変わっていくもの、変わらないで欲しかったもの
クイナの顔に、また様々な色の表情が浮かぶ。
今日だけで、一体どれほどのクイナの感情を見たのだろう。
どれ程多くの感情を、クイナは押し殺して生きてきたというのだろう。
(もしその感情の発露の原因が、私に対する負の感情だというのなら、嫌われるのも悪くないわ)
クイナがグゥエンを取られることを危惧して、アレクサンドラを憎んだことが、クイナが無表情の下に隠していた感情を引きずりだしたのなら、きっとそれは良かったことなのだろう。
(だって、ほら――)
「――私も、知りたい、です」
クイナはそう言って、流れる涙を拭った。
「私も、アレクサンドラ様を、知って…友達に、なりたいです…!!」
(だって、ほら。今こうやってクイナは笑ってくれるのだから)
今クイナが浮かべた笑みは、病床で見た慈しむ様な微笑みとも、その場を取り繕うような作り物めいた笑みとも、違う。
涙で濡れた顔をくしゃくしゃに歪めて作った、けして美しいとは言い難い笑みだった。
まるで、幼い子どもが泣きやんだ時に浮かべるような、誰かの目を気にする事もなく自然に浮かべられた、てらいがない笑みだった。
その笑みが…そんな笑みをアレクサンドラに向けたクイナを、アレクサンドラはより一層好きだと思った。
アレクサンドラと、クイナ。
性格も、違う。肌の色も、髪の毛の色も、育った環境も、全く、違う。その性質だけ見れば、どこまでも違い過ぎる二人。
共通するのは、抱いていた負の感情だけだった。
互いが、互いを嫌っていた。互いが、互いを、妬んでいた。愛おしいと思う対象を奪われるのではないかという、疑心暗鬼に囚われていた。
――けれど、そんな負の感情から始まった諍いが、この時二人の心を確かに繋げたのだった。
オシュクルは、その後泣き腫らした顔のクイナと連れ立って戻ってきたアレクサンドラを見ても、特に何も言わなかった。
何も言わずに、ただ一度アレクサンドラの頭を撫でた。
アレクサンドラが視線を感じて振り返ると、普段のにやけ顔を消したフレムスが遠くからアレクサンドラとクイナをじっと見つめていた。
フレムスはアレクサンドラと目が合うなり、静かに頭を下げた。
劇的な変化が起こったわけでは、ない。
クイナはその後も相変わらず表情の変化は乏しかったし、口数だってすごく増えたというわけではない。
けれど普段の無表情の裏に滲んでいた険のようなものが取れ、どこか雰囲気が穏やかになったようだった。
フルへとイアネと一緒に勉強会をしても、前より通訳として口を挟んでくる回数が増えた。
朝、連れ立ってドラゴンに会い行く時も、ぽつぽつとアレクサンドラのことを聞いたり、自分のことを話したりしてくれるようになった。
そんなクイナの変化が、どこかくすぐったくて、嬉しい。
旅自体は単調で、さほど変わりばえのしない日々の繰り返しだったが、アレクサンドラには全く気にならなかった。
単調な日々の中にある、僅かな変化に幸福を感じていた。
元々物覚えが悪くないアレクサンドラは、勉強を続けるうちに、モルドラ語の聞き取りはほとんど完璧に出来るようになって言った。話す事自体は未だに幼児レベルであるが、それでも話が理解できるか、出来ないかで、日々の生活は全く違ってくる。
アフカやルイをはじめとした、ルシェルカンド語を解さない人達と交流する機会が一層増えて行った。旅の人員は、モルドラ語を解さない前に感じていたイメージ同様優しくて、けしてアレクサンドラを委縮させることなく、そっとアレクサンドラが世界を広げる手助けをしてくれた。
(このまま、もっと変わっていけばいいわ。少しずつ、ゆっくり変わっていけばいい)
オシュクルとの関係も相変わらずだったけど、アレクサンドラはもう焦りを感じてはいなかった。少しずつでもちゃんと、オシュクルに近づけている自身があったからだ。
