王の役目
※流血表現有
アレクサンドラは咄嗟に自身のモルドラ語の翻訳能力を疑った。それくらい今のルイの言葉は信じられないものだった。
ルイとオシュクルは、けして険悪な関係ではない。ルイはオシュクルを王として敬意を払う一方で、まだ年若いオシュクルに対して年長者の包容力を持って接していたし、オシュクルもまたそんなルイを慕っていた。親子のようとまでは行かずとも、二人の関係性は親しい叔父と甥くらいの関係性のように見えた。
それなのにルイが、オシュクルをこんな風に罵るだなんて。
『……あ……』
けれども、その言葉に一番衝撃を受けていたのは他でもない、ルイ自身だった。
憎悪を露わにしていたその顔には、すぐに悔恨の色が浮かび、ルイは深々と頭を垂れた。
『……申し訳ありません……無礼な言葉を……』
『構わない……恨まれるのも王の役目だ』
その一方で負の感情をぶつけられたオシュクルの方は、そんなルイの態度を当然のように受け止めていた。
鷹揚に首を横に振ったオシュクルを前に、ルイの目からは次々と涙が零れ落ちる。
そしてルイは服が汚れるのも構わずその場に膝をつくと、地面に額を押し付けて懇願した。
『……どうか、どうかアズリスをこのまま眠らせて下さいっ……もしかしたら、また目を醒ますかもしれない……オシュクル様……お願いします』
『それは出来ない。……アズリスは、確かに死んだんだ。他の神々も、そう判断した』
ルイの喉から悲痛な叫びが漏れ、その肩が震える。そんな父親を支えるように、フルへとイアネが両脇からそっと寄り添った。
『過去、自身の神を喪った【トゥズルセア】の多くも、お前と同じことを願った。けれども例外はない。これは決まりなのだ……本当は、ルイ、お前も分かっているのだろう?』
『……っ分かって、ます……分かってますが、こんな……こんなこと……』
『――半刻だけ、別れを惜しむ時間をやろう』
オシュクルはルイから背を向け、集まった遊動の旅のメンバーを見渡した。
『半刻。ルイをアズリスと家族だけにしておいてやれ……半刻後、私はここで王としての役割を果たす。……全てが終わるまでは、皆テントの中いるように』
オシュクルの言葉に促されるように、集まった人々は痛ましげにアズリスとルイに視線を投げ掛けた後、テントの方へと戻って行った。
一人、エルセトだけがオシュクルの元へ駆けよっていった。
『オシュクル様…役割を果たされる時は、それがしも一緒に』
『いい。最後の仕上げの際は頼むが、それまではお前もテントの中にいろ……【神殺し】は、私一人で十分だ』
『ですが……』
アレクサンドラはどうすればいいのかも分からず、ただその場に立ちすくんでいた。
皆と一緒にテントに戻るべきなのか。それともこのままオシュクルを待っているべきなのか。
「――アレクサンドラ」
不意にオシュクルの視線が自分の方を向けられ、びくりとアレクサンドラの肩が跳ねる。
「エルセトと一緒に、テントに戻っていろ」
「……オシュクル、は?」
「本当はルイを完全にアズリスと家族だけにしてやりたいが、私は王として、ここを離れるわけにはいけない。……全てが終わったら、また戻る」
オシュクルの言葉に、アレクサンドラは頷くことしか出来なかった。
「………」
言われるがままにエルセトと共にその場を後にしたアレクサンドラだったが、残してきたオシュクルのことが気にかかってしかたなかった。
(あんなに憎悪を露わにしたルイと、あの場で一緒にいて大丈夫なのかしら)
ルイがオシュクルに襲い掛かるとは思えないが、それでも心配だ。あのままオシュクルを置いていって良かったのだろうか。
そして、その気持ちはエルセトもまた同じだったらしい。
「……アレクサンドラ様。これから某は、非常に身勝手で残酷なお願いを申し上げます」
突然の言葉に驚いて隣を見ると、エルセトがひどく真剣な表情でアレクサンドラを見ていた。
「それなりに豪胆で少々なことでは動じないそれがしでも、本音を言えば遠慮申し上げたいような願いです。いくら神経が図太く、頭の螺子が数本抜けているような貴女様でも、きついことだと思われます。拒否して頂いても結構です」
「……貴方はいちいち人を貶める言葉を挟まないと、会話が出来ないの?」
「それでももしお受けして下さるなら。……お願いです。オシュクル様が王の役目を果たす間、隣にいては頂けませんか?」
エルセトがそんな願いを自分に託すとは思わなかったアレクサンドラは、思わず目を見開いた。
「先程、オシュクルは私にテントに戻っていろと、そう言ったわ…私が、いてもいいものなの?」
