新たな火種は突然に
口元には堪えきれない笑みを浮かべ、冷静さを忘れて駆け足でクイナのもとへ向かおうとするエルセトをオシュクルが宥めて止める。
エルセトは不承不承に「……まあ、クイナもグゥエンも二人きりで話したいことがたくさんあるでしょうからな」と頷いていたものの、その顔には明らかに不満がありありと滲み出ていた。
本当は一刻も早くその眼でクイナが【トゥズルセア】に選ばれたことを確かめたいに違いない。それだけエルセトも、クイナのことを気にしていたということなのだろう。
「……クイナへの祝いは後にして、まずは皆に知らせてやったらどうだ?特にフレムスは安心するだろう」
「それが、いいですな!!フレムスにはそれがしが伝えましょう!!……おっほん。その、このようなことで、王たるオシュクル様を患わせるわけにはいきませんからな。伝令は臣下の仕事です」
そう言って意気揚々と歩き出したエルセトに、思わずアレクサンドラは聞こえないように笑ってしまった。
素直でないエルセトも含めて、遊動の旅の人達は、本当に皆優しくて温かい。
アレクサンドラは胸の奥にある温かさが一層広がっていくのを感じていた。
(……オシュクル。本当に運命に感謝すべきなのは私だわ。私の方だわ)
エルセトに引き摺られるように先に歩くオシュクルの背中を見つめながら、アレクサンドラは先程オシュクルの指が触れた自身の唇に触れた。
与えられた運命には、心から感謝しなければならない。
運命がアレクサンドラをモルドラに嫁がせてくれなかったら、アレクサンドラはこの胸に広がる熱を――どうしようもない程の「愛おしさ」を感じることは出来なかっただろうから。
ずっと淋しかった。淋しいのが当たり前だと、それが高位貴族女性が負うべき宿命だと、自分に言い聞かせて生きていた。
愛がある結婚も、感情をぶつけ合うことが出来る友情も、ずっと絵空事のように思っていた。
愛してくれる父親は不在がちで滅多に家におらず。優しい使用人達はあくまで使用人の領域を出る事は無く。
そもそも与えてくれた彼らの愛情も、他家に嫁げばやがて失うものだと知っていたから、アレクサンドラはそこに心からの安らぎを見出すことは出来なかった。
幼い頃から求めて、求めているのにそれを口に出すことも出来ないままに諦めてしまっていたもの。その全てが、今のアレクサンドラの手の中にはある。
心から愛していると言える夫も。
唯一無二の親友も。
アレクサンドラを王妃として扱いながらも、ちゃんとアレクサンドラ自身を見てくれる優しい人々も。
アレクサンドラをただ一人のパートナーに選んでくれた、幼いドラゴンも。
全てモルドラに嫁がなければ得られなかった物ばかりだ。
かつて常にアレクサンドラを苛んでいた淋しさは、いつの間胸の内からなくなっていた。そんな寂しさなぞ感じないくらい、皆が傍にいてくれた。
(神さま…本当にありがとうございます)
神なぞ信じていなかったが、それでももし運命というものをアレクサンドラに与えてくれた存在がいるのなら、アレクサンドラは心の底から感謝をしたい。
例えその背景にクイナの不幸があったのだとしても、それでも感謝せずにはいられない。
「……どうした。アレクサンドラ? 足が止まっているぞ」
先に歩いていたオシュクルが振り返る。いつの間にかエルセトは先に言ってしまったらしい。
「……ううん。なんでもないの」
首を横に振って微笑むと、アレクサンドラはオシュクルが伸ばしてくれた手を掴む。
触れた場所から、一層温かいものが広がっていく。
「ただ、私はどうしようもなく幸せだなと、そう思っただけよ」
愛おしさに上限はあるのだろうか。
一昨日より、昨日。昨日よりも今日。
時間が経てば経つほど、アレクサンドラは取り巻く全てを愛おしくなっていく。
今日覚えた筈の罪悪感ですら、時が経てばきっと愛おしくなるのだろう。
この愛おしい人達と、これからも一緒に時を重ねて行きたい。
この胸の愛おしさを、もっと膨らませていきたい。
愛おしいもの達の中で、一層特別に愛おしいオシュクルと共に。
「――まぁ。幸せであるけれど、全く不満がないかと言ったら嘘になるわよね」
【…アレクサンドラ?なんのはなし】
「ううん。ノーティ何でもないの。こっちの話よ」
