ルシェルカンドからの使者
『お初にお目にかかります。モルドラの国王陛下。アレクサンドラの父、セゴール・セルファと申します。事前連絡無しに突然ご訪問した無礼を、どうかお許し下さい。一応貴国の王宮より、入国の許可証は書面にて受け取っております』
完璧なモルドラ語の発音で挨拶の口上を述べたセゴールは、モルドラ式の礼をとって頭を垂れた。
ルシェルカンドの宰相に相応しい、流れるように自然な仕草だった。
「……ルシェルカンド語で構わない。私は常にアレクサンドラと話して慣れているが、セゴール殿はモルドラ語に慣れていないだろう」
「ならお言葉に甘えて、ルシェルカンド語で話させて頂きます」
シュレヌから降り立ったオシュクルとセゴールが対峙した。
それぞれの黒い瞳が、それぞれの感情を宿して揺らめく。
「……それで、セゴール殿は何故このような場所に?」
「親が娘に会いに来るのに理由がいりますか。……そう言ったところで信じては頂けないでしょうね。大体理由は察せられているのではありませんか?」
「……ああ」
オシュクルの視線が、先ほどまでセゴールが隠れていた茂みの方へと向いた。
「……そこに、もう一人いるな」
「流石、武勇に優れているとご評価のオシュクル陛下。彼奴の魔法を持ってしても、誤魔化せませんか」
隠し切れぬ笑いを滲ませながらセゴールがそう口にした瞬間、何もなかった筈の空間からまるで霧が晴れたかのように突然人が現れた。
「……申し訳ありません。出る機会を失ってしまって」
現れたのは、銀色の長い髪を揺らめかせた、端正な顔立ちの男だった。
男は無表情で謝罪の言葉を述べながら、ぎこちない仕草でモルドラ式の礼を取る。
アレクサンドラは、精巧なビスクドールのようなこの男を知っていた。
「リヒャルト!!何故、貴方がここに!?」
男の名は、リヒャルト・ドーリアス。
ルシェルカンド王宮一腕を持つの宮廷魔法使いであり、アレクサンドラのかつての婚約者、ルーディッヒの旧友であり、腹心である男だ。
「お久しぶりです。アレクサンドラ様。モルドラの大地の上でも、貴女様は変わらず大輪のロズアの花がごとく麗しい。貴女様とこうして再び逢いまみえることができたことを、私は神に心から感謝しております」
「……相変わらず表情と言葉が伴っていないわね。リヒャルト。そんな死んだ魚のような目でお世辞を言われても、全く嬉しくないわ」
覚えがあるやりとりにアレクサンドラはげんなりと顔を歪めた。
リヒャルトは、オシュクルやクイナに負けず劣らず表情が乏しいが、その舌だけは非常に滑らかに回って、次々に軽薄な言葉を紡ぎ出してくる。
見た目と言動にギャップがあるこの男がアレクサンドラは元々苦手だったが、久しぶりの邂逅の分よけいに疲れる。
「……心からの本心ですのに」
「余計な口上は結構よ。そう。貴方がお父様をここまで連れて来たのね……そうね。視標となったのは私がルシェルカンドから持って来た、セルファ家に代々伝わる指環、と言ったことかしら? 当主であるお父様の持つ指環と対になっている物だから、貴方程の腕の魔術師ならば、お父様の協力があれば転移魔法でここまで移動することもできたでしょう」
「流石アレクサンドラ様。美しいだけでなく、実に聡明であられる。ああ、この聡明さが、感情的になられている時には全く機能しないのが、実に口惜しい。もし貴女様がもう少し理性的であられたなら、ルシェルカンドは生ける宝石がごとき貴女様を、失わずに済んだというのに」
「私を馬鹿にしているの…いえ、馬鹿にしているのよね、貴方は」
「……心からの本心ですのに」
「だから、馬鹿にしているというのよ!!」
この男の性質が悪い所は、嫌味でなく、全てが本心で言っているということだ。
魔法だけに突出した才を持つリヒャルトは、基本的に空気を呼んで行動するということをしない。ただ自分が思うがままに振る舞い、思うがままに言葉を紡ぐ。そこに計算は一切含まれていない。
