あたたかい昼食
アレクサンドラがへたり込んでいる間に、周囲の人たちはさっさと陣営の準備を開始していた。
メンバーの一部は魔法によって圧縮されている荷をドラゴンの背から降ろし、てきぱきとテントを組み立てて行く。ある者は魔具を使って簡易的に設立した竈に火を起こし昼食の準備をはじめ、あるものは食材を切り分けている。ドラゴン用の、かなり大きな日よけを組み立てている物もいる。
その動きは人によって違うものの、見渡す限りでは、アレクサンドラを除いて誰一人休んでいるものなどいない事実に唖然とする。彼らは疲れを感じないのだろうか。
「アレクサンドラ。少しそこで休んでいろ。慣れないお前にはきつい移動だっただろう」
そう言ってオシュクルもまた、陣営の準備に参加し始めた。
この遊動の旅では、王族ですら、特別な対応を受けることなく他の人達に混ざって働く。
オシュクルが昨夜言っていた平等の意味を、アレクサンドラは今改めて実感せずにはいられなかった。
陣営の準備が終わると、アレクサンドラは昨日も食事した大きなテントへと案内された。
何もしていない自分が真っ先にテントに案内されているという事実は、アレクサンドラに罪悪感を抱かせた。
そして、罪悪感を抱いたことに困惑した。自分は大貴族の娘だから、特別扱いされてしかるべきだと、特別扱いされることこそが上位貴族の役割だと、今まで信じて疑ったことは無かったというのに。
アレクサンドラは十八年の間に培われて来た自身の中の常識が、たった一日で揺らぎ始めていることに気が付いて身震いした。
(私は王妃…いえ、ルシェルカンドから嫁いだばかりの外国人なのだから、仕方がないのよ)
胸中で呟いた言い訳は、曇り始めたアレクサンドラの心をさほど慰めてはくれなかった。
(…そんなことより、今は食事よ。また、あの美味しくないご飯を食べないといけないのかしら。そう考えると憂鬱だわ)
アレクサンドラは気持ちを切り替えて、今目の前の状況に意識を集中することにした。
けれど、それはそれで、愉快な思想とは程遠い懸念事項であった。
お腹は、空いている。正直、油断すれば腹の虫が鳴ってしまいそうなくらいに。
朝、昼、夜と一日三食が基本だったルシェルカンドとは違って、モルドラは昼と夜の二食のみが一般らしい。朝から果実水以外しか口に入れていないという、今までの習慣から大きく外れた行動を取っている上に、あれほど長い時間歩き続けたのだ。お腹が空かない筈がない。
けれども、昨日の不味い食事を思うと、とても食欲が湧かなかった。それにまた腹痛を起こすかもしれない。アレクサンドラは今まで不自由したことがなかった、食の重要性を改めて実感していた。
アレクサンドラがげんなりした表情で座っていると、オシュクルが戻って来た。
「アレクサンドラ。休めたか?」
「ええ。足はまだ痛いけど」
当然のように隣に腰を掛けることを、少し嬉しく思いながら(夫婦なのだから当たり前な気もするが、その当たり前がどれほど通じるのかが分からないのが、遊動の旅だ)アレクサンドラは笑みを浮かべた。
本当は胸の奥にいくらでも不平不満はあるのに、オシュクルを前にすると不思議と口にする気はならなかった。オシュクルをあまり困らせたくない。
(オシュクル様は、きっと健気な女の方がお好きな気がするし)
自分の美貌がオシュクルに通じないことなんて、初日で分かっている。ならばそんなオシュクルを振り向かせるのには、オシュクル好みの女を意識して演じるしかない。彼の性格を考えると、我儘を言わずに健気に後を追う従順な女性の方が好きそうだ。
アレクサンドラは、いずれオシュクルの寵愛を得て子を身ごもり、堂々と王宮へ戻るという野望を捨ててはいなかった。
そうするうちに、中年くらいの女性が食事を運んで来てくれた。昨日とは違う女性だ。
アレクサンドラはオシュクルがモルドラ語で礼のようなものを言っているので、真似をしてみると、女性は白い歯を見せて笑ってくれた。
(あれ?)
