気付いてしまった
エルセトがモルドラ語で詠唱を唱えると、アレクサンドラは自身の周りに光の膜のようなものが張られるのが分かった。ふわふわとした何か温かいものがアレクサンドラを包みこみ、手を伸ばすと弾力があるかのようにやんわりとアレクサンドラの手を押し返してくる。膜が放つ灯りで、アレクサンドラとエルセトの周辺だけがまるで昼間のようにパッと明るくなったのと、クイナの部屋に灯りが灯ったのはほとんど同時だった。
(すごい…さすが、あれだけ高慢な態度を取るだけあるわね)
目の前で展開された、超一級の魔術にアレクサンドラは素直に感嘆した。
「…これでお望みの条件は整えさせて頂きました。自意識過剰のお妃様は、これにてご満足されましたかな?」
「ええ、満足したわ」
「それはようございました。それがしも魔力を酷使されて、体が少々だるくなったかいがあったというものです――さて」
もう既に慣れつつある嫌味を言い終えた瞬間、エルセトの雰囲気が急に変わったのが分かった。
アレクサンドラは、向けられる張りつめたような空気に身構える。
エルセトは細い目を見開いたまま、その黄金色の瞳を真っ直ぐにアレクサンドラに向けて怜悧な声で言い放った。
「ようやく二人きりで話せる機会を得ることが出来ましたので、戯言はこの辺りにして単刀直入に伺わせて頂きましょう。――アレクサンドラ様。貴女様は一体何を企んでいらっしゃるのです?」
エルセトから切り出したあまりに予想外の言葉に、アレクサンドラは怪訝そうに眉を寄せた。
「…企む?」
「あくまで白を切るおつもりなら、それでもいいでしょう。けれども、アレクサンドラ様。貴女様は今無防備にも自身の体をそれがしの魔力によって拘束されていることをお忘れなく。今、それがしが貴女様に施しているのはご要望通り身を守る為の結界ですが、所詮、それはそれがしが形成したもの。それがしの気分次第では、結界を攻撃魔法に変じさせることなぞ、造作もないことです」
「っちょっと、どういうことなのよ!!それはっ!!」
身を守る為の提案が、逆に自身を害すかもしれない結果に、アレクサンドラは声高に吼えるが、エルセトは鼻で一笑した。
「恨むのならば、自身のご浅慮さを恨むべきではありませんか?それがしはクイナが目の前にいたのならば、けしてそのようなことは出来ません。あれは、愚直なまでにオシュクル様の命令に忠実な女だ。私が貴女様に危害を加えようとしたならば、身を挺してでも貴女様を守ろうとしたでしょう。けれども個人的な感情からクイナを遠ざけたのは貴方様自身だ。アレクサンドラ様、貴女様は自分で自分の首を絞めたのですぞ」
エルセトの言葉に、アレクサンドラは思わず自身の唇を噛む。
感情を優先するあまり、客観的に物事を判断できない悪癖は未だ顕在であることを、むざむざと思い知らされた。
「ですが、ご安心を。それがしとて、いくら見かけだけとはいえ、かように美しくか弱いご婦人を傷つけることは不本意。素直に話してくだされば、貴女様を傷つけることはしません」
「…素直に話せって…別に何も企んでなんかいないわよっ!!」
「ならば何故、貴女様はこの遊動の旅を甘んじて続けているのです?」
アレクサンドラの否定の言葉に、エルセトの声は低く怜悧に変わるが、本当に大した企みなど無いアレクサンドラは怒りを覚える前にただ困惑する。
「それがしは、失礼ながらアレクサンドラ様のルシェルカンドでの生活ぶりを調べさせて頂きました。流石、名門セルファ家のご令嬢。贅沢で、貧しさとも無縁の何不自由無い環境で我が儘放題暮らしていたようですな」
「…それの何が悪いのよ。お金を使って経済を回すことも、貴族令嬢としての役割の一つだわ」
エルセトの言った言葉は、全て事実だ。アレクサンドラにも異論はない。
けれども、それが一体何故批難されるのか、アレクサンドラには分からない。
父、セゴールは、所有する財の中で許される範囲内であるのならば、放蕩は富めるものの義務であると言った。金は使わずに貯蔵すれば、ただ腐る。使うことによって、別のものが財産を得ることができ、そうやって社会は回っていくのだと、いつも口にしていた。そしてアレクサンドラが使っていい限度額を召使に管理させ、アレクサンドラはあくまでその範疇の中から好き放題使っていただけだ。何が悪いというのだろう。
我儘だって言ってはいたが、それを使用人たちが文句を言ったことなんか無かった。嫌そうだったり、悲しそうな顔をしたら、我儘を引っ込めるくらいの優しさは、アレクサンドラだって持っている。けれども、大抵の物事ならば優しい彼らは笑って受け入れてくれていたので、甘えていただけだ。
