結婚式
奏でられた音楽に合わせて、アレクサンドラと客人たちの間に、割り込むように入ってくる男女の姿があった。
その手には剣が握られており、ルシェルカンドと繋がりを持つことを面白く想わぬ刺客か何かであろうかと思わず身じろくも、オシュクルが平静としている為慌てて姿勢を正す。
モルドラ人らしい黒い髪と目をした浅黒い肌の男女は、モルドラ語で何かを唱えながら剣を片手に舞いだした。――剣舞だ。
良く見れば、彼らが纏う色彩鮮やかな衣装は、今アレクサンドラとオシュクルが着ている婚礼衣装を簡略化したもののように見えた。
左右非対称な動きで舞っていた男女は、やがて剣を合わせ始める。音楽は打楽器を基調とした勇猛なものに変わっていた。時には押し、時には押されながら、彼らは軽やかに戦いの舞を踊る。その動きは真剣を使っていても全く危うさを感じさせないもので、まるで剣は彼らの手から生えているかのような自然さで、舞に合わせて煌めいた。
モルドラ語を理解出来ないアレクサンドラには、その舞が意味する所は解らない。けれどその舞は、思わず今の状況も忘れて見惚れてしまう程、美しかった。中でもアレクサンドラの目を奪ったのは、女性の方だった。
舞を踊る、その女性は驚く程美しかった。否、顔の造形だけならば、少なくともルシェルカンドの基準で言えば、アレクサンドラの方が美しいだろう。だが、彼女には、アレクサンドラが持たない妖艶さと、力強さがあった。
露出が少ない衣装を着ていても分かる豊満な体と、しなやかな筋肉の動き。だがそこに異性に向ける媚びのようなものは、一切感じられない。だがそこには、無意識に男性の劣情を擽る様な、どこかストイックな色香があった。
不意に舞う彼女の視線が、アレクサンドラのそれとぶつかった。その瞬間、アレクサンドラは自身が我を忘れて、一心不乱に彼女の舞に没頭していたことに気が付いて赤面した。
(…私が、自分以外の女性に見惚れるだなんて)
それは自分自身の美しさに絶対的な自信を持っていたアレクサンドラにとって、酷く屈辱的な事実であった。
アレクサンドラには似合わない鮮やかな色彩の衣装も、彼女の艶やかな黒髪には、酷く似合っていた。その事実が、アレクサンドラの劣等感を一層煽った。
彼女の赤い唇が、アレクサンドラに向かって嘲笑っているように見えて。アレクサンドラは思わず視線を逸らした。逸らした視線の先に、隣で同じように剣舞を見ているオシュクルが見えた。
オシュクルの眼差しは真剣だったが、そこに特別な熱のようなものは感じられず(寧ろオシュクルの目は、男性の方の舞を重点的に追っているようだった)、どうやら彼女がオシュクルの秘密の恋人というわけではなさそうだと、アレクサンドラはホッと息を吐いた。
互いに振りかぶった男女の剣が、一際大きく打ち合わされた瞬間、金属で出来た薄い皿のような楽器が同時に打ち合わされ、高い音が広間中に響き渡った。
そして楽器の響きがやんだ瞬間、剣舞の新たな登場人物が現れた。現れたのは腰が曲がった老年の男性で、彼は酷く奇妙な格好をしていた。
彼が着ているそれは、服というよりも布のように見えた。色ばかりは、他の衣装同様に色彩鮮やかな布を、麻紐のようなものでただ体中にぐるぐると巻きつけてある。その浅黒いはずの顔は、服と同じ配色の顔料でペイントされており、実際の肌の色が見えない。その首には、何かの牙から作られたようなネックレスが掛かっており、手には壺のようなものを抱えている。
「――神官だ」
小声でオシュクルがアレクサンドラに耳打ちをする。
「彼はかつて仕えていた自身の神を失ったもの。自身の神を失った代償として、彼は他者の儀式において、他の神と他者を繋ぐ媒体になることが出来る。アレクサンドラ、お前は彼の問いかけに【ズィ】…はいと答えるんだ」
ルシェルカンド語で伝えられた筈の言葉は、それでもなおアレクサンドラにはちんぷんかんぷんだったが、とにかく頷いておいた。
取りあえず今は、オシュクルが合図を送った時に、この奇妙な男の問いかけに対して返答すればいいのだ。それさえ分かれば、何も問題がない…はずだ。