浅慮だとかそういう問題ではなく、そういう男なのだ。そしてその家柄と突出した才故に、それが許されてしまう男なのだ。…なんせ、エルセトですら局地的にしか行えない稀少な転移魔法を、指環の存在があったとはいえ、容易にやってのける天才だ。多少社会性が欠乏していても、国としては重宝せざるを得ない。
そういうリヒャルトだからこそ、腹が黒くて計算高いルーディッヒと、逆に馬が合うのかもしれない。
「……それで、一体どういう要件でお父様と貴方はここに来たというの?」
オシュクルはその要件を察しているようだが、アレクサンドラにはさっぱり分からない。
相変わらず掴みどころにないリヒャルトに対する苛立ちもあり、アレクサンドラの顔は酷く不機嫌そうに歪んだ。
リヒャルトはそんなアレクサンドラを気にする様子も見せることもなく、その緋色の瞳をオシュクルに向けた。
「この度は、モルドラ国王陛下に提案があって参りました」
「…提案?」
リヒャルトが述べた言葉は、アレクサンドラにとって想像を絶する内容であった。
「モルドラ国王陛下。無礼を承知で申し上げます。――お望みであれば新しいルシェルカンドの貴族女性を妻として献上致しますので、どうかアレクサンドラ様との婚姻関係を解消しては頂けないでしょうか」
頭の中が、真っ白になった。
「――婚姻解消って、一体どういうことなのよ!! お父様‼」
凍りついた空気を打破するように、セゴールが口にした「まずは娘と三人だけで話しをさせて下さい」という要望が叶えられ、アレクサンドラはセゴールとリヒャルトと共にテントの中に連れて来られた。
放心していたアレクサンドラは、テントを出ようとするオシュクルの「申し訳ないが、テント内では魔法が行使できないようにさせて頂く。話が終わったら呼んでくれ」という言葉と共に我に返り、セゴールとリヒャルトを糾弾した。
「落ち着け、アレクサンドラ」
「落ち着いてられるもんですか‼ 突然訪ねて来て何を言いだすかと思ったら、婚姻解消ですって!? ふざけているわ!! 私のことも、オシュクルのことも、いいえ、モルドラという国のこと自体馬鹿にしているわ!!」
頭の中がぐちゃぐちゃで、大声で泣き喚きたい気分だった。
今の状況も、セゴールやリヒャルトの気持ちも、全く理解出来ない。理解したくもない。
けれども、何よりも理解出来ないないのは。
(どうして…どうして、オシュクルは、あんなに平静でいられるの⁉)
オシュクルが、リヒャルトの言葉を僅かの動揺さえ滲ませることなく、聞いていたこと。
セゴールの願いをすぐに承諾し、当たり前のように三人で話をする場を設けたこと。
まるで、いつかこんな日が来ることを知っていたかのように。
「落ち着いて聞かんか!! アレクサンドラ‼……今回の婚姻を行う際、ルシェルカンドとモルドラは特別な取り決めをしていた。それに従って、提案をしたまでだ」
「……取り決め?」
「ああ。【王と王妃、双方の合意さえあれば婚姻解消は自由とする。婚姻が解消されたことの責めを、双方の国が負うことがない】――それが婚姻前に、モルドラ王宮とルシェルカンド王家が交わした取り決めだ」
アレクサンドラは絶句した。
そんな話、知らない。そんな話、聞いていない。
誰も――オシュクルだって、そんなことアレクサンドラに教えてくれなかった。
「……言っておくが、この取り決めは元々はモルドラ国王の口添えがあってのことだと聞いているぞ」
さらに続けられたセゴールの言葉が、アレクサンドラの胸に深く突き刺さった。
(オシュクル……貴方は最初から。最初から、私といつか別れるつもりで結婚したというの)
オシュクルは、いつだってアレクサンドラに優しかったが、一度だって、妻としてのアレクサンドラを求めることは無かった。
そこに、全ての答えが出ている気がした。