体の異変とその結果
目を醒ました時、アレクサンドラは眠った時と同じようにオシュクルの腕の中にいた。
一瞬自身の今の状況が分からず、目を見開くが、覚醒するうちに昨夜の失態が思い出されていく。
(あんなに恥ずかしい思いをしたのに…本当、鈍い人ね)
しかし、安らかに寝息を立てているオシュクルの顔を見ていると、何だか怒る気もなくなってきた。
王で騎士という身の上なのに、こんなに無防備に寝ていていいのだろうか。ルシェルカンドの騎士は、寝る時ですら常に敵襲を恐れて神経を貼り巡らせていると言われていたものだが。一見酷く穏やかに熟睡しているように見えても、何かあればすぐ飛び起きられるものなのだろうか。今のアレクサンドラには判断がつかない。
アレクサンドラはオシュクルが目を醒ます様子が無いのをいいことに、そっとその頬に手を伸ばして見る。
(…やっぱり、顔立ちは整っているわよね)
明け方のせいか少し髭が伸びているし、皮膚自体も日に焼けていて固く、けして触り心地が良いとは言えない。元婚約者は、触ったことはないが、それこそまるで向き卵の様な、白いつるつるの肌をしていた。
けれども、こうやって改めてまじまじと眺めてみると、オシュクルも純粋に顔立ちだけなら、整った顔立ちでルシェルカンドの貴族令嬢の憧れだった元婚約者にも十分負けていないと思う。純王子様顔の元婚約者(実際に彼は王子だ)と、野性的な顔立ちのオシュクルは、そもそも美しさの種類が違うので、純粋に比較するのは難しいのだが。
これだけ顔立ちが整っているのに、女の扱いがあれなのは、実に残念な話だ。せっかく持って生まれた美貌を、全て台無しにしている。
(まあ例え女扱いが上手いとしても、そもそも結婚後の生活がこれでは、きっと全然モテなかったでしょうね)
騎士団員で結婚をしないものも多いと、昨夜言っていたことだし。
野暮天で、ドラゴン馬鹿で、結婚後の生活は酷く不便な遊動の旅に同行するか、三年くらい一人で放置させられるか、というとんでも物件。
いくら顔が良くても、きっとこんなオシュクルに惹かれる女何か、そうそういるはずがない。
そう考えたら、アレクサンドラの口元は勝手に緩んだ。
昨夜は失敗してしまったが、焦る必要はない。自分はオシュクルの今の所唯一の妻なのだ。
同じテントに二人きりで寝続けるのだから、誘惑の機会なんてこれから毎晩ある。
きっとそのうちアレクサンドラはオシュクルの子種を貰って、彼の子供を産み、モルドラ中に自身の存在価値を示して見せる。
アレクサンドラは決意を新たに頷くと、オシュクルの緩い拘束から抜け出すべく、体を動かした。
しかし。
「…っみぎゃあああああ!!!!!」
まるで尻尾を踏みつけられた猫のような悲鳴が、テント内に響き渡る。
声を聞いたオシュクルは、先程まで寝入っていたのだとは信じられないスピードで飛び起き、剣を構えた。
「どうした!?アレクサンドラ。何があった!?」
「体が…体が…」
アレクサンドラは、全身に走る痛みで涙目になりながら、オシュクルに縋った。
「体が、動かないのっ!!」
「――筋肉痛ですね」
慌ててテントを飛び出したオシュクルによって連れて来られたエルセトは、アレクサンドラを簡単に診察し終えると冷たい声で言い放った。
「筋肉痛…?」
「おや、高貴なお妃様は、もしかして筋肉痛もご存じないのですか?」
皮肉気に歪められた口端は引きつっていて、隠しきれないエルセトの苛立ちが伝わってきた。
よくよく見るとエルセトの髪には寝癖がついており、身に着けている格好も恐らく寝間着である。どうやらオシュクルがアレクサンドラの為に、寝ているエルセトを叩き起こしたらしい。