アレクサンドラは誤魔化すようにノーティを抱え上げて抱きしめながら、こっそりと溜息を吐いた。
クイナが正式にグゥエンの声を聞いたことはすぐに遊動の旅の人員に広がり、クイナは盛大な祝福と共に【トゥズルセア】に迎えいれられた。
クイナは少し照れくさそうだったが、それでも誇らしげに新たな役職を受け入れた。
現在はクイナも交えた【トゥズルセア】の合同飛行訓練で、まだちゃんと空を飛ぶことは出来ないノーティとアレクサンドラはお留守番だ。
その事実自体には全く不満はない。
アレクサンドラが不満に思っているのはオシュクルのことだ。
(やっぱり夫婦なのだから…オシュクルのもっと色々な表情が見たいわ)
人間とは贅沢なもので、いくら満ち足りていても、ついついそれ以上のことを望んでしまう。アレクサンドラもまた、例外ではなかった。
オシュクルのもっと色々な表情が見たい。
アレクサンドラが知らないオシュクルを、もっと知りたい。
オシュクルに、もっともっと近づきたい。
贅沢な願いは、次から次に膨らんで、それこそ上限を知らないようだ。
(泣けないと言ったオシュクルの涙をいつか見てみたいだなんて……ひどい願いかしら)
オシュクルが涙を流すような不幸は彼の身に起って欲しくないと思う。
けれども一方で、オシュクルが目の前で涙を流せるくらい、心許せる存在になりたいとも思ってしまう。
次にオシュクルが涙を流すような場面で、アズリスが死んだあの時のように、泣き方を忘れただなんて淋しいことを言わせたくないのだ。
その為にアレクサンドラは、一体何が出来るだろう。
【……あ、へんなむしだー。おいしいのかな?】
「…って、ノーティ‼ ちょっと待ちなさい!!」
反応が薄いアレクサンドラに焦れたのか、ノーティはするりとアレクサンドラの腕を抜け出して滑空しだした。
慌ててアレクサンドラは追いかけるも、最近飛行が上達しつつあるノーティの速度には簡単に追いつけない。
まずいことに、現在の遊動の旅のルートは、荒野地帯を抜けて森林地帯に差し掛かっていた。隣接する森はそれほど広いものではないが、それでも我武者羅に進めば迷ってしまうかもしれない。
「ノーティ‼ 勝手にどこか行かないで‼ 迷ったらどうするの!!」
【……ごめんなさい】
幸い、森に入る前に何とかノーティを捕獲することが出来た。
アレクサンドラはしょぼんと落ち込むノーティを前に、眦を吊り上げる。
ここで甘い顔を見せてはいけないということを、アレクサンドラはこの数日間ですっかり学んでいた。
「……帰ったらクイナとオシュクルに言って、グゥエンとシュレヌに叱って貰うように伝えて貰うから」
【え⁉ そんな、やめてよ!! おとうさんとおかあさん、おこるとすっごくこわいんだよ!!】
「駄―目。ノーティは少し自身の無鉄砲さを反省しなさい!!」
【アレクサンドラ~!!】
泣き落としをしようとするノーティを無視して、アレクサンドラはノーティを小脇に挿んで森から背を向けた。
だがテントに戻ろうとした瞬間、アレクサンドラのすぐ後ろに合った茂みが風もないのに揺れる。
「っ⁉」
【アレクサンドラ‼】
次の瞬間、アレクサンドラは突如後ろから現れた何者かに拘束をされていた。
予想外の凶行に、アレクサンドラは咄嗟に首に掛けていたシュレヌの鱗を握って叫んだ。
「いやああああああああ!! 離して、はなしてよぉおおお‼」
「…ま、待てアレクサンドラ‼ 落ち着け、私だ!!」
「オシュクル、オシュクル、オシュクル‼ 助けに来て‼」
「やめろ‼ 王を呼ぶな!! モルドラの王がいない状態で、お前に話したいことがあったから、こっそりここに来たんだ!!」
襲撃犯の声は、アレクサンドラにとって聞き覚えがある懐かしい声だったが、混乱するアレクサンドラは気づかなかった。
アレクサンドラが叫ぶのを襲撃犯が必死に宥めようとしていると、唐突に二人の頭上が暗くなった。
「――アレクサンドラ‼ 無事か⁉」
「オシュクル‼」
シュレヌに跨ったオシュクルが颯爽と空から飛んで来た瞬間、襲撃犯の手が力なくアレクサンドラから外された。
慌ててその手から抜け出したアレクサンドラは、そこでようやく襲撃犯の顔を目の当たりにした。
「……お父様?」
大きなため息と共に肩を落としていたその人物は、アレクサンドラの父、セゴール・セルファに他ならなかった。