変化していく日々が、愛おしかった。
こんな日々が、ずっと続いて行けばいいと、そう思った。
大きな変化なんて、望んでいなかった。
『フルへ!!イアネ!!私、出来た!!籠、新しい、編む、上手!!…すごい?』
『わぁ、本当!!アレクサンドラ、上手になったわね』
『でも、まだまだだね!!僕の方がずっと早く出来るもの』
『でも、フルへ、雑』
『そんなことないよ!!ねぇ、イアネ?』
『……お兄ちゃんらしくて、いいんじゃないかな?』
『イアネ!?』
だから、忘れて、いた。
『…っフルへ!!イアネ!!』
『おかあさん?どうしたの…突然』
『今はアレクサンドラに籠作りを…』
『それどころじゃないわ!!早く来なさい!!』
『――アズリスが…おとうさんの神さまが、亡くなりそうなのよ!!』
まだ幼いフルへとイアネが、遊動の旅を続けている理由を、すっかり忘れてしまっていたのだった。
アレクサンドラが双子たちと共にその場に駆け付けた時、既にその場には旅の人員のほとんどがそこに集まっていた。
人とドラゴン達に囲まれるようにして、中央で蹲る一匹のドラゴンと一人の年配の男性。――アズリスと、ルイだ。
ルイはアズリスの首にしがみついて、必死に何かを呼びかけていた。
『『おとうさん…!!』』
フルへとイアネ、そしてアフカが集まった人達の間を縫って、ルイの元に駆け寄る。集まった人々は三人の為に、そっと道を開けた。
けれどルイは、傍に近寄ってくる家族の存在にも気づかずに、ただ一心不乱にアズリスを見つめていた。
不意に集まっていたドラゴンのうち、一際立派なドラゴンが天を向いて、高く吼えた。――グゥエン、だ。
続いて、シュレヌが、そしてその横にいるドラゴンが、追いかけるように天に向かって吼える。
それはどれも酷く悲しい、鳴き声だった。
『違う…嘘、だ』
響き渡るドラゴンの声を遮断するかのように、ルイはその耳を塞ぐが、ドラゴンは吼えるのを止める事は無かった。
『アズリスは、死んでいない…死んでいないんだ…!!』
最後の一匹が吼え終わり、最後に全てのドラゴンが声を合せて大きく吼えると、ドラゴン達は空に飛び立っていった。
時間は、まだ日中。どこかの町に到着したわけでもないのに、ドラゴン達がどこかに飛び立っていくのは、普通ならばありえないことだった。
『待って…待って、くれ…アズリスを…アズリスを置いて行かないでくれ…!!このままじゃ…このままじゃ、アズリスは…!!』
ルイが必死に空に手を伸ばしても、ドラゴン達が戻って来ることはない。
けれどもルイは縋る様に、叫び続けた。
まるで何かに脅えるかのようなその姿を、アレクサンドラは少しだけ訝しく思った。
(ルイは一体、何を怖がっているの…?)
彼の神は、死んだ。…【トゥズルセア】であった彼にとって、それ以上の恐怖なんて、他にないだろうに。
そんなアレクサンドラの疑問は、すぐに解明された。
『――アズリスが、死んだか』
飛び立ったドラゴンの姿が完全に見えなくなった瞬間、その声は響いた。
アレクサンドラにとって…いや、この場にいる誰もにとって聞き覚えがある、その声の主は。
「オシュクル…」
ドラゴンを愛するオシュクルにしては、遅すぎる到着だった。真っ先に駆け付けて、ルイと共にアズリスを看取っていてもおかしくないのに。
しかしアレクサンドラ以外の人は、誰もそんなオシュクルに対して疑念を抱いていないようだった。先程のアフカ達の時と同様に、皆自然とオシュクルに通り道を作りだす。
『…来る、な…!!』
ゆっくりと近づいて来るオシュクルに向かって、ルイは拒絶を露わにした。
自らの王に向けるものと思えない憎悪の表情を浮かべて、オシュクルを睨み付けながら吼えた。
『私の神に近づくなぁあああああ!!!!【死神】っ!!!』




