自身を殺す男
「…貴方は自分のドラゴンのことを好きでなかったの?」
「はい――幼い頃は、憎んでさえいマシタ」
淡々と告げられたフレムスの言葉にアレクサンドラは目を見開いた。
遊動の旅のメンバー…特にオシュクルのドラゴンに対する強い関心を間近でみていたアレクサンドラには、ドラゴンを憎む人物がいるというのはとても信じがたいことだった。
「モルドラは広い――先日滞在した精霊信仰の村のように、王都以外の人間はドラゴンに対して特別な感情を抱いていない人間も多いのデス。…モルドラの西外れ出身の、俺の母がそうだったように」
フレムスのその言葉に、アレクサンドラはフレムスが纏う黒色が、モルドラにおける一般的な黒よりも灰色がかっていることに気が付いた。クイナの僅かに青みがかった瞳とも違う、まるで雨を湛えた雲のようなそれ。
様々な色合いの髪や瞳の人間が入り混じるルシェルカンド人にとっては、同じ「黒色」で括ってしまえるような些細な違い。
しかし、その些細な色合いの違いは、黒髪黒目が当たり前なモルドラ人の中では、十分に大きな違いだ。恐らくモルドラ西部の人間特有の色合いなのだろう。
「母は遊動の旅の途中の父と出会い、恋に落ちマシタ。…けれども体が弱い母は、王都まで父と共に行くだけが精一杯で、旅に同行することは出来ず…【トゥズルセア】だった父は、俺を身籠っていた母に付き添って王都に残ることよりも、自身のドラゴンを選び、母を置いて旅を続けたのデス。――【トゥズルセア】に夫が選ばれるのは名誉なことであるし、その家族は離れて暮らしていても、国から援助を受けて生活が出来マス。けれど、ドラゴン信仰が無い母はその事実を受け入れられマセンデシタ。置いて行った父を恨み―父が自身を置いて行く原因となったドラゴンを、呪ったのデス」
アレクサンドラは思わず、自身の服の胸の当たりを握り締めた。
アレクサンドラには、置いて行かれたフレムスの母の悲痛な感情が、痛い程理解出来た。
もし、先日の熱が下がることなく、アレクサンドラ一人、王都に戻らされていたら。
そしてそのまま旅に合流することが叶わずに、親しいものも誰一人いない王都に、据え置かれたら。
アレクサンドラは彼女と同じように、オシュクルを恨み、シュレヌを呪ったことだろう。
「そうして俺は王都で母の恨み言を聞きながら育てられマシタ。…けれど、12の時に俺に【トゥズルセア】の適性があることがわかって――父に言われるがままに、生れたばかりのウィルカに引き合わされたのデス」
フレムスが【トゥズルセア】であることが判明した瞬間の父親の喜びと、母親の嘆きは対照的だった。
父親は「流石、自分の息子だ」と大声でフレムスを褒め称えたし、一方で母親は「ドラゴンは夫だけではなく、息子まで奪うのか」と半狂乱になったという。
【トゥズルセア】になる気なんてさらさらなかったのにも関わらず、フレムスはそのまま遊動の旅に参加することになってしまったのだった。
「母は大声で泣き叫ぶし、ほとんど交流が無かった苦手な父と過ごさないといけないし、旅は不便で大変だしで本当最悪デシタ…オシュクルとエルセトがいなかったら、さっさと逃げ出してマシタよ」
オシュクルとエルセトは、それぞれフレムスより前に【トゥズルセア】に選ばれて遊動の旅に参加していたが、元々王都で共に学んだ友人であったという。
同年代の友人の存在に救われたフレムスは、徐々に旅にも父親にも馴染んでいくことが出来た。
「けれどどれだけ旅の馴染んでも、幾度ウィルカと対話を交わしても、俺は他の皆程にドラゴンを想うことは出来ませんデシタ」
ドラゴンに対する否定の言葉を聞き続けたフレムスに、ドラゴンを信仰するのは難しかった。どうしても本能的な忌避感が先に立ってしまう。
ウィルカが、そんなフレムスに対して不機嫌になることもなく、他のドラゴンが【トゥズルセア】に対するのと同じように接してくるだけに、余計にフレムスは居た堪れなかった。
