突きつけられるもの
そんなことないと、そう言おうと思った。
セゴールは痩せたと言ったが、その代わりに以前と比べて確実に筋肉がついた。引き締まって見えるだけで体重自体はそう変わってはいないだろう。
日に焼けたと言っても、日除けの傘なしで屋外に出ることがなかった以前が病的なまでに蒼白かっただけだ。アレクサンドラ自身は、今の自身の健康的な肌の色を気に入っている。
テントの生活だって、慣れれば悪くない。柔らかいベッドなんてなくても、人間疲れれば眠れるし、布団があれば十分体を休められる。何の問題もない。
そう言おうと思ったのに、アレクサンドラはそれを口にすることは出来なかった。口にすることができない程、激しい衝撃を受けていた。
(お父様の腕の中は……こんなにも狭かったかしら)
オシュクルの腕に抱きしめられ慣れたアレクサンドラにとって、セゴールの腕の中はひどく狭く、頼りないものに思えた。
かつてはあんなに広いと感じていた、腕の中だったのに。
アレクサンドラにとって、父親であるセゴールはいつも大きな存在だった。強くて、頭が良くて、頼もしくて。安心して自分の全てを守ってくれる、庇護者だった。絶対的な存在だった。
それなのに――ああ、それなのに。
今、父の姿は、こんなにも小さい。
「アレクサンドラ……帰って来い。今度こそ、私がお前を守ってやるから。もう二度と誰にもお前を傷つけさせはしないから」
そう言って、声を震わせて泣く父親の姿は、どこにでもいる初老の男にしか見えなくて。
「お前がいないと私は淋しい……とても、淋しくて仕方ないのだよ」
『お前は確かにどうしようもなく愚かだ。その愚かさ故に、多くの人はお前を批難する。…けれども私は、その愚かさに幾度も救われてきたのだよ。お前の裏表がない愚かさは、魑魅魍魎蔓延る王宮で、虚飾と猜疑の中生きる私にとって、安らぎだったのだよ。お前といる時だけ、私は心の安寧を得ることが出来た』
ルシェルカンドを発つ前夜に、セゴールが口にした言葉が、アレクサンドラの脳裏に蘇る。
あの時、アレクサンドラはその言葉を、単純に父親の愛の言葉だと思っていた。追放されるアレクサンドラの存在を、肯定する為に発せられたのだとしか思っていなかった。
だけど、その言葉は、今は別の意味を持って、アレクサンドラの胸に響く。
アレクサンドラは今になってようやく、父もまた、自分同様に弱い一人の人間に過ぎないことに気が付いたのだった。
「……でも。でも、無理よ……」
ようやく紡ぐことが出来た言葉は掠れて震えていた。
「私は私をあんなに憎んでいるルーディッヒ様と結婚なんて、無理だわ……!!」
それは自分に言い聞かせる為の言葉でもあった。
アレクサンドラを拒絶し、陥れたルーディッヒと結婚なんて、できる筈がない。そんな結婚、不幸しか生まない。
――だから、仕方ないのだ。どうしようもないのだ。
アレクサンドラが、父親の願いを受け入れられなくても、仕方がないのだ。
「――ルーディッヒは、アレクサンドラ様を憎んではいませんよ」
今までずっと黙っていたリヒャルトが、突然口を開いた。
「あれは憎んでいるというよりも、単純にアレクサンドラ様を妬み、羨んでいるだけです」
「……どういうこと?」
「ルーディッヒは幼い頃から王位争いの渦中に巻き込まれて、子どもであることを許されなかった男です。親からの愛も満足に受けることが出来なかった男です。だからこそ、セゴール殿の愛を一心に受けて、子どものようなまま生きているアレクサンドラ様が許せなかったのでしょう」
リヒャルトが口にするルーディッヒの姿と、アレクサンドラの記憶の中のルーディッヒの姿がかけ離れていて、アレクサンドラは困惑する。
そんな男は知らない。
アレクサンドラが知るルーデッィヒは、いつもアレクサンドラを見下し、冷たい目を向けている男で。感情のままに暴走するアレクサンドラを、心底馬鹿にして嫌い抜いていて。
そんなルーディッヒが内心ではアレクサンドラを妬んでいたなんて、とても信じられる話ではなかった。
