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自業自得のその結果

 一体いつからだ。いつから自分はオシュクルの恋に落ちていたのだろうか。

 オシュクルから真っ直ぐに向けられた笑顔を、初めて見た日だろうか。

 オシュクルの腕の中で、初めて一晩過ごしたあの晩か?

 その背に負われながら、荒野を移動したあの時間か?

 初めて頭を撫でられた、あの時か?

 それとも、もしかしたら王宮で初めて対峙して、この人が夫になるならば悪くないと思った瞬間には、既に恋に落ちていたのだろうか。

 分からない。だって、その感情はいつの間にか当たり前のもののように、アレクサンドラの胸の中に芽生えていたから。それは余りにも自然で、あたかも生まれた時からアレクサンドラに寄り添ってきた感情のように、あっという間にアレクサンドラの中に馴染んでしまったから、今の今まで存在していたことですら気が付かなかった。

 昔、何かの物語で見た、突然頭上に雷が落ちるような激しく衝動的な感情とは、余りにもほど遠い、ひっそりと柔らかく降り積もる粉雪のような、それ。

 けれどもそれは、確かに恋だった。静かにゆっくりと降り積もり、重なりながら、いつの間にかアレクサンドラの心の中を満たしてしまっていた。

 だって、恋じゃなければ、一体この感情は何だというのだ。敬愛する父セゴールに向ける「好き」とも、優しくしてくれた使用人達や、遊動の旅の人々に対する「好き」とも違う、オシュクルに対する特別な「好き」を、一体どんな名称で表せばいいのか。

 ただ一人、オシュクルだけに感じる、オシュクルじゃなければ駄目な、この特別な「大好き」を。


(まさか私が誰かに恋をする日が来るだなんて、思っても無かったわ…)


 アレクサンドラは朱色の頬を両手で挟みながら、ほおっと息を吐き出す。

 結婚した夫に恋をされることは考えても、自らが恋をする事なんて考えたことも無かった。

 だって、女性はあくまで受動的な立場で、選ぶのはいつだって男性の方だと、そう思って生きてきたから。

 女性側が自発的に出来るのは、自らを美しく磨くことで、少しでも好条件の男性から選ばれるように仕向けることだけ。それだって、家の都合や社会の風潮でいくらでも簡単に覆るようなことだ。

 宛がわれた夫に、気に入られるように努めて、妻としての情愛を注ぐことに、恋愛は必要ない。アレクサンドラは貴族の娘として、早々とその辺りは割り切ってしまっていた。恋愛ごとに憧れる女性を、何とも夢見がちで子どもっぽいことだと嘲ってさえいたのに。

 それなのに、まさかそんな自分が恋に落ちるだなんて。


(私の美貌でオシュクルを夢中にさせてやるつもりだったのに…)

 悔しくないと言ったら、嘘になる。

 けれどもアレクサンドラは悔しさ以上に、新しく発見した自分自身の感情に対して感動を覚えていた。


(オシュクルの言うとおりだわ。オシュクルといると本当に世界が広がるのね)


 二人でいると、世界が広がる。そう、今まで知らなかった自分さえ、知ることができるのだ。オシュクルが、新しい世界をアレクサンドラに教えてくれた。

 それが新鮮で、嬉しい。

 アレクサンドラは、湧き上がる衝動のまま、どこか擽ったそうに微笑んだ。



 生まれて初めての恋を自覚し、アレクサンドラは完全に自分の世界に入り込んでいた。

 中身は色々残念なところこそあれ、アレクサンドラは見かけだけなら絶世の美女。多少異様な状態ではあるものの、頬を薔薇色に染めて、恋に目を輝かせるアレクサンドラの姿は、十人の人間がいれば九人は見惚れるであろうくらいに愛らしかった。

 けれども、アレクサンドラの目の前に対峙している男は残念ながら、数少ない一割の部類の人間であった。


「……………」


 エルセトは、恋に浸るアレクサンドラを前に、意図せずしてこの上ない面倒事と対峙してしまったかのような、非じょ―――に嫌そ――――な顔をして、言葉を失っていた。

 その顔にはありありと「失敗した」と書かれていた。

 アレクサンドラの表情を見て、どうやら自分は疑心暗鬼に陥るあまりに、つかなくてもいい藪をつついてしまったと、エルセトは悟った。

 危険な蛇こそ出てこなかったが、代わりに何だか非常に面倒くさくて、鬱陶しい何かを出現させてしまったらしい。

 もはやエルセトの中に、アレクサンドラに対する疑念は無くなっていた。いや、完全に消え去ったわけではないものの、このどこまでも分かりやすい目の前の人物を疑うことの馬鹿らしさを聡いエルセトは早々に気が付いた。

