劣等感、噴きだす
温かい手だった。
優しい手だった。
見えない手に促されるように、アレクサンドラの意識がふわりと覚醒していく。悪夢の世界がぼやけて、滲んでいく。
これは、一体誰の手だろうか。
(…オシュクル…?)
そのまま目を醒ましたアレクサンドラは、数度瞬きをしながら、いまだ焦点が合わない目で現実の世界を捉えた。
まず目に映ったのは、もうすっかり見慣れてしまったテントの骨組み。
そして、少し離れた位置から、アレクサンドラを除きこむ、その人物は。
「――大丈、夫です、か?…うなされて、いた」
「…っ!!!」
僅かに眉を寄せてアレクサンドラの手を握りめている、クイナの姿だった。
「っ触らないでよ!!」
次の瞬間、アレクサンドラはクイナの手を思い切り振り払っていた。
「…何をしに来たの?何で貴女がここにいるの…?」
「…オシュクル様、頼まれ、て…」
「私を、笑いに来たんでしょ!!」
完全に支離滅裂で被害妄想なことを口にするアレクサンドラに対して、クイナは少しも動じることも不愉快な様子もなく、平静に返事を返していたのだが、アレクサンドラの目にはそう映らなかった。
先程までの鮮烈な悪夢が、目の前にいるクイナを歪んだ姿に見せていた。
(クイナは、私からオシュクルを奪おうとしている…私のことを、心の底では蔑んでいる)
未だ熱でうなされた脳裏は、夢と現実の境目を曖昧にした。
「笑いに来たんでしょ…考えなしにドラゴンに近づいて襲われた挙句、体調を崩して、旅のみんなに迷惑を掛けてばかりの私を…何一つ満足に出来ないで、役立たずの私を、笑いに来たんでしょ!!」
アレクサンドラの目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。
クイナを糾弾する一方で、それが単に八つ当たりだと言うことは、本当は分かっていた。
それでも、言葉が勝手に口から溢れ出して止まらなかった。
遊動の旅を続ければ続ける程、クイナのことを知れば知るほど、劣等感が胸の奥に湧き上がって肥大していく。ルシェルカンドにいた頃は一度も感じたことがなかった、生れて初めて抱いたその醜い感情を、アレクサンドラは自分自身でどう処理すればいいのかが、分からなかったのだ。
「笑いなさいよ…笑えばいい…貴女にもたくさん迷惑をかけた挙句、突然こんな風にわめく馬鹿な私を、みっともないと笑えばいいわ…貴女には、その権利があるのだから…」
そう言い捨てるとアレクサンドラは両手で顔を覆った。
醜く歪んだ、今の自分の顔を、クイナに見られたくなかった。
美しいと言われる外見しか取りえが無いのに、それすらも無くなった今の自身の姿を、アレクサンドラすら見惚れてしまうくらい美しいクイナに知られたくなかった。
クイナの顔を、見たくなかった。
呆れかえり、不愉快を露わにしているだろうクイナの顔を真っ直ぐに見たら、さらにどうしようもなく惨めになるような気がした。
(ああ、本当、私はみっともない…なんて、みっともない、醜い姿を見せているんだろう)
夢の中の、オシュクルの姿が、脳裏に過ぎる。
夢の中のオシュクルは、アレクサンドラよりもクイナの方がずっといいと言った。当たり前だ。何も出来なくて、みっともないアレクサンドラなんかよりも、有能でしっかりしているクイナの方が、誰だって良いに決まっている。そんなのは愚問だ。だから、夢の中のオシュクルの言葉は、きっとオシュクルの本心だ。
だけど。そんなこと、知っているけれども。それでも
「笑って、いいわ…いくらでも笑っていいから…お願いだから、オシュクルは取らないで…」
「………」
「…私から…オシュクルを取っていかないで…」
それでも、どうしてもアレクサンドラはオシュクルを諦めることは出来ない。
いつの間にか胸に芽生えていた初恋を手放すことなんか、出来やしないのだ。
例え、オシュクルとクイナが心の底では互いに愛し合っていたとしても。
「…………」
