誰かを救うということ
それが無意味な問いかけであることは分かっていた。
分かっていても、それでもオシュクルに肯定して欲しかった。
もしオシュクルが肯定してくれれば、自分でもクイナを救える気がしたのだ。
大好きな人が出来ると言ってくれれば、どんなことだってやり遂げられる気がした。
けれども、オシュクルはどこまでも現実的だった。
「――分からない」
オシュクルは暫くそう考えた後、はっきりとそう口にした。
「些細な一言が思いがけず誰かの心を傷つける様に、思いがけないただ一言が誰かを救うこともある。一方で、どんなに正しく為になる言葉でも、相手に届かなければ意味はない。…結局の所、受け手次第だ」
「そう…そうよね」
アレクサンドラは湧き上がりそうになる涙を耐えて、口を結んだ。
オシュクルの言葉は正しい。けれども、こんな言葉が聞きたいわけじゃなかった。
嘘がつけない真っ直ぐなオシュクルをアレクサンドラは好ましく思っているが、今だけはそんなオシュクルの性が憎らしかった。
「…変なことを聞いてごめんなさい…夜も遅いし、私はもう…」
「――けれど、私に関して言うならば」
『もう寝るわ』と続けかけた言葉は、オシュクルの強い言葉に遮られた。
「相手が【誰か】という曖昧な相手ではなく、【私】に限定して言うならば…私はお前に救われている時があるよ。今日、今、この瞬間さえも」
嘘がつけないオシュクルの口から発せられた言葉は、アレクサンドラの胸に大きく響いた。
「…私が、オシュクルを救っている?」
「ああ。そうだ」
「嘘よ!!だって私はずっとオシュクルに、他の皆に迷惑を掛けて…」
まともに旅路を歩くことも敵わない。
籠もろくに編めないし、料理だって出来ない。
無鉄砲にドラゴンに近づいては興奮させて、一人自業自得で襲われて。
しまいには熱を出して寝込んだ。
皆、優しいからそんなアレクサンドラを受け入れてくれて、仲間と認めてはくれた。
だからといって、皆が許してくれているからと言って、アレクサンドラが誰かに利益を齎しているわけではないのだ。
「…それでも、お前は一度も『帰りたい』とは言わなかった」
「…?」
「一度も『元の国に帰りたい』と、『もうこんな旅を続けたくない』とは言わなかった」
オシュクルの言葉に、アレクサンドラは戸惑う。
それが一体、何故オシュクルを救うことになるのか。
オシュクルが好きで、優しい皆が好きで、そして遊動の旅を何だかんだで気に入っているアレクサンドラにとっては当たり前のことだった。
そもそも元々アレクサンドラはオシュクルの子種目当てでついて来たのだ。元をただせば、ひとえに自身の地位の安泰の為、そして自分の胸の奥の孤独心を癒す為。アレクサンドラの行動は全て自分の為故のもので、そこにオシュクルに対する思いやりなんて、けして無いのに。
「分からないと、そういう顔をしているな」
そう言ってオシュクルは目を細めた。
その表情が笑っているのだと、今のアレクサンドラには理解出来た。
「だって、そんなことは、国を代表して嫁いできたものならば当たり前でしょう?…例えそれが私じゃないとしても…」
「それを当たり前だと言える異国の女が一体どれほどいるのだろうな…正直に言おう。私は異国から妻を娶らなければならないことが決まった時、妻となる人物とまともな交流を取ることはもう諦めていた」
そう言って、オシュクルは握ったアレクサンドラの手を、そっと自身の頬に押し当てた。
「異国で何不自由なく育った令嬢が、遊動の旅に着いて来ることなど嫌がるだろうと思っていたし、万が一着いてくることがあってもすぐに根をあげると思っていた。根を上げ、やがて私を恨むだろうと、覚悟していたのだ。そして、自身の妻をそんな境遇に置くことしか出来ない自分の不甲斐なさを、申し訳なく思っていた」
