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アレクサンドラの出立

 モルドラへ発つ前日。

 父セゴールは、アレクサンドラの為に特別な休暇をとった。それはアレクサンドラが物心のついた頃から常に多忙な毎日を送っていたセゴールが、アレクサンドラの知る限り初めて自分から申請したであろう休日だった。

 お説教以外では基本的に寡黙なセゴールと一日対峙することは、アレクサンドラにとってどうしても神経を使うことだったが、それでもやはり嫁ぐ前の娘に対する父親の愛情が嬉しかった。


「私ね、お父様。絶対にモルドラの王の寵姫になるの。寵姫になって、次の王様になる子どもを産んで、モルドラで確固たる地位を築くの。そうなれば、外国人の王妃だとしても、国中に受け入れられて、権威を奮うことが出来るわよね?」


「…ああ、そうだな。お前が王の子を成せば、きっとモルドラの国民もお前を心から受け入れるだろう」


「ねぇ、お父様。そうなったら、お父様も嬉しい?私を誇りだとそう思ってくれるでしょう?」


「ああ勿論。とても嬉しいし、誇りだと思うよ。いや、今のままでもお前は私の誇り…とはとても言い難いが、私の大切な宝物であることは変わりがないよ」


「………お父様、ひどい」


 普段はアレクサンドラの楽観的で夢見がちな言葉を、何を馬鹿なことを叱り飛ばすセゴールだが、この日ばかりはけしてその言葉を否定しようとしなかった。

 そんな父の反応が嬉しくて、アレクサンドラはまるで無邪気な子供の様に、喉が痛くなるまで自分の拙い夢想をせつせつとセゴールに語り続けた。セゴールは目を細めて、静かにアレクサンドラの話を聞いていた。


「――アレクサンドラ。お前の美しいブロンドの髪と、黒曜石の瞳は、リリアナと良く似ている」


 アレクサンドラの話を一通り聞き終えたセゴールは、そう言って優しくアレクサンドラの髪を撫でた。


「あれは、一見儚げで、些細なことですぐ倒れるような病弱な女だったが、その実ひどく芯が強い女だった…アレクサンドラ。お前は浅慮で、たくさんの欠点を抱えてはいるが、確かにリリアナの芯の強さを受け継いでいると私は思っている」


 アレクサンドラは、父がそんな風に母のことを語るのを、初めて聞いた。幼い頃に母リリアナを病気で亡くしたアレクサンドラは、うすぼんやりとしかリリアナに対する記憶がない。ただ笑顔が柔らかくて、ほわほわと温かい陽だまりのような人だったことだけは、何となく覚えている。

 美しいと讃えられつつも、まるで毒花のようだと評される自分とは、到底似ても似つかない存在だと思っていただけに、セゴールの言葉は想定外のものであった。

 どう言葉を返すべきか分からず、戸惑いを隠せないでいるアレクサンドラを、セゴールは優しく抱きしめた。


「アレクサンドラ。明日、私は父親としてではなく、宰相としてお前を送り出さなければならない。だから今日、私は父親としてお前に言うよ。――アレクサンドラ。私はお前を心から愛しているよ。どこに行こうと、誰の妻になろうと、これからもずっとお前を想っているよ。それだけは覚えていてくれ」


 そう告げるセゴールの鳶色の瞳は、堪えきれない涙で潤んでいた。


「お前は確かにどうしようもなく愚かだ。その愚かさ故に、多くの人はお前を批難する。…けれども私は、その愚かさに幾度も救われてきたのだよ。お前の裏表がない愚かさは、魑魅魍魎蔓延る王宮で、虚飾と猜疑の中生きる私にとって、安らぎだったのだよ。お前といる時だけ、私は心の安寧を得ることが出来た」


 真っ直ぐな父親の愛の言葉は、アレクサンドラの胸を強く打った。

 父親に釣られる様にアレクサンドラの目からも涙が…そして加えて鼻からも鼻水が、だらだらと零れ落ちた。

 お世辞にも美しいとは言えない愛娘の泣き顔を、セゴールはこの上なく愛おしげに眼に焼き付けていた。


「聞いてくれ、アレクサンドラ。私は根本的に神を信じていない。神は弱者の心の寄りすがる為に形成された概念であり、為政者が人心掌握の為に用いる道具だ。そんなものに縋っても、真実幸せになれるはずがないと、ずっと思っていた。――けれど、アレクサンドラ。今私は、そんな神に祈るよ。モルドラという縋れる者が誰もいない地で、お前が真実幸福に生きられることを、天上の全ての神々に心から祈らずにはいられないよ。…明日、完全に私の庇護下から離れてしまうお前に対して、私が出来るのは、ただ祈ることだけなのだから」