アレクサンドラの言葉に、クイナは黙り込んだままで、暫しの間、テントの中にはアレクサンドラがぐすぐすと鼻を鳴らす音だけが響く。
先に沈黙を破ったのは、クイナのほうだった。
「――取る気なんか、ないし…笑わない」
突然間近で聞こえたクイナの声に、思わずアレクサンドラが顔を覆った手を離すと、いつの間にかぎょっとするくらい近い距離にいたクイナと目があった。
アレクサンドラと目があった瞬間、クイナはその黒い目を僅かに細めて、微笑んだ。
普段の無表情からは想像がつかないくらい、優しい表情だった。
あまりの衝撃に、気が付けばアレクサンドラの涙は止まっていた。
「役に立たない…最初は、みんな。…私も、最初は私も、そう」
「――え…」
「私、最初の一年くらい、しょっちゅう寝込んで、旅、中断させていた…何も出来ない自分が嫌で、夜、毎日泣いた」
それはアレクサンドラにはにわかに信じられない言葉だった。
これほど、優秀なクイナにそんな時代があっただなんて、とても想像が出来ない。
「…それって、一体いつのことなの?」
「10歳」
「…………」
(…そんな幼いならば、仕方ないでしょう。私とは、全然違うわ)
クイナの返答に、再び落ち込みだすアレクサンドラだったが、クイナはそんなアレクサンドラの反応を特に気にする様子もなく、静かにその場を立ちあがった。
「大丈夫。みんな、待ってる、よ…私達も、ドラゴン達も、皆、アレクサンドラ様元気なるの、待っている…だから、大丈夫…ゆっくり、治して、下さい」
(…ドラゴン、達も?)
「…それって、どういう…」
アレクサンドラが言葉を口にする前に、クイナはさっさとテントを出てしまっていた。
(私、まだ八つ当たりをしたことを、クイナに謝っていないのに…)
アレクサンドラは暫くの間唖然と、テントの入り口を眺めていた。
そして徐々に平静になっていくにつれて、先程までの自分の行動のあまりのひどさに、じわじわと自己嫌悪の感情が湧き上がって来る。
悪夢から覚醒しきれず、半分寝ぼけていたからといって、いくら何でもあの行動はない。
クイナはオシュクルに頼まれて、アレクサンドラの傍についていてくれて、うなされるアレクサンドラの手を握り締めてくれたというのに。それなのに、自分はなんという態度を取ってしまったのだろう。
アレクサンドラが自身の卑小さに落ち込んでいる時、テントの入り口が開いた。
「アレクサンドラ。クイナから目を醒ましたと聞いたが、調子はどうだ?」
「オシュクル…」
(…オシュクルはクイナから先程のみっともない私の様子を、聞いたのかしら)
思わず身を固くするアレクサンドラに、オシュクルは特に気にする様子もなく近づいて来ると、その大きな手をアレクサンドラの額に当てた。
「うむ…熱は大分下がったな。良かった」
「オシュクル…その…クイナから…」
「そうだ。クイナから聞いたのだが、アレクサンドラ、お前はまだ旅を中断させたことを気にしているようだな」
「っ!!」
(どうしよう…オシュクルに知られている…オシュクルに嫌われるわ…)
『私だって、お前のような我儘な娘よりも、本当はクイナのような従順な娘を妻にしたかった。実際、私はずっとクイナを愛していた』
夢の中のオシュクルの言葉が脳裏に過ぎり、アレクサンドラは体を震わせて俯いた。
けれど叱責を恐れるアレクサンドラの不安をかき消すように、オシュクルはいつものように優しくアレクサンドラの頭を撫であげてくれた。
「気にやむなと言っただろう?お前が心配することなんて、何もない」
「でも…でも私のせいで旅が中断して…ドラゴン達も…」
俯いた頭上で聞こえるオシュクルの溜め息に、アレクサンドラは肩を跳ねさせる。
やはり、嫌われてしまったのだろうか。
死刑宣告を待つ罪人のように俯いて唇を噛みしめるアレクサンドラに対して、オシュクルが告げた言葉は、意外なものだった。
「…これくらいの微熱なら、少しくらいなら、まあ、いいか」
「……え?」
「――来い、アレクサンドラ。お前が何も心配する必要がない証拠を、見せてやる」




