セヴィ ネグピヤトゥ
「……お前と結婚した時から…いや、結婚する前から、私はずっと決めていた。もし、自分の妻になる人物が国に戻ることを望んだら、引き留めることなく見送ってやろうと。その身を穢すこともないままに、できるかぎり最良の状態で次の結婚に臨めるようにしてやろうと。その為に、王宮の大臣たちを説得して、向こう側から婚姻関係の破棄を申し出ても何の問題もないような体制を整えていた」
「…どうして、そんなことを」
「以前言っただろう? 私は妻になる人物と、まともに交流をとることなど、諦めていたと」
オシュクルはそう言って、目を伏せた。
「私は妻になる相手に、愛して貰える自信など全くなかった……私には、他国の貴族の姫が望むであろうものなど何一つ与えてやることができないから」
潤んだ瞳が隠れてしまったのが惜しくて、アレクサンドラはそんなオシュクルを下から覗き込んだ。
オシュクルがようやく口にした内心を、少しでも受け漏らしたくなかった。
「私は、他国の女が思う様な王とは何もかもが違う、言うならば名目上の王だ。国を動かす政治的実権など、何一つ持っていない。私ができることは、どうしても必要な時にドラゴン達に頭を垂れて、国の為に動いてもらえるように懇願することだけだ。王都に戻れば屋敷も、多少の財産もあるが、それだって他国の王侯貴族には及ばない程度のものでしかない。そもそも、こうして殆どの歳月を遊動の旅に費やしている時点で、財産など持っていたとしても、全くの無意味だ。…それでも、私は一応王だから、誰よりも我々の神々であるドラゴンのことを考えなければならない。そして、第二に考えるべき存在は、遊動の旅の人員のことだ。……妻のことを、最優先で考えることすら、できない」
そこで再びオシュクルは伏せた瞼を開いた。
オシュクルの視線と、アレクサンドラの視線が、交差する。
オシュクルの唇が、微かに震えたのが分かった。
「私は…私は、お前に、何もあげられない。他国の王妃のように、多くの臣下から傅かれる権威ある王妃としての立場も。高価な宝石や、絢爛なドレスに囲まれ、身の回りのこと全てを召使に任せられるような豪華絢爛な暮らしも。……お前を誰よりも第一に考える、ただそれだけのことでさえも。……だから、こんな私はお前に相応しくないと。ルシェルカンドに戻るお前を止める権利なんてないと、そう思っていた…思って、いたのに……」
そこで、オシュクルは言葉を呑みこんだ。
アレクサンドラは、握られていたままのオシュクルの手を振り払うと、両手でオシュクルの頬を挟み込んだ。
「……言って…!! オシュクル」
アレクサンドラはくしゃりと顔を歪めて、懇願した。
「貴方の気持ちを全部聞かせてちょうだい…!! ……そうやって、言葉を止めて、本心を隠さないで…‼」
その瞬間、オシュクルの瞳から、とうとう涙が零れ落ちた。
「それでも…それでも私はお前を、失いたくないんだ……何も与えられないのに、ずっとこのまま私の妻として隣で笑っていて欲しいと、離したくないと、そう思ってしまったんだ…!!」
――ああ。ああ。
その言葉が、聞きたかった。
その言葉を、待っていた。
「オシュクル…!!」
アレクサンドラは胸の奥から湧き出す感情のままに、オシュクルに抱きついた。
アレクサンドラの目からもまた、涙があふれ出ていた。
「そんなことで悩んでいたなんて、馬鹿ね。オシュクル……私は宝石も、ドレスも、贅沢な生活も、欲しいだなんて一言だって言ったことはないじゃないの」
オシュクルの頬に伝っている涙の筋に、そっと口づける。
泣くことを忘れたと言っていたオシュクルが、自分の為に涙を流しているという事実が、溜まらなく嬉しかった。
「使用人に囲まれて、付きっ切りで世話をされる生活なんて、ごめんだわ。私は、もっと自分の意志で動ける生活がしたいの。王妃として、まるで神様か何かのように恭しく扱われるのも嫌だわ。だって、そんな取り繕った態度で皆に距離を置かれたら、淋しいもの」
啄むような口づけを落としながら、アレクサンドラは唖然とした様子で自分を見つめるオシュクルに微笑みかけた。
「ドラゴンや、旅のみんなを大切にするオシュクルが好きよ。例え、自分の心身を傷つけることになっても、それでも自らの役目を貫き続けるオシュクルが、好き。私の為に、自らの職務を蔑ろにしたら、逆に怒るわ……それに、オシュクル。貴方は私を最優先にできないと言うけれど、私は妻としてもう十分大切にして貰ってきたわ。これ以上望んだら罰が当たるくらいに」
「………」
「分かったでしょう?オシュクル……私は権威も、富も、貴方の心の全ても、望んではいないわ。私が望んでいるのは、そんなものじゃないの」
アレクサンドラはそう言って、オシュクルを抱きしめた。全身から伝わってくるオシュクルの熱が、愛おしい。
「私が欲しいのは、未来よ。…オシュクルの隣で、優しい遊動の旅のみんなに、ドラゴン達に囲まれて、笑って過ごせる将来の時間だわ。そしてオシュクルはこれからも私に、それを与えてくれる。――それだけで、十分なのよ」
オシュクルの手が、恐る恐る、アレクサンドラの背中に手を回る。
アレクサンドラは、その身をオシュクルに預けることで、応えた。
「アレクサンドラ……私はお前を、このまま妻でいて欲しいと望んでもいいのか? お前をルシェルガンドに戻るなと、そう引き留めても構わないのか? 離したくないと、そう、縋っても」
弱弱しいオシュクルの問いかけに、アレクサンドラは頷く。
「いいわ。オシュクル…望んで。引き留めて。…私を離さないで」
「……アレクサンドラ…!!」
アレクサンドラの答えを聞くなり、オシュクルはアレクサンドラを強く抱きしめた。
オシュクルの瞳からは、堰を切ったかのように、次から次へと涙が零れ落ちていた。
「お前がそう言うのなら、私はもうお前を離さない、離せない…。後から取り消しても、もう遅いぞ。アレクサンドラ。私はもう、お前の温もりを失うことなんて、できないのだから……」
「オシュクル…」
「アレクサンドラ……傍に、いてくれ。傍にいて、ずっと私の隣で、笑っていてくれ。私にお前が見ている世界を、教えてくれ。……いつか死が分かつその瞬間まで、一緒に時を重ねさせてくれ」
オシュクルの大きな手が、包み込むようにアレクサンドラの頬に添えられる。
「アレクサンドラ――『セヴィ ネグピヤトゥ』」
唇が重なる直前聞こえてきたモルドラ語は、アレクサンドラが初めて聞く言葉だった。
けれども、アレクサンドラは知らないはずの言葉の意味が、すぐに分かった。
深い口づけが終わり、唇が離れたその瞬間、アレクサンドラもまた同じ意味の言葉を口にした。
「――私も愛しているわ。オシュクル」
――その晩、アレクサンドラとオシュクルは、ようやく本当の意味で、夫婦として結ばれたのだった。