オシュクルの言葉にアレクサンドラは、結婚初夜の会話を思い出す。
あの時オシュクルは、自身の結婚を「形ばかりの結婚」だと、そう言っていた。
不便を掛けるが出来る限りのことをすると言って、最初からアレクサンドラの妻としての役割を期待していなかった。
あの時はただひたすら、腹立たしかったあの言葉。だけど、今なら分かる。あれは、望まずに妻となったアレクサンドラに対する精一杯のオシュクルの思いやりだったのだと。
あれがあの時不器用で優しいオシュクルが、アレクサンドラに出来る最大限のことだったのだと、改めて気づかされた。
「いつお前が帰りたいと言っても、その言葉を受け入れてやろうと思っていた。…いや、今もそう思っては、いる。私の妻になったばかりに、悲しむお前が見たくないから。だから、何かある度にお前に帰りたいかと尋ねてきた」
最初に遊動の旅の実情を知って倒れた時も。
久しぶりの宿屋に、興奮を露わにした時も。
熱を出してうなされていた時も。
思い返せばオシュクルは、いつもアレクサンドラの意志を尋ねて来てくれていた。
いつでもアレクサンドラが帰りたいと言えば帰れるように、気にしてくれていた。
その事実が嬉しい反面、少し苦い。
(だって私はいつだって…)
「けれどもお前はいつだって、ここに残りたいとそう言って…そして苦しさを抜け出す度に、何か嬉しいことを見つける度に、てらいなく笑うんだ。辛いことなんてなにもないかのように」
「っ」
「そんなお前に、お前の笑みに、私は何度だって救われているんだ」
もう、限界だった。
アレクサンドラは零れ落ちる涙を堪えることが出来ずに、オシュクルの胸に縋りついてしゃくりあげた。
そんなアレクサンドラをオシュクルは優しく抱きしめてくれた。
「アレクサンドラ…お前が【誰か】を救うことは出来るかは分からないが、お前は【誰か】を救うことが出来る能力を持った人間だということは断言できる。救われた私が言うのだから、間違いない」
「…オシュクル…っ…」
「何も迷うことはない。無駄に考えることもない。…アレクサンドラ。お前は、お前が思うがままに動けばいい。…それで救われる人間ならば、勝手に救われるのだから。それで救えなかったとしても、それは当人の問題だ。お前が責任を感じる必要も何もない。だから後悔が無いように行動することだけを考えればいい」
オシュクルは、アレクサンドラの言葉の意味を深く追求する事は無かった。けれども、きっとアレクサンドラが悩んでいるわけは知っていたのだろうと、そう思った。
エルセトとフレムスも気が付いていたのだ。誰よりもアレクサンドラに近いオシュクルが気が付かない筈がない。
知っていて、そっとアレクサンドラの背中を押してくれた。
ただクイナを救う為だけでもなく、自身の負い目を解消する為だけでもなく、多分きっと一番はアレクサンドラの為に。
クイナに対して罪悪感を抱いて葛藤しているアレクサンドラの為に、オシュクルはアレクサンドラを鼓舞してくれたのだ。
(何より、勇気づけられる言葉だわ)
大好きな人が、自分を認めてくれた。自分に救われたのだと、そう言ってくれた。
その事実がアレクサンドラに勇気をくれた。
クイナと向かい合って、話す勇気を。
「…ありがとう…オシュクル」
この優しい人の妻になれて良かったと、改めてそう思った。
「…おはよう。クイナ」
翌朝、現れたアレクサンドラの顔を見るなり、クイナは僅かに目を見張った。
「…おはよう…ござい、マス」
「どうしたの?そんな顔をして」
「思って、た…その…来ない、かと」
恐らく、誰かがクイナの過去を話していることを想定していたのだろう。どこか気まずそうに話すクイナに、アレクサンドラは微笑みかけた。
「私、クイナに改めて話したいことがあるの」




