変わっていくもの
それから暫くは、同じような毎日が続いた。
筋肉痛が治っても、一日歩けばまた筋肉痛に襲われる為、アレクサンドラは行進の多くをオシュクルの背の中で過ごすことになった。
ニ回目に背負われた時、アレクサンドラは早々に開き直ることにした。一朝一夕には筋肉がつかないのだから仕方ない。もう、オシュクルを新手の乗り物だと思って、楽できることに感謝しつつ、オシュクルの鍛錬に一役買っているのだと自身に言い聞かすことにした。だが、本人にさしたる実感こそ無かったが、少しずつ少しずつアレクサンドラの身体は確実に鍛えられて言った。
籠つくりの方は、体力作りよりも一層成果が分かりやすかった。一番基本的な籠ならば、今のアレクサンドラは双子のアドバイス無しでも作れる。目下の課題は、その基本的な籠をいかに早く作れるかだ。
そしてフルへとイアネは、籠作りだけではなく、アレクサンドラの言語の習得においても、アレクサンドラの師匠になっていた。
『籠!!』
『かこ?』
『違う、か・ご』
『か、ご!!』
『そう。籠。これは蔓。そして、編む!!』
『かご、つた、あむ!!』
『『そう、合ってる!!』』
双子は籠を編みながら、指差しやジェスチャーでモルドラの単語を教えてくれた。
兄であるフルへが、主体になってアレクサンドラに言葉を教え、妹であるイアネがアレクサンドラの言葉を訂正する。
そしてアレクサンドラが正しく言葉を言えると、二人で顔を見合わせて笑う。
遊動の旅で唯一の子供たちは、アレクサンドラに言葉を教えるという新な遊戯をとても気に入ったようだった。普段は周囲から教えられている立場の分、自分たちが教える立場に回るということがとても新鮮なようだ。彼らはまるで年少の子供に物を教えるかのように、得意げでませた調子で、アレクサンドラに言葉を教えてくれた。
アレクサンドラは、年少の子供たちに教えられていることに屈辱を感じないわけでもなかったが、それでも助かっているのも事実なので、湧き上がってくる苦い感情をグッと堪えた。それに、楽しそうな双子の様子を眺めていると、何だかそんなことに屈辱を感じていることが馬鹿らしくもなった。やがて正解する度に、アレクサンドラも声をあげて笑うようになった。
双子の教えたい欲は、何も言葉だけにとどまらず、双子は初日のようにクイナを介して、ルシェルカンド語と身振り手振りでモルドラの色んな話を教えてくれた。それは、例えば美味しい食べ物や、綺麗な花、好きな歌といった、たわいがない会話だったが、自分が知らない異国の文化について聞くことは、アレクサンドラにとっては、とても楽しいことだった。
夜になると、二人きりのテントでオシュクルに言葉を習った。単語は昼間双子に教えてもらうので、オシュクルに習うのは文法や、書き言葉のような、より学問的な部分だ。
オシュクルは、見慣れぬ形状の文字を書くだけで四苦八苦しているアレクサンドラに、呆れることなく、一つ一つゆっくり丁寧に教えてくれた。
「ねぇ、オシュクル。オシュクルの名前は、どうやって書くの?」
オシュクルにモルドラ語での自身の綴りを教えてもらい、自分の名前とはとても思えないその奇妙な形に目を丸くしていたアレクサンドラは、ちょっとした好奇心でオシュクルに尋ねてみた。
オシュクルは、アレクサンドラが自身の名を書いた脇に、色鮮やかな鳥の羽根で出来たペンで、自身の名前を書き連ねた。
「【オシュクル・トゥエン】は、こういう綴りだ。オシュクルは【聡明】、トゥエンは【忠誠】の意味がある」
「そう…」
並びあう、モルドラ語で書かれた二つの名前。
その時、アレクサンドラは自身の名前を【アレクサンドラ・セルファ】のままでモルドラ語に訳してもらっていたことに気が付いた。