そして旅を続けて5年程経った頃に、事件は起きた。
「クイナのことも、俺は幼いうちから知っていマス。クイナは5歳にもならないうちから、ずっと【トゥズルセア】になることを夢見て努力をしている少女だった…」
けれども、クイナはグゥエンに選ばれなかった。
その事実は年若いフレムスを激しく動揺させた。
「望んでも望んでも、その望みが叶えられなかった人間のやり場がない怒りの矛先は一体どこに向けられればいいと想いマスか?…俺は、それは、望まずして望みが叶えられた人間にこそ向けられるべきだと思いマス――けれど、クイナは俺を一度だって責めたことはない」
そういってフレムスは痛みを堪えるかのように唇を噛んだ。
「遊動の旅の皆は、本当に優しい。俺を責めないクイナも、俺を【トゥズルセア】と認め続けるウィルカも、俺の気持ちを察しながら、それでも俺を受け入れてくれるオシュクル達も皆優しすぎて…それが時々、どうしようもなく苦しい」
その時アレクサンドラは、何故フレムスの存在感が驚くほど希薄なのか、分かったような気がした。
(この人は、皆のようにドラゴンを愛せないまま【トゥズルセア】に選ばれた罪悪感から、無意識のうちに自分の存在感を殺してしまっているのだわ)
何十年も遊動の旅に参加していながら、フレムスはそれでもなお過去の母の言葉とクイナへの罪悪感に縛られるがあまり、完全に旅の仲間になり切れていないのだ。
けれども、それを察してもなお、遊動の旅の人々は優しくフレムスを受け入れて来たのだろう。何も知らず、言葉すら碌に話すことが出来ないアレクサンドラを、優しく受け入れてくれたように。
だからこそ、皆が優しいからこそ、拒絶することも出来なくて。
拒絶することも、全てを迎合することも出来ない葛藤が、フレムスに自身の気配を殺すことを選ばせたのだ。
旅の仲間たちと共にいても、いなくても、自身を責めることがないように。自分自身の存在が、誰かを傷つけてしまわないように。
(もしそうだとしたら、それはなんて悲しいことなのかしら)
「――少々、余計なことまで話し過ぎマシタね。美人に見つめられると、つい口が軽くなってしまいマス。こんな幻想的な月灯りの下なら、猶更」
アレクサンドラが何かを口にする前に、フレムスの方からさっさと話を終わらせてしまった。
口にした言葉は茶化すような軽い物だったが、その節々にアレクサンドラの言葉を封じさせる鋭さを感じた。
「なんにせよ、ともかく、一度クイナと話してみて下サイ。クイナの現状を知った今のアレクサンドラ様の言葉は、もしかしたらクイナの何かを変えるかも知れない。それは良い変化であれ、悪い変化であれ、きっと今のクイナには必要な変化であると思うのデス」
「………」
「それでは、明日も早いので、俺はこの辺で…」
「……待って、フレムス」
フレムスがそれ以上踏み込まれるのを嫌がっていることは、分かっていた。
それでも、どうしても、これだけは聞かずにはいられなかった。
「貴方は今も、自身のドラゴンを…ウィルカのことを憎んでいるの?」
フレムスは、そのアレクサンドラの問いに答えること無く、貼りつけたような笑みを浮かべて背を向けた。
「おやすみなさい。アレクサンドラ様――良い、夜を」
「…お帰り。アレクサンドラ。長い散歩だったな」
テントに戻ると、オシュクルはまだ起きてアレクサンドラの帰りを待っていた。
ふらふらとオシュクルに近づいて、そのまま力なく全身を預けるように寄りかかったアレクサンドラの手を、オシュクルはその大きな手でそっと握り締めた。
「手が冷えているな…このあたりは比較的温暖だが、夜は少し冷える。布団に入って温まったほうがいい」
「――ねえ、オシュクル」
手から伝わってくるオシュクルの体温にじわりと込み上げてくるものを抑え込みながら、アレクサンドラは震える声でオシュクルに問いかけた。
「私に誰かが救えると思う?」