アレクサンドラは、自身の目の前の食事を見て目を丸くした。
「どうした?アレクサンドラ」
「私の食事と、オシュクル様の食事、違うわ…」
オシュクルの前に出されているのは、昨日とほとんど同じものであるにも関わらず、アレクサンドラの前におかれたのは一杯の汁物だった。
肉も野菜も細かく刻んで煮込まれていて、茶色い汁の表面には小麦粉を練って茹でた団子が浮いている。椀に顔を近づけて匂いを嗅いでみると、どこか懐かしい香りがした。
「ああ、昨日腹を下していたようだったので、少しでも消化が良い食事を別に作ってもらった。生は合わんでも、火を通せば胃の負担も少なくなるだろう?」
「…この香りは…」
「少しだけだが、ルシェルカンドの香辛料を荷に積んでいたので、混ぜてみた。ルシェルカンドには様々な調味料があって面白いな。モルドラでは基本塩しか使わんぞ」
アレクサンドラはオシュクルの言葉に、息を飲む。
普通ならば、異国から来た后の為に少しでも慣れ親しんだ食事を提供しようとするのは当たり前のことだろう。その為に、后付のコックを総入れ替えした王の話すら聞いたことがある。
けれども、ここではそんな常識なぞ通用しない。だってここは、王ですら躊躇いなく肉体労働に従事するような場所だ。身分の上下など通用しない、【平等】な場所だ。
それなのに、一人だけ食事を融通してもらうだなんて、許されるのだろうか。
「いいの?私だけこんな特別扱い…」
「勘違いするな、アレクサンドラ。贔屓と、配慮は違う」
オシュクルはゆっくり首を横に振った。
「ここでの生活に慣れている私達と、突然異国からここに来たお前とは、前提条件も体の造りも全く違うんだ。ならば、私達はお前がここでの生活に慣れるまで、出来うる限りの配慮を行うのは当たり前だ。それはお前が私の妻だからというわけではない。旅の新参者に対する当然の行為だ」
アレクサンドラはオシュクルの言葉に、目を見開いて周囲を見渡す。
誰一人、アレクサンドラに向かって批難の視線を向けている人はおらず、中には微笑みながら頷いてくれた人までいた。
アレクサンドラは胸の奥に温かいものが広がっていくのが分かった。
「…シューシェ【ありがとう】」
アレクサンドラは先程覚えたばかりのモルドラの感謝の言葉を口にすると、微笑んだ。
口にした汁物の味はひどく素朴で、浮いていた団子もぼそぼそしていて、普通ならとても美味しいとは思えない代物だったが、空腹も相まって、今のアレクサンドラにはどんなご馳走よりも美味しく感じられた。
「午後からは、私はお前とは一緒にいられない。だが、代わりにクイナが付いていてくれるから、安心しろ」
「…クイナ・グアルテ。王妃様、面倒、見る?よろしく、頼む」
「……この通り、ルシェルカンド語を話すのは不得手で、少々無礼に思うかもしれないが、どうか許してやって欲しい。他に適任がいないんだ。ただ、聞き取りの方はほとんど完璧だから、何かあれば気軽に頼れ」
アレクサンドラは、初めて見た瞬間に自身にコンプレックスを抱かせたモルドラ風美女を前にして、固まった。
確かに、エルセトが話したルシェルカンド語を解する人物の中で、女性はクイナだけだ。ならば彼女に世話をしてもらうのが本来なら一番適当なのかもしれない。
それでもオシュクルを介することなく、クイナ一人の世話になることを、アレクサンドラはどうしても素直に頷けなかった。
「オ、オシュクルとは一緒に行けないの?」
「すまない。午後からはシュレヌの世話と鍛錬があるんだ。お前を気に掛けることは、とても出来なくなる。それに、これからもずっと遊動の旅を続けて行くのなら、午後はクイナと共に行動した方がいい」
「これからもずっと遊動の旅を続けて行くのなら」それを言われると、アレクサンドラはそれ以上何も言うことは出来ない。ただ頷くしかなかった。
こうしてアレクサンドラは、心の奥で一番苦手としていたクイナと、行動を共にしなければいけなくなった。