「寧ろいて下さった方がいいのです。本来なら、王が役目を果たす際は、王に姻戚上一番近しい存在が【見届け人】の役割を果たすことが推奨されております。…つまりはオシュクル様の場合は妻であるアレクサンドラ様ですな。ただ見届ける内容が内容ですし、アレクサンドラ様が異国人のこともあってオシュクル様は頼まなかったのでしょう」
その言葉に、アレクサンドラの胸はずきりと疼いた。
自分が異国人だから、オシュクルはアレクサンドラに王妃としての役割を任せなかったのか。それほどオシュクルにとって、自分は信用されていないのか。
夫婦として確かな絆が芽生えていると、そう思っていたのはアレクサンドラだけだったのだろうか。
「……まぁ、モルドラ人の王妃でも、本人が望まない場合は【見届け人】の役割を放棄出来るので、それも仕方無いことでしょうな」
「え……」
「過去の王妃の多くも、見届けを拒否してきました。モルドラの民であっても…否、モルドラの民だからこそ、耐えられない」
自分だけが特例でないことに少しの安堵を覚える反面、増々オシュクルのことが心配になってくる。
モルドラの民が見届けることですら拒否するような行為。オシュクルはそれを、これからたった一人成そうとしているのだ。王という立場故に、拒否する権利も有しないままに。
「王の役目って、一体何なの?」
アレクサンドラの問いかけに、エルセトは苦々しい表情で目を伏せた。
「オシュクル様がこれから遂行される王の役目――それは【神殺し】です」
「神、殺し?……まさか、まだアズリスは死んでないの…⁉」
それならば、あの不可解なルイの行動も納得がいく。死の淵にいる自身の神を安楽死させようとしたオシュクルを、ルイはどうしても止めたかったのだとしたら。
しかし、エルセトは首を横に振った。
「いいえ…アズリスは確かにもう生命活動を停止しております。例え安楽死の為と言っても、我らが神の命を奪うことなど、我々には絶対に出来ません。何より、群れのリーダーであるグゥエンが許さないでしょう」
(…どういうことなの?)
アズリスが既に死んでいるなら、何故オシュクルがそれを殺すことが出来るというのか。死んだものを殺す事が出来るものなど、いるはずがないのに。
「【神殺し】はあくまで概念上の呼称です……人は自身が愛したものが、生前の形を残している時は、その死をなかなか認められないものですからな」
その後続けられたエルセトの言葉で、アレクサンドラは、【神殺し】の本当の意味を知った。
半刻後。アレクサンドラは、オシュクルの元へ向かった。
「――アレクサンドラ。テントにいろと、そう言っただろう」
アレクサンドラが到着した頃には、既にルイ達家族の姿はなく、オシュクルはアズリスの遺体の脇に一人佇んでいた。
その手には普段は使わない大太刀と、子どもの身長ほどもある大きな壺が抱えられていた。
「【見届け人】の役割を、果たしに来たわ」
アレクサンドラの言葉に、オシュクルは分かりやすく眉を顰めた。ここまで感情を露わにするオシュクルは珍しい。
「……私がこれから何をするのか、分かっているのか」
「エルセトから全部聞いたわ…それでも、私は役割を果たすと決めたの」
正直、迷った。嫌だとも思った。
――でもそれ以上に、オシュクルを一人にしてはいけないと、そう思った。
オシュクルは誰よりもドラゴンを愛している人だから。どうしようもない程の優しい人、だから。
何も出来ないけれど、せめて役目の間傍にいようと、そう思った。
「後悔、するぞ」
「しないわ」
アレクサンドラの言葉に、オシュクルは小さく唇を噛んで、すぐにアレクサンドラから背を向けた。その背中がまるで泣くのを耐えているかのように見えて、胸が苦しくなる。
オシュクルは壺をアズリスの遺体の傍らに置くと、鞘から大太刀を抜いて構えた。
アレクサンドラは少し離れた距離から、オシュクルの挙動をただ見守った。
オシュクルは大きく息を吸いこみ、一息で大太刀を振り下ろす。
「…っ…」
思わずあげそうになった悲鳴を、アレクサンドラは唇を噛みしめて堪えた。
飛び散る青色の鮮血。
ころんと転げ落ちるアズリスの頭。
「……まだ凝固していなかったようで良かった。神の血は、やはり通常とは違うな」
オシュクルは全身をアズリスの血で濡らしながら独り言のようにぽつりと呟いて、切断面から噴きだす血を、傍らに置いていた壺で受けた。
王が果たす役割である【神殺し】の意味。――それは死したドラゴンの亡骸を、解体することだった。




