悪夢
アレクサンドラの問いかけにオシュクルは困ったように僅かに眉を寄せた。
「アレクサンドラ。お前はどうしたい?」
オシュクルの言葉にアレクサンドラはそっと目を伏せた。伏せた眼から新たな涙がもう一筋零れ落ちる。
旅で病人の存在はお荷物以外の何物でもない。
ただでさえ旅に不慣れなアレクサンドラは迷惑を掛けているのに、これ以上皆に迷惑をかけるわけにはいかない。
それに王宮に戻れば、専門の医者も、薬も、治療の為に必要なあらゆるものが簡単に手に入るだろう。
病気が快復するまで、一旦エルセトの魔法で王宮へと送って貰うのが最善なのだろう。
けれど。
「…戻りた、くないわ…」
熱に浮かされた頭は、そんな理性的な考え方を甘んじてはくれない。
「置いて…いかれるのは、嫌よ…お願い…ここにいさせて…」
アレクサンドラは湧き上がる感情のままに、顔をくしゃくしゃにしてオシュクルに縋った。熱で力が入らない手で、精一杯オシュクルの服を掴む。
このまま王宮に戻れば、もう二度とここへ戻って来れない気がした。もうオシュクルに会えないような、そんな気がして仕方なくて、それがオシュクルを困らせるかもしれない我儘だと分かっていても、アレクサンドラは言わずには要られなかった。
(置いて行かないで…私を一人にしないで…)
まるで母に縋る幼児のように啜り泣くアレクサンドラの手に、オシュクルはその大きな手を重ねた。
「…ならば、そうしよう。全てはお前が望むように。どうせ、急ぐ旅ではない」
「……それがしと致しましては、王宮で介抱されて頂いた方が、ずっと楽なんですがね。送り迎えくらい、簡単にできますし」
「…エルセト」
「そんな目で見ないで下さい。オシュクル様。それがしは本当のことを言ったまでです。何分正直ものなので。…まあ、いいですけど。命に関わるような大病というわけでもないですし。王妃様の状況を思えば、皆も納得するでしょう……と言いますか、十中八九アレクサンドラ様がここにいる限り、出発できる状態ではないでしょうし」
「やはりエルセトもそう思うか?…そういうことだ。アレクサンドラ。変に気にやんだりせずに、ただ元気になることだけを考えて、ゆっくりと休め」
何がそういうことなのか、アレクサンドラはさっぱり分からなかったが、自身の願いが受け入れられたことだけは分かった。
その事実に安堵する反面、同時にどうしようもない罪悪感が湧き上がっても来た。
(本当に、私は皆に迷惑を掛けてばかりだわ)
いつだって、ただ自分のことばかりで、他の皆のことまで気を配ることができない身勝手な自分自身がアレクサンドラは嫌で嫌で仕方なかった。
(私がクイナだったら、こんな我儘言ったりしなかったのかしら)
もし、熱を出したのがアレクサンドラではなくクイナだったら、皆に迷惑がかかるくらいならばと、すぐさま王宮に戻ることを了承しただろう。自分自身の感情よりも、遊動の旅の皆の労力を考えて、みっともない我儘なんか言わなかっただろう。
そしてオシュクルはそんなクイナを一層信頼して…想像しただけで、熱故のものとは違う胸苦しさが、アレクサンドラを襲った。
様々な感情が胸の奥に渦巻いたまま、それでもアレクサンドラは熱に浮かされるがままに、失神するかのようにそのまま眠りの淵に沈んでいった。
けれどもそんな精神状態で見る夢なんて、大抵の場合碌なものでもない。
案の定、アレクサンドラが見た夢もまた、悪夢だった。
『――アレクサンドラ・セルファ。…今日を持って、私はお前との婚約を破棄する』
それは、まだ記憶に新しい、かつての婚約者ルーディッヒに婚約破棄されたあの場面だった。
『何を言っているの!?そんな賤しい身分の娘の為に、何でセルファ家の令嬢である私が婚約破棄なんて…』
『パルマは今はもう平民じゃない…セルファ家と同等の身分である、ダルド家の養女で、れっきとした貴族令嬢だよ』
パルマ…そう、確かそんな名前だった。
まるで小動物のような愛らしい…それでもどこにでもいるような顔をしたパルマという名の庶民出身の娘を背中にかばいながら、ルーディッヒは普段の優しげな雰囲気からは想像もつかない怜悧な表情でアレクサンドラをねめつけた。
