私は悪くない
「…あ、あのクイナ」
「――そろそろ、時間」
アレクサンドラが何を言えばいいのかわからず混乱しているうちに、クイナのほうから先に話を打ち切られた。
「もう、行こう…明日、また」
「あ…」
何だか、ひどく突き放されたような、そんな気持ちになった。
「どうだ。アレクサンドラ。ドラゴンは怖くはなかったか?」
「オシュクル」
テントに戻ると、アレクサンドラを待っていたオシュクルはそう優しく訪ねてくれた。
「…怖くなかったわ。私、グゥエンに触らせてもらったのよ。ほんの少しだけだけど」
「そうか。ならよかった」
「でも…」
「でも?」
(オシュクルに、先ほどのクイナのことを聞いて見るべきなのかしら)
黒い瞳をまっすぐアレクサンドラに向けながら、黙ってアレクサンドラの言葉を待つオシュクルを前に、アレクサンドラは迷った。
グゥエンは自分の神ではないと、クイナはそう言った。あの意味を、きっとオシュクルならわかるはずだ。なぜアレクサンドラの言葉が、クイナを傷つけたのかも。
けれども、それを真っ直ぐにオシュクルに聞くのは、躊躇われた。
(オシュクルは、私にクイナのことを事前に教えてはくれなかったわ…それはあまり触れて欲しくないことだからなのではないかしら)
もしそれが必要だと判断したならば、オシュクルはアレクサンドラに詳細を教えてくれただろう。実際、アレクサンドラがグゥエンに襲われて救出されたあの時、オシュクルは、クイナとグゥエンの関係について言及したアレクサンドラに対して何かを言いかけていた。
けれどオシュクルは言いづらそうに口ごもり、その先の言葉を口にしてはくれなかった。それだけオシュクルにとっても、クイナとグゥエンの関係は口にしづらい話題ということだ。
「――いえ、なんでもないわ」
思わず首を横に振ったアレクサンドラの胸の内には、いまだ燻り続けるクイナに対する嫉妬も存在していた。
オシュクルの口から、クイナに対する事柄を、口にして欲しくなかった。オシュクルにクイナを気にかけて欲しくなかった。
クイナが悪い人ではないことは、それどころかとても優しい人だということは身に染みて理解している。けれどもだからこそ余計に、クイナとオシュクルの距離を近づけさせたくなかったのだ。
オシュクルを慕うが故の、愚かで身勝手な嫉妬心。それがアレクサンドラの口を一層重くしていた。
「…そうか。なら、いい」
オシュクルはそんなアレクサンドラを深く追求することなく、そう言ってぽんぽんと優しく頭を叩いた。
その優しい手が、今のアレクサンドラには、とても痛かった。
(私、悪くないと思うわ)
熱に浮かされて喚き散らしたことはともかく、今回のことについてアレクサンドラに直接的な非はなかった。
(だって。私、ただクイナを褒めただけよ。心からすごいと思って、ただそれを口にしただけだわ)
そこに悪意は微塵もなかった。寧ろ心からの好意から、発したはずの言葉だった。まさかそれが、あんな風にクイナを傷つけることになるだなんて、一体だれが想定するというのだ。
(私は遊動の旅に参加したばかりの、異国人よ。だったら、クイナの事情なんて知らなくて当然でしょう。だから、仕方なかったのよ。私と同じ立場なら、きっと皆、同じことをしてしまったはずよ。だから、私は悪くないのよ)
知らなかったんだから、仕方がない。
私は悪くない。
無知は罪だと自覚した筈なのに、身に染みて学習した筈なのに、心は勝手に自らの失態を正当化しようとして言い訳を続ける。
けれどもどんなに自分は悪くないと必死に思い込もうとしても、アレクサンドラの胸の内は晴れることはなかった。いくら言葉を重ねても、それとなく取り繕っても、事実はけして変わらない。
