恐怖心嫉妬心
アレクサンドラの今までの人生において、命の危機は縁がない物だった。
アレクサンドラは健康で、昔から大した病気をする事はなかったし、怪我とも無縁だった。
セルファ家の一人娘であるアレクサンドラの暗殺を謀ろうとする者も、実をいえば皆無ではなかったが、それは有能なアレクサンドラの周りの召使い達が事前に阻止して、愚かで愛すべきお嬢様にその存在を悟らせることはなかったのである。
だからアレクサンドラは自身の死を意識する事は、今この瞬間が初めてだった。
死を前にすると人の脳裏には走馬灯のように、過去の光景が過ぎるという。けれどアレクサンドラの頭の中は、今、真っ白だった。
否、真っ白だと言えば、少し違う。何が起こっているかもわからず、冷静にその場の状況を判断することも出来なかったが、今アレクサンドラの頭の中はたった一つの感情でいっぱいになっていた。
(怖い)
その感情は、「恐怖」
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
生温かいドラゴンの息がアレクサンドラの顔にかかる。
あの牙が体を貫いた瞬間、アレクサンドラ・セルファという人間はこの世から消え去るのだと思うと、ただひたすら怖くて仕方なかった。
「――グゥエン、エイグト ルネア!!」
けれど、ドラゴンの牙がアレクサンドラの命を絶つ前に、凛としたモルドラ語がどこからか響いた。
その声に従うように、ドラゴンはすぐさまアレクサンドラの上からどき、声の主の方へと向かっていく。
ドラゴンが向かったその方向にいたのは。
「…クイナ」
そこには、先程とはうって変わって従順な姿を見せるドラゴンと、そのドラゴンに向かってそっと手を伸ばすクイナの姿があった。
「――全く。早朝に1人テントを抜け出すから、一体どこに行くのかと思えば」
そして次の瞬間、アレクサンドラの体は宙を浮いた。
優しい手が、アレクサンドラの体を持ち上げ、体についた土を払う。
「まさか一人でドラゴンに近づこうとするとは思わなかった。…怪我はないか?」
「オシュクル…」
眉を寄せて覗き込むオシュクルの顔を見た瞬間、アレクサンドラの涙腺は決壊した。
「ごめ…ごめん、なさい…ごめん、なさい…勝手なことして……」
「謝ることはない。事前にちゃんと注意をしていなかった私にも問題がある。アレクサンドラが他国の人間で、ドラゴンの生態に対する理解が甘いことを、ちゃんと把握しておくべきだった」
「怖…怖かったわ…死ぬかと、死ぬかと思ったの…」
「もう少し早く助けに入ってやれば良かったな。すまない。だが興奮するグゥエンを傷つけることなく御せるのは、クイナだけなのだ。呼びに行っていたら、少し到着が遅れた」
優しく抱きしめてくれる、オシュクルの腕の中でアレクサンドラは暫くそのまま泣き続けた。
体が震え、嗚咽が止まらない。
あれが、死だ。死の恐怖だ。
浅慮だと、愚かだと、昔から何度も何度も言われて来た。何度言われても、深く反省することも改めることもないまま、今まで生きてきた。
この時初めて、アレクサンドラは自分の浅慮な愚かさが、死の危険さえ招きかねないものであるということを知った。
「他の神達…ドラゴン達は、多少近づいた所で問題ない。彼らは自身に向けられる害意には敏感だが、逆に害意が無い人間には驚く程寛容だ。けれども今のグゥエンは発情期だ。発情期の雄ドラゴンは、自身の番に近づくものに攻撃的になる。遊動の旅のメンバーでも、クイナと番のシュレヌに仕える私以外はそうそう近づけないのだ」
「え…あれがシュレヌではないの?」
「…シュレヌはグゥエンの後ろだ。確かに番のドラゴンは模様が良く似ていることが多いが、見比べてみると全然違うだろう。シュレヌの方が模様が繊細だし、色が鮮やかだ」