「……まぁ、そう言った所で、アレクサンドラ様がルーディッヒを受け入れられない気持ちは十分理解できます。アレクサンドラ様にとって、それが憎しみであれ妬みであれ、理不尽で一方的な感情であることは違いないのですから。ルーディッヒとて、当然自分が受け入れられる筈だなんて思っていないでしょう」
「なら…どうして……」
「だからこそ、ルーディッヒはこう言ったのです。――自分が嫌ならば、アレクサンドラ様が新たに婚姻を結ぶ相手は、腹心である私でも構わないと。それでも十分に、セルファ家との結びつきは作れますから」
アレクサンドラは信じられない思いで、リヒャルトを見つめた。
リヒャルトの表情は相変わらず無表情で、自分の婚姻のことを口にしているにも関わらず、そこに一切の感情の乱れは見られなかった。
紅色の瞳が、外す事なく真っ直ぐにアレクサンドラに向けられる。
「貴方は…それでいいの?」
一度国外追放されたうえで、いくら実際の夫婦交渉はなかったとはいえ(それすらこの男は知らないのだ)他の男と婚姻関係を結んでいた女を、妻にするだなんて。
リヒャルトの生家であるドーリアス家はセルファ家よりは少し落ちるとはいえ、歴史が古い名門貴族の系譜だし、何より彼には卓越した魔術の才がある。顔立ちだって整っているし、その少々常軌を逸脱した性格の分を差し引いても、縁談なんて引く手数多だろう。
ルーディッヒとだって腹心という立場ながら、上下関係なく対等な友として接している。寧ろ有能なリヒャルトを失って困るのは、ルーディッヒの方だ。命令があったからって、アレクサンドラと婚姻関係を受け入れる必要なんてないだろうに、何故。
「……幾度も貴女様を讃える言葉を重ねましたのに、伝わっておりませんでしたか? 私はアレクサンドラ様のことが好きですよ」
「っ⁉」
「まぁ、友であり王族であるルーディッヒに逆らってまで庇いたいと思う程ではありませんが」
「…………貴方は本当、嫌になる程正直な人ね」
一瞬早鐘を打ち掛けた心臓は、瞬く間に鎮静し、アレクサンドラはため息を吐いた。
そうだ。リヒャルトはこういう男だ。
思いがけない告白に動揺していたら、こちらが馬鹿を見る。
「ですが――夫婦として共に時を重ねて行けば、いつかそんな風に貴女を愛せるとは、思っています」
真剣な表情で重ねられた言葉に、再び心臓が跳ねる。すっかり脱力していただけに、思いの外その言葉はアレクサンドラの心を揺さぶった。
「私は貴女が好きですよ。その美しさは勿論ですけど、ルーディッヒが嫌った感情的な部分にも好感を持っております。私は嘘がつけないから、嘘が上手な人は苦手です。感情を表に出すのが苦手だから、くるくると表情が変わる貴女を見ているのは楽しい。――それじゃあいけませんか?それだけで、私にとって婚姻を受け入れるには十分過ぎる程の理由になるのですが」
アレクサンドラは思わず言葉に詰まって、自身の唇を噛んだ。
政略結婚が当たり前の、ルシェルカンド貴族において、それだけの好意を示された婚姻は、寧ろ恵まれた方だろう。
王族にすら嫁げる身分のアレクサンドラだが、それでもリヒャルトとの縁談は良縁だと言える。出戻りという今の状況を考えたら、破格の縁談と言ってもいい。
それにアレクサンドラは、自身のペースを乱されるリヒャルトを苦手としていたが、人間として嫌いではなかった。寧ろ、再会した今は、好感さえ抱いている。
(リヒャルトは……どこか、オシュクルに似ているわ)
その容姿も、体形も、喋り方も違う。
けれど、表情の乏しさと、発せられる嘘がない真っ直ぐな言葉は、オシュクルのそれを思わせた。
もし夫婦になれば、アレクサンドラはオシュクルを愛したように、いつかリヒャルトのことも愛せるのかもしれない。オシュクルに対する愛程、深く激しくなくても、夫婦として共に時を重ねていくには十分な情愛を抱けるかもしれない。
その事実が、アレクサンドラには苦しくて仕方なかった。
「……まず、このことを話さないといけない人がいるの」
アレクサンドラは泣きそうな顔で無理矢理笑みを作って首を横に振った。
「それまでは……私からは、何も言えないわ」