結婚初夜
結婚式を終えたアレクサンドラは既に満身創痍であった。
一日馬車で揺られた挙句、休む暇無く結婚式が開催され、おまけにその内容がルシェルカンド人の彼女の理解の範疇を越えているのだから、疲れもする。
離れの王夫婦用の宮殿に案内されたアレクサンドラは、自国のものとは多少デザインが異なるものの、それでもやはりフカフカとして寝心地が良さそうなベッドに、今すぐ飛び込んでしまいたい衝動に耐えた。まだ、終わりではない。まだ、一番大切な行為が残っている。――初夜だ。
アレクサンドラはごく薄い夜着に包まれた、自身の体のあちこちを確認した。先程侍女に案内され、湯が貼られた広い風呂の中で徹底的に磨かれた自身の体は、文句なく美しい。きっとオシュクルだって気に入るはずだ。
アレクサンドラは、ルシェルカンドにおいての未婚の貴族女性の大部分がそうであるように、当然ながら未だ性交渉の経験がない。今から行われる行為は、完全に未知の領域のものである。けれど、だからと言って特別な恐怖心はなかった。アレクサンドラに性教育を施した侍女は、「ともかく夫になる方に全て任せればいいのです。任せていればそのうち終わります」と言っていた。既に何人も子供を産んでいる彼女が言うのだから、きっとそういうものなのだろう。
大事なものは行為そのものじゃない。無事行為を完遂して、子種を貰うことだ。流浪の王と呼ばれるオシュクルは、噂が本当ならば、遊動ばかりで滅多に王宮に帰って来ない。次に子種を貰える機会は、いつになるのか分からないのだ。ならば、今夜を逃すわけにはいくまい。敵うならば、この機会だけで子どもが出来てくれればいいのだが。
アレクサンドラはベッドに腰掛けて、自身に気合を入れるべく、両手の拳を握った。まるで戦いにでもいくかのようなその姿は、色気とはほど遠く、あまり男性が見たら性的感情を抑制するようなものだったが、幸いにしてまだ部屋の外にいたオシュクルがそんなアレクサンドラの姿を見ることはなかった。
「…アレクサンドラ様。オシュクル様がいらっしゃいました」
扉越しにかけられた侍女の言葉に、アレクサンドラは慌てて姿勢を正した。
官能的、官能的に、と自分に言い聞かせて、しなを作るように敢えてだらしなく座りなおす。だが、その体勢はどこか不自然で、しかも慣れない故に、変な箇所を吊りそうになってアレクサンドラは内心悶えつつも、無理矢理歓待の笑みを浮かべた。
「……待たせたな」
「…っ」
だが、誘惑するつもりでいながら色気に当てられたのは、アレクサンドラの方だった。
扉から現れたオシュクルもまた、アレクサンドラと同じような薄い素材の、男性用の夜着をまとっていた。昼間の衣装とは違って広く開けられた胸元からはっきり見える、オシュクルの逞しい胸板に、アレクサンドラは動揺を隠せなかった。
こんなに露出した男性を、貴族の箱入り娘であるアレクサンドラは見たことがない。ルシェルカンドの貴族社会においては、男性であっても極力肌を出さないことが美徳だったし、仮に出したとしても、嗜み程度の鍛錬しか行っていない彼らの体を見ても、おそらくここまでアレクサンドラが狼狽えることは無かっただろう。
けれど、オシュクルの体は、彼らと違う。肉体労働に慣れた、戦士の体だ。アレクサンドラが、これまで接したことがない種類の男性だ。
肌の色も違う。言葉も違う。そして筋肉の付き方も――そもそもの体の構造すら、全く違う、異国人のアレクサンドラの夫。その大きな差異を目の当たりにした瞬間、アレクサンドラの余裕は一瞬にして吹き飛んで行ってしまった。
未知の存在を前に、アレクサンドラは自分が成すべきか分からなくなる。
侍女は黙って受け入れていればいいとと言った。だけど、受け入れるとは、そもそも一体どうすれば受け入れていることが伝わるのだろうか?視線はどうすればいい?呼吸はどこでして、どんな感覚ですればいい?表情は?手の場所は?
