流浪の王との対面
モルドラまでの旅路は、蹄鉄に特殊な魔法が施されている馬を使っていた為、まる一日移動だけで済んだ。その地理的な要因故に、首都カラムが、広大なモルドラの側端、最もルシェルカンドに近い場所に位置していたのが幸いだった。
アレクサンドラはその退屈で不愉快な行程を、ただひたすら寝て過ごした。
「――起きてくださいませ、アレクサンドラ様。まもなく、モルドラの王宮に着きますよ。ルシェルカンドの姫君らしい姿をなさって下さい」
侮蔑さえも感じられる、丁寧だが冷たい侍女の声で、アレクサンドラは目を醒ました。
窓から目に入った光景に、アレクサンドラは勢いよく体を起こし、思わず窓から身を乗り出した。
「…セルファ家のお嬢様だと聞いていたけど、随分はしたない真似をなさること…」
そんなアレクサンドラの行動に、侍女は心底嫌そうに眉を顰めて、主に対するとは思えない無礼な言葉を口にするも、アレクサンドラの耳には入らなかった。
アレクサンドラの目は、初めて見る異国の光景に釘づけだった。
(これが、帝国モルドラの光景…!!)
何というか、茶色い。
それが外の景色を見た時、最初にアレクサンドラが抱いた感想だった。
全体的に土や岩だらけで、木々が少ない。
花と緑の国と謳われ、都の道のほとんどは石畳みで補正されていたルシェルカンドとは全く違う。ぽつぽつとみることが出来る植物も、どこかひょろひょろと頼りなさげで、嵐が起これば簡単に折れてしまうのではないだろうかと思ってしまう。
道に点在している石製の建物は、見渡す限りどれも素朴で単純な造りをしていて、精彩さに欠けていた。
アレクサンドラは空いた口が塞がらなかった。
これが国の中で数少ない豊かな地と言われている首都カラムの光景なのだろうか。辺境の間違いではないのか。もしこれが最上だというのなら、それ以外の土地はどれほど酷いのか。
だがそんなアレクサンドラの慄きを覆すように、そこからさらに城に近づいていくにつれて、しっかりとした幹を持った枝木や、外観を意識した凝った造りの建物が増えて来た。ごくごく狭い範囲ではあるものの、それでも一応都市らしい箇所はあるらしい。アレクサンドラは密やかに胸を撫で下ろした。…それでも最も発展している筈のそこも、ルシェルカンドにおいては田舎町程度だとも思わなくもなかったが。
ルシェルカンドの出立の時とは違い、モルドラでは派手な歓待を受けることもないまま、馬車はあっさりと王宮に到着した。それは自分の立場が軽んじられていることを意味していたのでアレクサンドラにとってけして愉快なことではなかったが、他国から嫁ぐ姫を迎え入れる相応の対応も出来ない蛮族なのだから仕方がないと割り切ることが出来た。割り切れるくらいに、その時のアレクサンドラは機嫌が良かったのだ。
アレクサンドラが機嫌を損ねなかった最大の理由は、モルドラの王宮の姿にあった。
(…綺麗)
アレクサンドラは、目の前にそびえたつ建物に、思わずほおっと溜息を吐かずにはいられなかった。美しいという評判だった城の姿は、ルシェルカンド人であるアレクサンドラの目から見ても、十二分に美しかった。
屋根に至るまでが直線的で、きっちりした印象が強いルシェルカンドの城に比べ、モルドラの城は曲線的な屋根をしていてどこか柔らかい印象だった。色も屋根以外は白が基調で、シンプルさを美徳としているルシェルカンドの城と違い、様々な色彩が用いられ、絵や彫り物のような派手な装飾が到るところに見られた。だがその配色は、ただ無造作に複数の色を塗りたくった悪趣味なものではなく、不思議な調和を保っていて、豪華なだけではなく神聖で荘厳な雰囲気さえ感じられた。
常日頃、ルシェルカンドの王宮は遊びが足りなくてつまらないと思っていたアレクサンドラは、一目でこの王宮を気に入ったのだった。
美しいとは言っても所詮モルドラの民のセンスだからと期待していなかった分、余計にアレクサンドラの感動は大きかった。
そして上々だったアレクサンドラの機嫌は、王宮に入ってさらに上昇した。
「――遠路はるばる、ご苦労だったな。私がモルドラの王、オシュクル・トゥエンだ。異国から我が地に嫁いでくれる姫君を、心から歓迎しよう」
僅かな笑みを浮かべることもないまま、流暢なルシェルカンド語でどこかおざなりな調子で歓迎の言葉を告げた流浪の王は、アレクサンドラの自尊心に見合う程の美丈夫だったからだ。
齢は二十代半ばほどだろうか。アレクサンドラが予想していたよりも、ずっと若々しい。
夜を糸にして紡いだかのような漆黒の髪に、アレクサンドラの黒曜石よりもなお暗い、闇色の瞳。
日に焼けた浅黒い肌。彫りが深く男らしいが、どこか無機質で鋭利な印象を与える整った顔立ち。
