運命に感謝を
足元が、がらがらと崩れ去って行くような気分だった。
アレクサンドラの考えが正しければ、クイナの今までの人生を歪めてしまったのは、アレクサンドラということになる。
アレクサンドラがいなければ、クイナはグゥエンの声を聞くことが出来た。
アレクサンドラがいなければ、クイナはグゥエンに選ばれなかったことに苦しむことがなかった。
アレクサンドラがいなければ、クイナは感情を表に出すことがなかった。
(私の存在が、クイナの人生をおかしくしたというの?)
「アレクサンドラ、それは……」
自らが知らずに背負っていた罪の大きさに震えるアレクサンドラの耳には、諭すように隣から発せられたオシュクルの声も、届かない。
【アレクサンドラ…】
慰めるように頬を舐める、ノーティの心配そうな声も、届かない。
今のアレクサンドラには、誰の声も届かない。
「……気にする必要なんて、全くない…ですよ。アレクサンドラ様」
――ただ一人、アレクサンドラが人生を狂わした筈の、親友の声、以外は。
「……もし、私が恨む相手が、いるならば…アレクサンドラ様ではなく、グゥエンの方、でしょう」
そう言いながらも、クイナは愛おしげにグゥエンの口先を撫であげる。
「だって、私とオシュクル様、どちらも王になる確率は半々だった…100%ではない未来の為に、グゥエンは私に声を聞かせてくれなかった…」
「…だけど、クイナ‼ そもそも私がいなければ…」
「それでも。…私はグゥエンを恨もうとは、思いません…」
ゆっくりと首を横にふったクイナは、心底幸福そうに微笑みながら、その上体をグゥエンに預けた。
「もし全てが運命だとしたら…この時間もまた、私とグゥエンにとって必要な、時間だったのでしょう……あの時間があったからこそ…選ばれず苦しい時間があったからこそ、なお、私は今、グゥエンが愛おしい」
そんなクイナの言葉に応えるように、グゥエンはクイナの頬に顔を摺り寄せて、低い声で鳴いた。
きっと【トゥズルセア】であるクイナにしか聞こえない声で、何かを伝えているのだろう。
クイナの口元が、一層幸福そうに綻んだ。
「過去の苦しみも、涙も、もう、いい…過去のことは、全て、グゥエンの声を聞いた瞬間、溶けて、消えた……私の胸にあるのは今、幸福感だけです…」
「クイナ……」
「グゥエン、グゥエン。……もっと、貴方の言葉を、聞かせて……私、貴方と話したいことが、山ほどある……」
額を合せて、そのままグゥエンとの会話に集中しはじめたクイナに、アレクサンドラは何も言えなかった。
立ちすくむアレクサンドラの肩を、そっとオシュクルが叩く。
「……今は、クイナをグゥエンと二人きりにしてやろう。きっと誰にも邪魔されず話したいことがあるだろうから」
オシュクルの言葉にアレクサンドラはノーティを地面に降ろして、頷くことしか出来なかった。
「……アレクサンドラ。そんな顔をするな。クイナも気にするなと言っていただろう?」
「だけど……」
その場を立ち去ったものの、未だ立ち直れていないアレクサンドラにオシュクルは大きく溜息を吐いた。
「……アレクサンドラ。加害者意識も過ぎると、人の気分を害するぞ」
「っ」
「クイナは今永年の宿願が叶って、幸福の絶頂にいる。だが親友であるお前がそんな顔をしていたら、素直に幸福に浸ることが出来ないだろう。アレクサンドラ。お前はクイナの幸福に水を差したいのか?」
「っ違……私はそんなつもりは…」
「――ならば、笑え。アレクサンドラ」
オシュクルはきつい口調で言い放つと、その黒い瞳を真っ直ぐにアレクサンドラに向けた。
「グゥエンの【トゥズルセア】が決定した。クイナの幼い頃からの夢が叶った。…めでたいことだ。祝うべきことだ。お前はその事実を、クイナの親友として、モルドラの王妃として喜ぶべきだ。いつまでもそんな顔をして、自分を責めるな」
アレクサンドラは俯いて唇を噛みしめた。
そんな簡単に割り切れるものか。
アレクサンドラはクイナの過去の苦しみを、よく知っている。それどころか、その傷口に指を入れて、広げさえした。
そもそもの全ての元凶は、アレクサンドラの存在そのものだったというのに。
そんな自分を、どうして責めずにいられる?