「い、いえ待ってなんか…」
「そうか。なら良かった」
オシュクルが侍女を下がらせたことで、室内はオシュクルとアレクサンドラの二人きりになった。
オシュクルが近づくにつれて、アレクサンドラの心臓の鼓動は速くなっていった。視線がぐるぐると彷徨い、汗がとめどなく流れてくる。そんな風に動揺している姿は、格好悪いと思っても、自分でもどうしようもなかった。
オシュクルの手が、ベッドに掛かる。ついに…と息を飲んだアレクサンドラは、その時オシュクルの左手に、初夜に相応しいと思えないものが握られていることに気が付いた。
(――剣?)
それは、鞘に収まった、一振りの剣だった。
一瞬、モルドラは初夜でも儀礼を行うのかと思ったが、オシュクルの手の中の剣は鞘にも、そこから伸びた柄にも特別な装飾が成されているわけでもなく、ただひたすら素朴で武骨な実用的な剣のように見えた。もし儀礼として用いるなら、それこそ王宮や婚礼衣装のような彩色の、華やかなものを使うだろう。実際、結婚式中に剣舞で用いられた剣は、そんな感じであった。
ならば、何故、今オシュクルは剣を握っているのか。
(――っ!!まさか、私を殺しに…!?)
赤面していたアレクサンドラの顔は、瞬時に蒼白に変わった。
アレクサンドラとの婚姻が不服だったオシュクルが、婚姻を無かったことにする為に、初夜の間にアレクサンドラを殺して無かったことにしようと考えたのだろうか。
そして不慮の事故のように見せかけ、盛大な葬儀を行うことで、ルシェルカンドへの義務を果たしたことにすると決めたのだとしたら、それは、ありえない話ではないように思えた。政略結婚の末に、血生臭い悲劇が起こることも世の中にはしばしばあるらしい。流石のアレクサンドラも、剣を目の当たりにして、「私は美しいのだからそんなこと起こるはずない」だなんて楽観的なことは考えていられない。
だが、もしそうだとしたら、どうすればいい。アレクサンドラは、碌な護衛術も習っていない、非力な女だ。鍛え上げた筋肉を持つオシュクルに、どうやっても敵うとも思えない。
ならば隙をついて逃げるか?…逃げて、どこへ行けというのだ。言葉も分からない、頼れるものもいない、モルドラという異国の地で。逃げ切れたとしても、死より悲惨な未来が待っているような予感しかない。ならば、いっそ、ここでオシュクルにばっさり切り捨てられたほうが、ちゃんと葬式をあげて貰えるだけ、まだましなのかもしれない。
オシュクルがベッドに身を乗り上げて、アレクサンドラの方へ近づいてきた。その手には、やはり握ったままの一振りの剣。
(もう駄目だ…)
覚悟を決めて、アレクサンドラが固く目を瞑った瞬間、オシュクルの低い声が耳元に響いた。
「…そんな風に嫌がらなくても、私はお前に手を出すつもりはない」
(………え?)
言われた言葉の意味が解らず、恐る恐るアレクサンドラが目を開くと、眉間に皺を寄せたオシュクルが大きく溜息を吐いて、ベッドの上…アレクサンドラとオシュクルのちょうど真ん中のあたりに鞘に刺さったままの剣を置いていた。
「だが、例え形ばかりの婚姻であっても、一晩くらいは共寝をしておかないと、随分と外聞が悪いものらしい。…一晩だけ、どうか私と同じベッドで寝ることを我慢してくれ。私は明日には王宮を経って、また遊動の旅に出る。そうなったら、お前はこの離宮で好きに過ごして構わん。制限はあるが、出来る限りの望みは叶えてやる。だから、今日だけは私の言うことを聞いてくれ」
「………はい?」
「心配するな。私は今剣を置いた場所以上に、お前に近づくことはない。それでもなお不安なら、護身用の短剣をやろう。もし私がお前に何かをしたら、遠慮なくそれで刺せ」
オシュクルの言っている意味が解らない。これも異文化が故であろうか。
よもやこれはモルドラ流のジョークなのではと疑ったが、アレクサンドラに向けられるオシュクルの黒い瞳は、どこまでも真剣だった。