「貴女様が今まで怠惰な…申し訳ありません。翻訳を間違えました…運動一つしない優・雅・な生活を送って来たが故にほとんど使われていなかった筋肉が、昨日の行進でいきなり使われたことで驚いているのです。体のあちこちに痛みがあり、動かすと筋肉が引きつりますが、別に病気でも何でもないのでご安心して下さい。放っておけば治ります」
それからオシュクル様…と今度はエルセトは一切取り繕う様子もなく、不機嫌を露わにオシュクルを睨んだ。
細い目がカッと開かれて金色の瞳が露わになり、妙な迫力がある。
「筋肉痛くらいで、それがしを呼ばないで頂きたいのですが…!!肉体を酷使する遊動の旅では、睡眠時間はとても貴重なのですぞ!!分かっているでしょう!!」
「すまない、エルセト…もしアレクサンドラに大事があったらと思ったら、医療知識があり回復魔法があるお前を頼らずにはいられなかったんだ」
「筋・肉・痛ですぞ、ただの筋・肉・痛!!それがどうしたら、大事になるのですか。オシュクル様だって、それくらい様子を見たら分かるでしょうが!!」
「いやそうだとは思ったんだが…やはりルシェルカンド人は、そもそも体の構造からしてモルドラ人とは違うしな。万が一ということがあっても…ところで、何でお前さっきからルシェルカンド語なんだ。私とお前の会話ならば別にモルドラ語でも…」
「そんなの勿論、天使がごとく無知な麗しいお妃様に、聞かせたいが為に決まっているでしょう!!それがしは何分控え目な性格をしているもので、異国の地で初めての経験に戸惑っていらっしゃる美しいお方を責めることなぞ出来ませんのでね。せめて間接的に、自分がどれだけくだらないことで大騒ぎをされたかを悟って頂こうと思いまして…!!」
「…お前のどこが控えめなのか、理解に苦しむな」
エルセトに間接的に責め立てられ、流石のアレクサンドラも居たたまれない気持ちで顔を背ける。
仕方がないではないか。ルシェルカンドの貴族の子女は、とことん運動とは無縁なのだ。筋肉痛なんて、体験する機会がない。
運動の直後ならともかく、時間差で翌日に体に痛みが走ったら、自分の身に何かあったのではと勘違いしても仕方がないじゃないか。
「…良かったですね。お妃様。貴女様の些細なお体の不調でも大騒ぎして、医療に精通した忠臣を叩き起こしてくれる、優しい旦那様に恵まれて。実にすばらしい夫婦愛ですな!!」
最後にアレクサンドラにちくりと嫌味を言い残して、エルセトは不機嫌そうに出て行った。
流石に少し申し訳ない気がして、小さく謝罪の言葉を口にしてはいたのだが、エルセトには聞こえていただろうか。
「…しかし、困ったわ」
頑張れば、生れたての小鹿のように足がプルプルするものの、何とか立ち上がって歩くことは出来る。けれどもこの状態で昨日のように荒野を長時間歩くことなんて、とても出来そうになかった。
もし歩けたとしても、歩くスピードはかなり遅くなるだろう。何もない昨日でさえ、足で纏いになってしまっていたのに、これ以上遅くなってしまうようじゃ皆に迷惑をかけてしまう。
苦々しい顔をするアレクサンドラの肩を、オシュクルが叩いた。
「そんな顔するな。筋肉痛なんてすぐ治る」
「でも、私この状態で昨日のように歩いたりなんか…」
「大丈夫だ。何も問題ない」
オシュクルは表情一つ変えることなく、きっぱりと言った。
「お前一人分くらい、私が担ぐ」
「だ、大丈夫なの。オシュクル。重くないの?」
「全く問題がない。寧ろもっと重い方が鍛錬になっていいくらいだ」
「疲れていないの?その、なんなら少し歩くわよ?」
「大丈夫だ。私が運んだ方が、ずっと早い」
実に、居たたまれない。
アレクサンドラは複雑な表情を隠すように、目の前の背中に顔を埋めた。
筋肉痛に苛まれているアレクサンドラは、今、オシュクルの背中におぶさっている状態で、荒野を移動していた。