オシュクルの言葉に、二体のドラゴンを見比べてみるも、残念ながら一見では違いは全く分からなかった。
どうも、オシュクルの評価には自身の神に対する欲目が入っている気がして仕方ない。
視線の先で、クイナとグゥエンが楽しげに戯れている姿が見えて、アレクサンドラの胸は何だか苦しくなった。
助けてもらって本来は感謝しなければならないところだ。だから、こんな感情を抱くのは間違っているのだろう。
けれども、自分はただ近づいただけで襲われるようなドラゴンを、簡単に御すことができるクイナの能力の高さに、どうしても苦いものが湧き上がってくる。
(何故、私とクイナはこんなにも違うのだろう)
生きてきた世界が違うのだから、仕方ない。クイナがドラゴンと過ごした時間は、アレクサンドラよりずっとずっと長いのだから、当たり前だ。
分かっているのに、嫉妬してしまう気持ちが止められない。
モルドラ風の美しい顔も。
アレクサンドラが持たない妖艶な雰囲気も。
オシュクルから向けられる、様々な信頼も。
凶暴なドラゴンを簡単に御すことができる高い能力も。
クイナの全てが、アレクサンドラの劣等感を刺激する。
自分の愚かな行為のせいで、失敗した後なだけに、特に。
「…仲がいいのね。クイナはグゥエンと」
「ああ。今の遊動の旅のメンバーで、グゥエンが心を許しているのはクイナだけだ。…だが……」
口ごもる様に言葉に詰まったオシュクルに、アレクサンドラは視線をオシュクルへと向けた。
そして、視線を向けたことを次の瞬間、すぐさま後悔した。
(オシュクル、何でそんな目で、クイナを見ているの…)
普段は碌に感情を表に出さないオシュクルの目が、今、切なげな色を滲ませてクイナに向けられていた。
まるで切ない片恋をしているかのような、その表情にアレクサンドラの胸はぎゅうぎゅうに締め付けられる。
(オシュクルは、クイナが好きなの?)
だとすれば、自分はどうすればいいのだろう。
クイナに勝てる所なんて全く思いつかない、名ばかりの妻である自分は。
「…それより、アレクサンドラはどうしてここに来たんだ」
「あ…えと…シュレヌと仲良く、なりたかったの…ドラゴンを知りたくて…」
「そうか。それなら明日からクイナと一緒にここに来てみるか?クイナと一緒なら、グゥエンは興奮したりしない筈だ。…勿論、アレクサンドラ。お前が今日のことで、ドラゴンを怖くなっていないなら、だが」
クイナと二人きりで、ドラゴンに会いに行く。
そんなオシュクルの提案を、アレクサンドラは素直に頷けなかった。
それはなんだか酷く、惨めで苦しいことのように、今のアレクサンドラは感じられた。
「…少し、考えてみるわ。ドラゴンの危険性を身に染みて分かったから」
「そうか」
そして、そんな自身の臆病さが、アレクサンドラをさらに落ち込ませた。
その晩、アレクサンドラは高熱を出して寝込んだ。
「どうも慣れない環境で疲れが溜まっていらっしゃったようですな。もしかしたらグゥエンに襲われたショックも要因かもしれません。薬を飲んで、二、三日安静にしていれば治るでしょう」
「そうか…なら、良かった」
頭上で交わされるエルセトとオシュクルの言葉を、アレクサンドラは熱で朦朧とする意識の中聞いていた。
「アレクサンドラ。少し上体を起こすぞ。ゆっくりでいいから、これを飲め」
唇に当てられたカップから、促されるままに中の液体を口に入れる。
ひどく苦くてまずかったが、何度も咽そうになりながらも、何とか飲み干した。
そして飲み終わると、再び布団に横にならされた。
「…ねぇ、オシュクル…」
「どうした?アレクサンドラ。熱いのか?」
「…明日の朝まで、熱が下がらなかったら、私どうなるの…?」
アレクサンドラの目からぽろりと熱い涙が零れ落ちた。
「…私、邪魔にならないように…王宮に戻らないと、駄目かしら…?」