背丈は比較的身長が高い人が多いルシェルカンド人の基準から見ても、かなり大きく、また体格もしっかりと筋肉がついて隆々としていた。まるで、古代の英雄像が、命を持って動き出したかのようだと、アレクサンドラは思った。
(――これが、私の夫になる人)
「…初めまして。オシュクル様。私はアレクサンドラ・セルファと申します。どうかこれから夫婦としてどうぞ宜しくお願いします」
悪くないと、思った。
これが自分の夫になる相手なら、そう悪くない。野蛮そうな部分が透けては見え、見るからに優雅さとは程遠そうだが、モルドラ人相手だと考えると、十分に及第点を与えられる。
これくらい精悍な相手ならば、美しい自分と並んでも、そう極端に見劣りすることはないだろう。勿論完全に同等とは言えないけれど、それは美しすぎるアレクサンドラがいけない。アレクサンドラと同じくらい美しい男なんて、国中を探したとしても滅多にいる筈がないのだから、結婚相手にそれを求めるのは贅沢というものだ。
そんな上から目線の無礼すぎることを考えながら、アレクサンドラはルシェルカンドにおいて最大級の敬意を示す礼を優雅にこなしながら、艶やかな笑みを浮かべてみせた。
けれどオシュクルは、通常の男ならば思わず見惚れてしまうようなアレクサンドラの笑みにも、表情を変えずにただ一度頷いただけだった。
(私が美しすぎて、何も言えないでいるのかしら?)
アレクサンドラは内心で首を傾げたが、残念なことに、その時オシュクルの心中を確かめる時間的余裕はなかった。
挨拶が終わるなり、アレクサンドラは部屋を出て、結婚式の支度をしなければならなかったのだ。
まる一日の辛い旅路を経て、はるばる遠いモルドラの地までやって来た花嫁を慮って、一日くらい休ませてくれてもいいだろうに、結婚式は到着してすぐに開催されることになっていた。流石野蛮人の国、異国の姫の繊細さえを理解出来ないのかと、モルドラ人の侍女が施す化粧を甘受しながら、アレクサンドラは内心で毒づいた。上々だったアレクサンドラの機嫌はここで一気に下降した。
城と同じように、艶やかな色が組合わせられた、独特の形状の衣装を着せられ、ルシェルカンドとはまた違った種類の宝石で体のあちこちを飾りたてられる。金の髪の毛も複雑に編み込まれ、頭には鮮やかな刺繍が施された極彩色のベールがかぶせられた。
全ての準備が終わり、鏡を見たアレクサンドラは非常に複雑な気分に襲われた。鏡に映った自分は変わらず美しかったが、どこか衣装とはチグハグで、酷く浮いているように見えたのだ。アレクサンドラの機嫌は、増々悪くなった。
式の際に口にしなければならない言葉をその場で侍女から無理矢理詰め込まれ、追い立てられるように、広間へと連れて行かれた。その時のアレクサンドラは、最早明らかに不貞腐れていた。だけどアレクサンドラが、そんな子供っぽい苛立ちに浸っていられたのも、広間へと続く扉を開けるその瞬間までだった。
広間には、やはり鮮やかな色彩の衣装を身に纏った人た貴族らしき人たちが集まっていて、それぞれがアレクサンドラが理解出来ないモルドラの言葉で何か話していた。
そして、扉が閉まる音と共に、その視線が一斉にアレクサンドラに向けられた。
「…っ」
理解出来ない言葉と、見慣れぬ肌の色と衣装を纏った人々、込められた感情が分からない視線。
思わずアレクサンドラはその場で後ずさった。
アレクサンドラはその時になってようやく、外国人という異質な存在として他国に嫁ぐことの恐怖心を知ったのだった。
「――アレクサンドラ、こちらだ」
固まってしまったアレクサンドラを、婚礼用の衣装を纏って広間の中央に佇んでいたオシュクルが呼び寄せた。
異国人だらけの中にいる現実を突きつけられていたアレクサンドラは、オシュクルの口から発せられたルシェルカンド語に安堵して体の硬直を解くと、ゆったりとした足取りでオシュクルの隣へと向かった。
「…急な式典で申し訳ない。私はどうしても明日には城を出ないといけない為、今日中に式を終えなければならないのだ」
「…いえ、その…まあ…」
「急ごしらえで儀式の言葉を侍女に説明させたが、何せいきなりのことだ。とても覚えきれていないだろう。私が指で合図を送るので、お前はただそのタイミングに合わせて【ズィ(はい)】とだけ言ってくれればいい。後は全てこちらでなんとかしよう」
小声で会話を交わした後、アレクサンドラが知らないモルドラの楽器の音色が広間中に鳴り響く。
静まり返った会場と、一層引き締まったオシュクルの表情から、アレクサンドラはそれが式のはじまりの合図であったことを知った。