流浪の王
「――そんなお前に、今日は新しい縁談を持ってきた。ちなみにお前に拒否権はない」
「あら、お父様。そんなことだったら早く言ってよ。一体相手はどなたかしら」
苦々しい顔で告げるセゴールとは対照的に、アレクサンドラはその黒曜石の瞳を輝かせる。
流石に父親に怒られて殊勝な様子を見せていたのだが、今や最早そんなものは過去の物。あっという間に思考を切り替えて、新しい話題に飛びついている。
この反省が持続しない所もまた、悪癖の一つだと、新たに見せつけられた娘の短所にセゴールは何度目になるか分からない溜息を吐いた。そして、新たな縁談が自分にとって素晴らしいものだと信じて疑わない楽天的な部分もまたしかりである。
「一体どんな方なのかしら?家柄は?ご容姿は?財産は?第二皇子との婚約の代わりの相手なのだから、勿論同程度の方なのでしょうね」
「…ああ。家柄も容姿も身分も財産も、全て兼ね備えた人物と聞いておる…ただ」
「ただ?」
「……ただ、相手は他国の王だ」
「他国の王?素晴らしいわ」
肩を落とすセゴールの姿など気付かずに、アレクサンドラは頬を薔薇色に紅潮させ、うっとりと目を細める。
「ルーディッヒ様は王族だけど、第二皇子で、第一皇子が存命の限りけして王にはなれない方ですものね。なら例え外国と言えども、既に王になってらっしゃる方がずっと良いわ。私の立場は第二夫人かしら?第三夫人?いえ、いくら他に奥様がいる方でも構わないわ。だって私は若くて美しいのだもの。きっとどの夫人よりも私が王の寵愛を受けるはずだもの」
何故、そこで王に愛されると信じて疑わないのか。実際ルーディッヒを平民の女に取られているじゃないか。一体その自信はどこから来るんだ。
そもそもお前には、頼れる相手もないまま他国に嫁ぐ不安はないのか!!
…と胸元を掴んで揺さぶりたくなる気持ちを、セゴールはグッと耐える。どうせ遅かれ早かれアレクサンドラは残酷な現実を知るのだ。結婚前くらいは、脳内お花畑に住まわせてやりたい。国を離れれば、もうアレクサンドラはセゴールの庇護下ではなくなり、孤立無援の地に一人で立たねばならないのだから。
「…それが幸か不幸か、まだ相手の王には妻がいないようだ。お前が最初の妻になる」
「あら、ますます素敵だわ。ライバルは少ないに越したことはないもの。でも、皇子ならともかく、王様でそんな方いらっしゃったかしら?王位を継ぐ際に既に妻は娶っている方が大半だと思っていたのだけれど。…ああ。もしかして、他に継承者がいなくて幼いうちに王位を継がれたのかしら」
「いやそうではない…その国の王の立場の特殊性故に、なかなか高位身分の嫁ぎ手がいないらしい。本人もあまり女性に興味を示さないという話もあるがな」
「…特殊性?」
「……お前が嫁ぐ国は、モルドラだ」
その言葉にアレクサンドラの顔色は一転。瞬時に土気色に変わった。
「――モルドラの王って、それって【流浪の王】じゃないのぉおおおおおお!!!」
再び屋敷にはアレクサンドラの悲鳴が響き渡るが、当然ながらそれに動じる使用人は誰もいなかった。
帝国モルドラ。それは世界で最大の広さの土地を所有する、大国家である。
だが、モルドラが有する土地の大部分は砂漠や荒野のような痩せた土地で、作物の実りが少なく、人間が住まうのに適した土地はごく僅かだ。そんな土地柄故に、生産は自国内消費だけで精いっぱいで、他国に作物等を輸出して収入を得る額は少ない。かといって、作物の代わりに鉱物のような特別な資源を多く有しているわけでもない。地産地消が基本なモルドラが世界貿易において果たす役割は、実に小さい。
貿易が発展していないのと同様に、モルドラは芸術をはじめとした文化も発展していない。モルドラの民は良く言えば自らの文化を尊び、悪く言えば閉鎖的だ。古くからの伝統を守り続ける彼らの文化は、華やかな文化に慣れ親しんだ他国の民からは、素朴で古臭く、時には未完成で荒々しくさえ見える。
そんな一見広さだけが取り柄のように思われるモルドラだが、近隣諸国からは常に重要な存在として恐れられている。一体なぜか。それはモルドラが世界一の戦闘力を誇る国だからだ。
モルドラの人々は基本的には貧しい国内の生産だけで満足する清貧さを持っているが、大規模な災害等で国民が飢えに晒された時や、他国から何らかの侵害を受けた時、隠し持っていた牙を他国に向ける。モルドラが戦闘態勢に入った時は、いかに強力な軍隊だろうと、強大な魔力を持つ魔道士だろうと、けして敵わない。モルドラの兵は単独でも戦闘能力が優れた屈強の兵士であるが、彼らの脅威はそんな些細な違いにではなく、彼らが持つ特別な切り札にある。
彼らが持つ切り札――それは世界最強の種族、【ドラゴン】
人智を超えた莫大な魔力と攻撃能力を有した特別な生物を、世界で唯一ただモルドラの民だけが従えることが出来るのだ。