だいたい、それは全部ルシェルカンドのことで、過去のことだ。エルセトに今さらどうのこうの言われる筋合いなんてない。
「別にそれがしは、その事実自体を批難する気にはなりません。節制を重んじるそれがし達には理解出来ない考え方ですが、それもまた一つの考え方。セルファ家の方針なのでしょう。誠に相容れられない考えだと思わずにはいられませんが」
「それならば、何でそんな今さらなことを口にするのよ?」
「貴女様が理解出来ないからです。アレクサンドラ様」
エルセトの目が、体内の魔力に反応してきらりと光る。
「何故、そのような環境で生きてきた貴女様が、今の環境に満足できるのです?このような不便な生活を捨てたいと、そう思って当然でしょうに、アレクサンドラ様はいつまで経っても、王宮に帰りたいとはおっしゃられない。自身の価値観から外れたここのあり方を受け入れて、しまいにはたかが屋台の菓子ですら購入に罪悪感を滲ませるという殊勝な態度まで見せていらっしゃる。その意味がそれがしには理解出来ないのです。失礼ながら、アレクサンドラ様が自らの環境の変化を素直に受け入れられる人格者とは思えないもので。殊勝な態度は全て演技で、腹の底で何かを企んでいるのだと考える方が自然でしょう?」
「本当に失礼な男ね…しいて企んでいると言うならば、私はただオシュクルに気に入られたいだけよ。私は、オシュクルの、モルドラの王の寵姫になりたいの。唯の政略結婚の末ではなく、オシュクルに愛されてオシュクルの子どもが欲しいだけだわ」
「それに一体何の利があるのです?」
「何の利って…嫁いだ身として、子どもを望むのに利益も何もないでしょう?」
そう、アレクサンドラは自身のモルドラの王妃としての地位を確固たるものにする為に、子どもが欲しいだけだ。その為に、不便な生活を耐えて、オシュクルと共に遊動の旅に参加すると決めたのだ。
ただそれだけが目的で、そこにそれ以上の意味なんかあるはずがない。
(――本当に?本当に、ただ、それだけなのかしら?)
「ただ地位を確立したいだけが目的ならば、子など必要ないでしょう。アレクサンドラ様は、言うならば他国の賓客。それだけで、モルドラの王宮は、それこそルシェルカンドと戦争でも起こらない限り、アレクサンドラ様を粗末に扱うことは致しません。また、モルドラの王は、適性こそが重んじられ、世襲制ではない。オシュクル様が子を持つことは、別段望まれていません。そして、一週間も共にいれば、いくら頭の出来が優秀とは言えなさそうな貴女様でも、オシュクル様の性格はいい加減理解されたでしょう。オシュクル様は、愛情が無い形だけの妻でも、けして粗末には扱わない誠実なお方です。遊動の旅に同行などしなくても、貴女様の王宮での快適なくらしは保障して下さいます」
「………」
「分かったでしょう?…貴女様が不便に耐えてまで、オシュクル様の子を望む利など、とても無いのです」
エルセトの言葉は、多くは以前オシュクルから聞いた言葉でもあったが、第三者の口から発せられた分、一つ一つが今のアレクサンドラの胸に改めて突き刺さった。
(けれども、いくら生活が豊かだって、淋しければ意味がないわ)
遊動の旅を止めたら、あの優しい体温は無くなる。
眠るときに抱き締めてくれる腕も、褒める時に頭を撫でてくれる掌も、無くなる。
アレクサンドラと呼ぶ、低くて耳障りの良いあの声も。
僅かに口元が歪むだけの、不器用な笑みだって見られなくなる。
それは絶対に、嫌だった。
淋しいのは、嫌いだ。オシュクルといる限り、アレクサンドラは淋しくない。きっと、この先もずっと。
淋しさがなくなるならば、多少の不便なんていくらでも我慢ができる。
もっと、あの腕で抱きしめて欲しい。
もっと、あの掌で頭を撫でて欲しい。
もっと、あの声で名前を呼んで欲しい。
もっと、あの顔で笑いかけて欲しい。
傍にいて、一緒に同じ場所で、同じ時を共に重ねて欲しい。
(――淋しさを埋めてくれるならば、誰でもいいのかしら?)
…いや、違う。そうじゃない。誰でも良いわけじゃない。オシュクルがいい。
アレクサンドラは、あの優しくて、不器用な、夫であるあの人がいいのだ。
(ああ、どうしよう。気が付いてしまったわ)
「…利はあるわ」
「一体何があるというのです?」
「だって、私、単純にオシュクルとの間の子どもが、欲しいのだもの」
アレクサンドラは自身の顔に、一瞬にして熱が集中する。
心臓が、うるさい。
「女が好きな人の子供を望むのは、当然の心理でしょう?」
この時になってようやくアレクサンドラは、政略結婚で結ばれた夫に、いつの間にか生まれて初めての恋をしていたのだということを知った。