アレクサンドラが、自分に優しくしてくれたクイナを傷つけてしまったのだという事実は、何も。
その日、アレクサンドラはひどい重い気持ちのまま、夜を迎えることとなった。
「オシュクル…私寝る前に、少し散歩をしてきてもいいかしら」
「ああ。それじゃあ、私も一緒に…」
「そうじゃ、ないの」
(……これを言ったら、やっぱり、わがままになってしまうかしら)
「一人に、なりたいのよ」
どうしても、こんな重い気持ちのままオシュクルの傍にいたくなかった。傍にいると、オシュクルまで暗くしてしまうような、そんな気がしたのだ。
「今日は月も星も綺麗でしょう?夜空を見上げながら少し一人で歩いて、考えたいことがあるの。勿論、遠くへ行ったりはしないから」
それが王の妻という立場の者としては、あまり相応しくない願いであることは重々承知していた。いつ、どんな危険に見舞われるかわからない以上、基本的に身分が高い人間は供もなく行動すべきではない。実際、勝手に一人で行動した結果が、先日のあれである。反省し改めこそすれど、オシュクルにもクイナにも迷惑をかけていたことをケロッと忘れたかのように、こんな願いを口にするものではないのだろう。
(オシュクル…呆れているのかしら)
少し考え込むように眉間に皺を寄せるオシュクルの様子に、思わず目を逸らす。
言わなければ良かったかとアレクサンドラが後悔しだした時、オシュクルが動いた。
「――少し待っていろ」
そう言って、オシュクルはテントの隅に置かれた荷物の中から、小さな木製の箱を取り出した。
促されるままに蓋を開くと、アレクサンドラの手のひら半分ほどの、ドラゴンと同じ色をした鉱物のようなものがついたネックレスが入っていた。
「これは…」
「シュレヌの額の鱗だ。滅多に剥がれ落ちることがない、希少なものだ」
そう言ってオシュクルは、先に着いた鱗の部分を包み込むように手のひらで握りしめてみせた。
「こうやって強く握りしめると、私はシュレヌの思念を通じて、鱗の持ち主の状況を知ることができる。何かあったとしても、すぐにお前のもとへ駆けつけることができる。これを、お前に渡しておく」
「え…いいのかしら。そんな大切なものを私が預かっても」
「もともとお前にあげるつもりで細工していた物だ。つけてみろ」
促されるままに、ネックレスを首に通す。オシュクルが細工をして取り付けた紐のながさはちょうどよく、鱗はちょうどアレクサンドラの胸のあたりに収まった。
それをつけた途端、なんだか、胸のあたりがぽかぽかとしてきたような気がした。
「この辺りは盗賊も出ないし、猛獣もいない。よほど危険はないだろうが、それでも用心して置くにこしたことはないからな。…できる限り早く、戻ってこい」
「うん…ありがとう。オシュクル」
テントを出ると、思わず目を細めてしまうくらいに明るい月が、頭上に上っていた。
そんな月を見上げて、思わず小さくため息を吐く。
(そういえば、あの夜の月はどんな風だったかしら)
クイナと、エルセトと三人で連れ立って帰ってきた祭りの夜を、どこか懐かしいような気持ちで思い返す。まだそれほど時間は経っていないはずなのに、なんだか遠い昔のことのように思えた。
あの時の自分と、今の自分。そして、あの時のクイナと、今のクイナ。
一体何が変わったのだろうか。
「……どうやったら、クイナに謝れるのかしら」
月明かりの下で歩きながら、思わずぽつりと吐き出した言葉。
それは夜の空気にただ、溶けて消えるだけのはずの独り言のはずだった。
「――アドバイスがご所望デスか?お妃サマ」
「っ」
不意にすぐ後ろから聞こえてきた言葉に、アレクサンドラは慌てて振り向いた。
「今晩ハ。イイ夜更けデスね」
振り向いた先には、どこかで見たことがある気がする、にやけ顔の男が立っていた。