ドラゴンの鋭利な爪は、一振りで地を裂くことが出来、一噴きの炎は、瞬時に辺り一帯を焼き尽くすことが出来ると言われている。
ドラゴン自体の数は野生に生息しているものも含めて非常に稀少で、モルドラが有している物も二十体ほどだが、それだけの数でも十分に一国を滅ぼすことは可能だ。それも、極短期間で、だ。
その唯一にして最大の切り札故に、近隣諸国はモルドラを重く扱い、有事の際には必ず積極的に手を貸して彼らの機嫌を損ねないように努める。友好関係を築くことで、いざという時に、モルドラに侵略のターゲットにされないようにしているのだ。
モルドラの民は、そのような形で自国に安寧を与えてくれるドラゴンを、心から崇拝し、大切に扱った。そしてその傾向は、身分が高くなればなるほど強い。
誰かが言った。「モルドラの王は、王ではない。彼らは、ドラゴンの奴隷だ」と。
モルドラの王の最大の職務は、国政にではなく、ドラゴンを従えることにこそある。だからこそ王は、ドラゴンの為ならば全てを容易に投げ出す。自分の人生、そのものでさえも。
【流浪の王】
周辺諸国の者は、嘲笑と畏怖を込めて、モルドラの王をそう渾名する。
痩せた土地がほとんどのモルドラの中で、数少ない富んだ土地に位置する首都ラカム。そこには、莫大な財を費やして建てられた豪奢な城が置かれている。今のモルドラが出来る最新の技術を駆使し、華美な装飾を到るところにちりばめた、モルドラ一快適で美しい、その場所。
その城をほとんど全て宰相をはじめとした政治家達に明け渡して、在位期間のほとんどを、ただドラゴンの為だけに痩せた土地を遊動して過ごすモルドラの王のあり方は、まさしく「ドラゴンの奴隷」であった。
(ああ、何故私がドラゴン狂の、戦闘能力しか取り柄が無い野蛮人の元に嫁がなければならないの!!)
アレクサンドラは、部屋で一人自らの境遇を嘆きながら、さめざめと涙を濡らした。
しかし、自らの不幸な運命をいかに呪っても、その脳裏にはちらとも自身のしでかした行為に対する悔恨が浮かばない所は、流石アレクサンドラである。
彼女にとって、婚約破棄もモルドラとの王との婚姻も、全て振って湧いた不幸であり、それを自身の犯した罪に対する罰だなんていう考えは微塵もなかった。彼女にとってあくまで悪いのは、平民相手に心を奪われた第二皇子であり、皇子を誘惑した平民の女だった。
二人の仲を引き裂けなかったことこそ悔やんでも、行為自体を反省などするわけがない。
(…まあ、いいわ。いくら野蛮人と言っても、一応大国の王であることは変わりないのだし)
そして思考が極めて単純な彼女は、嘆きですら持続しなかった。嘆いても疲れるうえに、涙で目が腫れて自慢の美貌が台無しになるだけだと、さっさと現実を受け入れることにした。こういう時のアレクサンドラは、驚くほど潔い。
モルドラは文化的には自国には大きく劣っているものの、それでも世界的に大きな権威を持つ大国であることには変わりがない。そんな国で、今は王妃になると言うことは、実に名誉なことである。
国王は快適さよりも、ドラゴンを愛する変人であるが、そんなことはアレクサンドラには関係がない。アレクサンドラの生活の保障と、あとは子種さえもらえればそれでいいのだ。
子どもさえできれば、外国から嫁いだが故に頼る相手がいないアレクサンドラの地位は確固たるものになる。モルドラの王に、他に后がいないのならばなおさらだ。そうなれば、もうこっちのものである。アレクサンドラは次期王の母として権威を奮うことが出来る。
(そうなれば、ルーディッヒ様なんかよりもずっとずっと権威がある立場よ)
アレクサンドラは、自分を捨てた第二皇子を、より高い地位から見下す将来を思い浮かべて、一人ほくそ笑んだ。それは、今回の婚約破棄でずたずたにプライドが傷つけられたアレクサンドラにとって、とても素晴らしい未来像に思えた。
その未来を実現する為には、まずは王からそれなりの寵愛を受けなければならないのだが、アレクサンドラはその点では全く心配していなかった。だって、自分は美しいのだ。きっと周囲には似たような野蛮な女しかいないモルドラの王は、洗練された美しさを持つ自分に、すぐに夢中になるに決まっている。
アレクサンドラは、自分に待ち受けた素晴らしい将来を思い描きながら、うつぶせになっていた姿勢を正して、そのまま安らかな眠りについた。
思慮の浅さというのは人生を狂わせる致命的な欠点ではあるが、時と場合によっては、何物にも代えがたい長所にもなる。
この時のアレクサンドラは、そんな自身の性質に救われて、聡明な人間が同じ立場になった場合当然抱くであろう不安や恐怖心に苛まれることもなく、穏やかな心持のまま結婚式前日までの日々を過ごすことが出来たのだった。