『っそれがどうしたというの!?いくら形ばかりの身分を手に入れた所で、その娘の出自が賤しいことには変わりはないわ!!』
『そうだね。身分なんて、所詮は書類一枚で手に入る肩書。確かにそれに人間の本質は関係ない。…だけど、それはお前も同様だろう?』
口に嘲笑を讃えながら、アレクサンドラを見るルーディッヒの目を、アレクサンドラの夢は過去体験したままに忠実に再現していた。
今でも忘れられない、あの冷たい目。まるで、投げ捨てられたゴミを見るかのような目だった。
『アレクサンドラ・セルファ。セルファ家の令嬢という肩書と、その皮一枚の差でしかない無駄に見目麗しい容貌を除けば、一体お前には何が残るというんだ。無駄にプライドばかり高い、愚かでヒステリックな本質が残るだけだろう?…いい機会だから、言って置こう。私はずっとお前のことが大嫌いだったよ。最初に婚約を結んだ頃から、ずっとね』
『――っ私だって、貴方のことを好きだったことなんてないわ!!』
過去の自分はその時、向けられたあからさまな侮辱にただ、怒り狂った。
『いいわ!!そんなに、その卑しい身分のどこにでもいるような女が好きだというのならば、喜んで婚約破棄に応じてあげるわ。貴族にとっての婚姻の意義を理解せずに、愛だなんて言う表面的な感情で結婚相手を選ぶような無能な夫なんて、こちらから願い下げよ!!せいぜい一時の感情に身を任せたことを、後で悔いればいい!!』
過去のこの時、アレクサンドラはこの言葉を心の底から発していた。
ルーディッヒの言葉は、少しもアレクサンドラの胸に届くことはなかった。
おかしいのは、愚かなのは、あくまで自分の価値が分からないルーディッヒの方で、自らに非があったとはアレクサンドラは微塵も思っていなかった。迷いなど、なかった。この世で一番正しいのは、自分だと思っていた。
けれども、今になって、過去のルーデッィヒの言葉は、アレクサンドラを打ちのめしていた。
(オシュクルも、同じことを思っているのかしら)
オシュクルも心の底では、アレクサンドラのことをルーディッヒと同じように感じていて、いつか同じように、アレクサンドラから離れようとするのだろうか。
『――ならば、良かった』
『っ!!』
アレクサンドラの胸の不安を誘うように、夢の中のルーディッヒの姿が、いつの間にかオシュクルの姿に変わっていた。
その背が庇うパルマの姿は――クイナ、だ。クイナに変わってしまっている。
『お前が婚姻を破棄することを了承してくれるというのならば、私も喜んで応じよう。元々ただの政略結婚だ』
『…ちがう。ちがうの。オシュクル…さっきの言葉はオシュクルに言ったわけじゃ…』
『私だって、お前のような我儘な娘よりも、本当はクイナのような従順な娘を妻にしたかった。実際、私はずっとクイナを愛していた』
『っ…』
オシュクルが背中のクイナを、愛おしげに引き寄せる姿に、アレクサンドラの頭の中は真っ白になる。
引き寄せられたクイナは、相変わらずオシュクルを輪に掛けた無表情だったが、その頬は恋に浮かされているかのように薔薇色に染まっていた。
『国の都合もある為、実質的な婚姻の破棄は難しいが…それでも私にとって真実の妻はクイナだ。夫婦という肩書よりも、心の繋がりの方がずっと重要だ。アレクサンドラ、私は気にしないから、お前も好きに恋人を作ればいい』
『嫌…嫌よ…オシュクル、嫌…』
オシュクルが、クイナの肩を抱いて、アレクサンドラから背を向ける。
『行かないで…お願いだから、私を置いて行かないで、オシュクル…』
どんなに手を伸ばしても、どんなに声をあげて縋っても、アレクサンドラの想いはけしてオシュクルには届かない。
オシュクルは、ただ、クイナだけを見ている。そしてクイナもまた、オシュクルだけを。
『戻って来てオシュクル…!!――愛しているのよ!!』
――大声で泣き叫んだその瞬間、不意に、伸ばした手を握り締める、誰かの手の温もりを感じた。