 その晩ばかりは、図太いアレクサンドラも安らかに眠りにつくことは出来ず、ベッドの上で夜が明けるまで泣き明かした。




 そして明くる日。アレクサンドラは18年の歳月を過ごした故郷を発った。

 アレクサンドラの出立は、国をあげて盛大な見送りがされた。

 これはアレクサンドラの生家であるセルファ家を慮ってというよりも寧ろ、モルドラの心象を意識したが故のことであった。

 アレクサンドラをモルドラの王へ嫁がせた背景には、罪人に対する断罪の意味合いが大きかったが、そんなルシェルカンドの事情をモルドラに悟られるわけにはいかなったのである。

『ルシェルカンドは自国の王家の婚約者でもおかしくない高貴な身分の女性を、惜しみなくモルドラへと送った』

 事実はどうであれ、モルドラにはそう思わせて、ルシェルカンドの評価を高くしたかったのだ。

 アレクサンドラは美しく着飾らされ、国を出る前に馬車に乗って首都を一周させられた。最高級の衣装を身に纏い、普段身に着けているよりも一層質が良い宝石で体のあちこちを飾ったアレクサンドラは、馬車の窓越しで垣間見るだけでも、思わず息を飲む程美しかった。その美しさは、彼女の悪評を知る者ですら、その姿を一目見た瞬間に、彼女が異国の地へ嫁ぐことを思わず惜しまずにはいられない程だった。

 父親セゴールは、そんな娘の出立を、密やかに城の一番高い部屋の窓から見降ろしていた。

 アレクサンドラと共にモルドラに向かうのは、数名の侍女と通訳。だが、それは全て王家によって手配された者たちで、セルファ家に仕えていた者は誰一人アレクサンドラに同行することは叶わなかった。

 それはアレクサンドラが家の使用人達からさえも嫌われていたからでは、けしてない。セルファ家に仕える者達は皆、高慢で我が儘だが、それでいてどこか憎めないお嬢様を愛していた。アレクサンドラを生まれた頃から知る年配の侍女などは、家族を捨ててでも同行することを懇願するほどに。

 けれど、セルファ家の関係者のモルドラへの同行を、ダルド家が許さなかった。ダルド家の家長エドモンドは、「セルファ家の息がかかった人間が共にモルドラに出向いた場合、セゴールが密かにモルドラと繋がりを持って、何か王家に害を成すようなことを画策する恐れがある」と王家に進言したのだ。「娘アレクサンドラを溺愛していたセゴールは、娘と離ればなれになるきっかけを作った王家を恨んでいるかもしれない」と合わせて告げて。当然その言葉の裏には、王家の未来を慮るように見せながら、王家のセゴールに対する心象を悪くしたいという思惑が隠れていた。

 王家はエドモンドの言葉を全て鵜呑みにすることはなかったが、普段は冷静沈着なセゴールがアレクサンドラのことに対してだけは平静でいられないことを知っていただけに、進言にも一理あるとして、セルファ家の関係者の同行を禁じた。その決定には、愚かなアレクサンドラはセルファ家の協力者さえいなければ、そのような器用な真似が出来るはずがないという、エドモンドや王家のアレクサンドラに対する侮りも透けて見えていたのだが、残念ながらというか幸いにというか、アレクサンドラ自身はそのことに全く気が付いていなかった。


 結果、アレクサンドラは周囲に誰一人心を許せる人物がいない、孤立無援の状態で、ルシェルカンドを後にしたのだった。




 ルシェルカンドを出てモルドラへと近づくにつれて、だんだん道は荒れて行き、馬車の揺れは酷くなった。長旅に慣れていないアレクサンドラには、それが酷く不快に感じられた。


(…あーあ。モルドラまでの転移魔法が使える魔道士がルシェルカンドにいれば良かったのに)


 残念ながら転移魔法を使える魔道士は世界でも稀少で、そのうえ彼らが転移させられる地点も人によって限定されている為、どんなに不愉快でも我慢して馬車で行くしかない。

 アレクサンドラは気分が悪くなる前に寝てしまおうと、馬車に凭れ掛かって目を瞑った。昨夜眠れなかったこともあり、存外早く眠気は訪れた。


 その時のアレクサンドラはまだ知らなかった。その時は酷く不愉快に感じられた馬車の移動が、この先アレクサンドラがモルドラで体験するどの移動手段よりも、ずっとずっと快適な物であることを。

 モルドラで待ち受けている未来が、彼女の価値観を一転させるほどに凄まじいものであることを知らないままに、アレクサンドラは馬車に揺られながら、呑気に寝息を立てていたのだった。


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