらくしゃりと顔を歪めて微笑むと、優しくアレクサンドラを抱きしめた。