「…ねぇ、オシュクル。モルドラでは、夫婦のファミリーネームは同じなのかしら。国によっては、男女でファミリーネームの末尾が違っていたり、夫婦それぞれが出身の家のファミリーネームを名乗ったりする所もあるみたいだけれど」
「基本的には、モルドラでは、妻は夫側のファミリーネームをそのまま名乗る。特に男女で違いもないな」
アレクサンドラは、モルドラ語で書いた自身の名前と、オシュクルが書いた名前を見比べながら、その脇にもう一つ名前を書いた。
【アレクサンドラ・トゥエン】
見慣れぬ筈の、自分の新しい名前。けれどもその文字は、アレクサンドラの心にしっくりと落ちて来た。
アレクサンドラは込み上げてくる感情のままに、微笑んだ。なんだか、とてもいい気分だった。
少しずつ、けれども確実に、アレクサンドラの中の何かが変わって行く。
『村が見えたぞ!!』
『むら?』
「アレクサンドラ。村、だ。村が見えたと皆は言っているんだ」
『村!!』
それは旅を初めて一週間ほど経った頃、荒野を抜けた一行は小さな村に到着した。
それはアレクサンドラがモルドラで初めて訪れる村だった。
「事前に転送魔法で文を届けて到着予定を知らせているから、歓待の準備をしていてくれるはずだ」
オシュクルの言葉の通り、村の中に入るなり村人たちは総出でオシュクル達を迎えてくれた。
村人達の中で、一番立派な服を纏った(それはルシェルカンドの富裕層に比べれば襤褸も良い所だったが、遊動の旅のメンバーの誰よりも豪奢な衣装であることは間違いなかった)村長らしき人が前に進み出て、件のモルドラ式の礼を取りながら、まだアレクサンドラが分からない難しい言葉で挨拶の言葉を述べた。
オシュクルは静かに頷くと、エルセトを呼んで何か小さな袋のようなものを渡させた。
「あれは、何?」
「滞在の為の費用だ。これだけ小さな村に、私達の歓待の為に負担をかけるわけにはいかないからな。…それでも皆、随分無理をしてくれるので、足りないくらいだが」
以前は滞在の後に謝礼として渡していたのだが、一時的に必要な費用も用立てられないくらいに困窮した村もある為、先払い形式に変えたらしい。
村長は貰った費用と、自身の村の予算を吟味したうえで、旅の人員のもてなしの手配を行う。
だが多くの村は、王の歓待という栄誉ある行為に金の糸目はつけない為、随分と無理をさせているとオシュクルは苦笑いしながら語った。
(例え質素な生活を甘んじているとはいえ、オシュクルはれっきとした王なのだから、村の総力をあげて歓迎されるのは当たり前だと思えばいいのに)
こういった部分で根本的に、アレクサンドラは自身とオシュクルの違いを感じざるを得ない。
敬われ、傅かれるのが当然だったアレクサンドラと、平民以上に貧しい生活を甘んじているオシュクル。
身分で言えばオシュクルの方が上であるはずなのに、国が違うだけでこうも違うものなのか。
遊動の旅の人員全てが入りきる宿屋などあるはずもないので、旅のメンバーは分散して村人たちの家に世話になることになった。オシュクルとアレクサンドラ、そしてクイナとエルセトは、村で一番大きな村長の家で世話になる。
「ドラゴン達は、どうするの?」
「村の滞在の間は、シュレヌ達は私達と離れて別行動を取っている。三日も滞在すれば、また村へ戻って来るので、それに合わせてまた出発するのだ」
「そう言えば、遊動中も夜も勝手にどこかに飛んで行っているわよね…朝になると戻って来ているけど」
「ああ。けれども、私達も彼らが一体どこへ向かっているのか知らないし、知ろうとも思わない。そこは、神の領分。私達が踏みこんではいけない部分だ。私達はただ、彼らが許してくれる領域で、付き従わせてもらっているだけだ」