神官と言われた男は、その場にひざまずいて、手に持った壺を頭上に捧げながら、モルドラ語で何かを叫んだ。それに合わせて広間にいる皆が、一斉に腕を組んで頭を垂らしたので、アレクサンドラも慌てて見よう見まねで真似た。恐らくこれは、神に対して祈るとき両手を組むのと同じような意味なのだろう。そう言えば、侍女がそんなことを説明していた気もする。
その時には、もう既に侍女に言われたことは、完全にアレクサンドラの頭から抜けてしまっていた。アレクサンドラはその事実を自身の頭の悪さ故ではなく、侍女の教え方が悪いのだとごく自然に脳内処理を行った。実際侍女の教え方は多少なりともアレクサンドラに対する悪意が滲んでいたので、あながちその考えは間違いでもないのだが、けしてその事実を気付いていたが故の結論では無い所が、アレクサンドラである。
壺を大切そうに抱えなおした神官は、ゆっくりとオシュクルとアレクサンドラに向き直った。
物々しい雰囲気で神官がオシュクルに問いかけると、オシュクルは一拍後に「ズィ」と答えた。ついで、神官の黒い目がアレクサンドラに向き、おそらくオシュクルに向かって言った言葉と同じ言葉を、今度はアレクサンドラに問いかける。ちらりとオシュクルに視線を向けると、彼は人差し指で膝を叩いていた為、アレクサンドラもまた「ズィ」と答えた。
同じような問答が、数回繰り返される。
それまではオシュクルに先に問いかけていた神官が、今度はアレクサンドラに先に問いかけた。動揺して、隠すこともなくオシュクルの方に視線をやると、オシュクルはまた同じ合図を送っていた。
「…ズィ」
アレクサンドラの問いかけに神官が一つ頷くと、神官の脇に先程まで舞っていた女性が近づいてきた。その手には、やはり極彩色の色装飾された、一口の杯。
ひざまずいて、掲げられた杯の中に、神官は壺の中身を注ぐ。
(…え)
女性は壺の中身が注がれた杯を、アレクサンドラに向かって差し出した。
その意図が分からず、オシュクルに視線をやると、オシュクルは杯を飲み干すジェスチャーをした。…杯の中身を飲めということらしい。
(…これを、飲むの…?)
アレクサンドラのこめかみに、冷たい汗が流れた。
杯の中身は、正体不明の濁った青い液体だった。恐る恐る杯を受け取って顔を近づけると、鼻につく独自の発酵臭と、塩っぽい臭いがする。
このような得体のしれないものを、飲まなければならないのか。それ以前にこれは、本当に飲んでいい筈の物なのか。本当は毒とかそういうオチではないのだろうか。
杯を持つ手が、かたかたと震えた。
いつまでたっても固まったまま、動かないアレクサンドラに、広間に集まった客人がひそひそ声で話始めた。言葉も聞こえないうえ、聞こえたところで意味を解りはしないのだが、それでも分かる。彼らは今、儀礼を行えずにいるアレクサンドラを侮っている。所詮異国の姫君だと、馬鹿にしている。それはアレクサンドラにとって、非常に不本意なことだった。
再び、神官がアレクサンドラに何かを問う。恐らく「飲まないんですか?」とか、そういうことだろう。オシュクルに視線をやると、オシュクルは再び指で膝を叩いて、杯を乾かすジェスチャーをした。
アレクサンドラは、とうとう覚悟を決めた。
「……ズィ!!!」
広間に響き渡る大声で叫ぶと、アレクサンドラは杯の中身を一気に飲み干した。
口に入れた瞬間、生臭くて塩辛い味が口中に広がり、思わず吐き出しそうになるものの、涙目になりながら必死に耐えた。大貴族の娘として、こんな衆人環視の中でそのような醜態は晒せない。
杯に注がれた液体は思ったよりも少なく、なんとか一息で飲み干すことが出来た。空になった杯を返すと、神官は満足そうに微笑んで、その杯に再び壺の中の液体を入れた。
もしや二杯目か、と身構えるアレクサンドラの懸念は取り越し苦労で終わった。
二杯目の杯はオシュクルに向かって、差し出された。オシュクルは躊躇うことなく、一息で杯を飲み干した。
途端、広間は客人たちの歓声で包まれた。どうやら今液体を互いに飲み干したことで、オシュクルとアレクサンドラの婚姻は成立したらしい。
(…結局私は何を飲まされたのよ)
そんなアレクサンドラの心からの疑問に答える人はいないまま、なごやかな雰囲気で結婚式は終幕した。
もしかしたら、聞かない方が精神衛生上良いものなのかもしれない。アレクサンドラは疑問を、今は心の奥にしまっておくことにした。