どんな顔をして、クイナがグゥエンの【トゥズルセア】に選ばれたことを、のうのうと祝福できるというのだ…!!
下を向いて拳を握るアレクサンドラに向かってオシュクルが発したのは、予想外の言葉だった。
「……それに、私は全てが運命だとしたら、感謝しなければならないと思っている」
「っどうして‼」
「お前に、会えたからだ」
一瞬、アレクサンドラは何を言われたのか理解出来なかった。
目を見開いて、ぽかんと口を開けたアレクサンドラの唇を、傷がないか確かめるかのようにオシュクルが親指で撫でる。
いつの間にか縮まっていたその距離に、アレクサンドラは狼狽えた。
「クイナが王にならなかったから、私はお前を妻として迎えられることが出来た。お前と一緒に、こうして旅が出来る。……それだけで私は運命に感謝したい」
向けられるオシュクルの視線は、声は、口元に浮かべられた微笑みは、ひどく優しいものだった。
かあっと顔に熱が集中するのが分かった。
「私の妻になったのが、お前で良かった。……お前が、良かった。いつだって私の隣で笑ってくれるお前だからこそ。だから、お前が妻になる未来を与えてくれた運命は、例えお前自身には不本意なものだったとしても、私にとってはこの上ない僥倖だったと、そう思う」
オシュクルの言葉は、まるで砂漠に降り注いだ雨のように、アレクサンドラの胸に染みわたった。
染みわたった所から、温かいものが溢れ出て広がっていくのが分かった。
胸に広がるこの感情を、今のアレクサンドラは知っている。モルドラに来てから…遊動の旅を初めてから、知ったこの感情の名は。
「オシュクル…私もよ」
唇から出た声は、震えていた。
けれどその震えの理由は先程とは全く違う。
「いえ…私の方こそ……」
「――で。某はいつになったらここを通してもらえるのですかな?」
突如背後から聞こえてきた言葉に、アレクサンドラは驚いて後ずさった。
「夫婦仲がよろしいのは大変結構ですが、いちゃつくなら、このように爽やかな朝日の下ではなくて夜テントの中で存分になさったらいかかがですかな?某のような、善良で貞淑な臣下が、うっかり通りがかることもありますので」
振り向いた先には、苦虫を噛み潰したような表情に無理矢理笑みを張り付けているエルセトが、苛立たしそうにぱたぱた片足で足踏みをしていた。
「……おはよう。エルセト。……さすがに今の会話の途中で話しかけてくるのは無粋ではないか?」
「おはようございます。オシュクル様。……それがしとて話掛けたくて話しかけたわけではありませぬぞ。断じて。古から、人の恋路を邪魔する者はドラゴンの尾に叩かれて飛んで行けと言いますからな。しかしながら、それがしにも事情がありましてな。どうしてもオシュクル様の脇を通って行かねばならないので、仕方なくお声掛けしたまでです」
「事情?」
「ええ…神々の群れの魔力に、何らかの異変があったのを感じまして。早急に原因を確かめねばと向かっている所です」
「流石エルセト。魔力に関しては鼻が利くな。……だが、心配ない。魔力の乱れは、単に新たな【トゥズルセア】が誕生したからだ。セルネは……まぁ恐らく寝ていて気付いていないのだろうな」
「……それがしの神の寝坊癖のことは放っておいて下さい。あれでも、ちゃんと出立の時間になったら覚醒されるのです……それよりも新たな【トゥズルセア】?どういうことです?」
「クイナが、グゥエンの声を聞いた」
「っ⁉そ、それは誠ですか⁉……い、いや、まぁ当然と言えば、当然の結果ですが、いや、その…誠に誠ですか?」