 もしアレクサンドラが何かを企んでいたとしても、この様子だとどの道簡単に露見することだろう。今は取りあえず泳がして置いても何も問題はなさそうだ。…否、もしかしたらそれを狙って敢えて愚かものを演じているのだとは考えられないだろうか。そもそも、ルシェルカンドから追放されたこと自体がモルドラに潜入する為の策略だったのやもしれない。ならば、そう簡単に警戒を緩めないようにしなければ。


 そんな新たに湧き上がるそんな疑念が、エルセトの足をその場に留めた。

 それが失敗だった。


「……ねぇ、エルセト。お願いがあるのだけど…」


 いつの間にか自分の世界から戻って来たアレクサンドラが、エルセトと目を合せてにっこりとほほ笑んだ。

 その瞬間、エルセトの肌がぞわりと粟立った。なんだか、非常に嫌な予感がする。自らの身に、非常に面倒で不愉快な出来事が降りかかってくるような、そんな予感が。


「――申し訳ありません。アレクサンドラ様。全て、それがしの考え過ぎだったようです」


 エルセトはアレクサンドラの言葉を敢えて聞かなかったふりをして、瞬時に胡散臭い笑みを顔に張り付けて頭を垂れた。


「どうもそれがしは、人を疑い過ぎる傾向があるようでして。よくよく考えたら、お妃様の様な単純な…否、子どものように分かりやすくて微笑ましい思考回路を持ってらっしゃる女性が、そのような二心など抱くはずもありませんものな。いやはや、実に失敬致しました。けれども、これも全てそれがしのオシュクル様への忠心が故。同じオシュクル様を慕うものとして、広い心でお許しください」


 新たに湧いた疑念は、取りあえず今は置いておいて、今後のアレクサンドラの経過を観察して真偽を考察しよう。それよりもまず、今はこの場を離れる方が先決だ。

 それでは失礼をば、そういって踵を返そうとしたエルセトだったが、当然ながらそれを許すアレクサンドラではない。


「…お妃様。何ですかな?それがしの肩にかかったこの手は。婚姻を結ばれている女性が、みだりに伴侶以外の男性に触れるのは、余り感心いたしませんが…」


「ねぇ、エルセト?仮にも仰ぐべき存在である主人の奥様を疑って置いて、それだけの謝罪で済まそうだなんてあんまりだとは思わない?貴方はもっと、私に誠意を見せるべきだと思うのよ」


「ほう…それではこの場で土下座でも致しましょうか?」


「そんなものしてもらったところで、私はちっとも嬉しくないわ。私はただ、疑ったお詫びとして少し協力して欲しいことがあるだけなの」


 かけられたアレクサンドラの指が爪を立ててギリギリと食い込まされ、エルセトの肩はプルプルと震えた。


「大したことじゃないわ…ねぇ、エルセト。知っているかしら。恋する女性というのは、恋した相手のことをもっと知りたいものなの。たとえば、古くから相手のことを知る友人の口から話を聞いたりして、ね?」


「…ほお、それがしは生憎恋とは無縁に生きてきたので、いまいちよく分からないのですが、それならば良かったですな。この遊動の旅のメンバーは皆オシュクル様のことを良く知っている者ばかりです。さぁ、誰にでもお気軽にお尋ねください。クイナに通訳をさせましょう」


「後ね、恋する女は悩み多き生き物なようね。誰かに自身の恋の相談に乗ってもらいたいのよ」


「ならば、ますますクイナが最適ではないですか!!同じ女性だけ合って、一層話しやすいでしょう。何ならそれがしから、アレクサンドラ様のことをクイナに伝えても…」


「……ねぇ、エルセト。クイナのあのルシェルカンド語の能力で、複雑な悩み相談を出来ると、本当に思っているの?そもそも、あのクイナが、同じ女性というだけで恋の相談をしやすい相手だと?」


「………………」


「…そもそも私にオシュクルへの感情を気付かせたのは貴方でしょう?責任もって協力してくれるわよね?」


 目の前に突き付けられた、あからさまな面倒事を、エルセトはただ受け入れるしかなかった。

 完全に、自業自得の結果であった。


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