狐似の魔術師
(もう無理…やっぱり、王宮に帰してもらった方が良かったかしら…)
遊動の旅に残留することを高らかに宣言してから、僅か数時間後。
既にアレクサンドラは自分の決断を後悔しかけていた。
「それでは、アレクサンドラ様…どうか、お元気で。王宮にお帰りの際は精一杯お世話させて頂きますので」
流石にどこか罪悪感がある表情で、視線を合わせることがないまま別れの言葉を告げた侍女たちを、アレクサンドラは冷ややかな視線で眺めていた。
アレクサンドラの世話をルシェルカンドから命じられた彼女達が、王宮でどのように扱われるかをアレクサンドラは知らない。オシュクルは優しいけれど、王宮自体の管理は宰相達に一任されている。他国の貴族出身の彼女達をそこまで極端に粗雑に扱いはしないだろうが、主に仕える本分を放棄した彼女達に向けられる視線は、きっと優しいものではないだろう。アレクサンドラは、彼女達に待ち受けているであろう未来を、どこか意地が悪い気持ちで想定した。
同情なんかしない。自分が勝手なことをしたせいでと、罪悪感を抱いたりもしない。アレクサンドラは、彼女たちが嫌いだ。元々嫌いだったが、最終的に自分を置いて行く決断をしたことで、決定的に嫌いになった。そしてアレクサンドラは嫌いな相手に心を傾ける程優しくない。
(主を置いて快適な空間にいることを、責められて居たたまれない気持ちで過ごせばいいのよ)
アレクサンドラは拗ねる子供のように唇を尖らせながら、侍女たちから顔を背けた。絶対に優しい言葉なんて言ってやらない。
「…そうだな。アレクサンドラがもし王宮に帰りたくなった時は、どうか宜しく頼む。私はなかなか王宮にはいられないから」
(何でそこでオシュクルがそんなことを言うのよ!!)
何も言わないアレクサンドラの代わりに、オシュクルが侍女たちに向き直った。
その事実に、そして言われた言葉に、アレクサンドラは一層むくれた。
オシュクルの言葉に、侍女たちが救われたような表情を浮かべるのが、より腹立たしかった。
転移魔法を行ったのは、アレクサンドラが知らない三十代くらいの男だった。
「あいつの名前は、エルセト。魔術師だ。王宮までの転移魔法が行えるうえに、手紙のような軽いものだったら、地理さえ把握していればどこでも瞬時に転送できるので、随分助けられている。もし郷里に手紙を送りたければ、あいつに言えばいい。少々心配性な性格の為、手紙の内容を確認される恐れはあるがな」
エルセトと言われた男は、どこか狐を思わせる小柄で細身な男だった。目は吊り上って細く、常に瞑っているようなので、瞳の色は良く分からない。髪の毛は黒髪黒目が標準なモルドラでは珍しく、明るい茶色だった。魔力が高い人は、ルシェルカンドでも独特な髪色を持つことがあるので、そういう事情だったのかもしれない。
「いやいや、オシュクル様。それがしが心配性じゃなくて、貴方が大雑把なだけです。いくら貴方の奥様とはいえ、アレクサンドラ様は他国のお方。意図せずとも、モルドラにとって重要な情報を漏らしてしまうことがあるかもしれません。それがしとしても、かように美しい奥様を疑いたくはないのですが、手紙をお送りの際は、必ず一度拝見させて頂きますぞ」
「っ、貴方はルシェルカンド語が話せるの!?」
エルセトの口から出た、古めかしく勿体ぶっているが、流暢なルシェルカンド語に驚く。
目を丸くするアレクサンドラに、エルセトはただでさえ細い目を、さらに細めた。
「はい、奥様。オシュクル様と、それがし。話すことは少々苦手ですが、フレムスとクイナはルシェルカンド語を解しております。この度貴女様の通訳がご帰還されると聞きました。モルドラ語の通訳がご入要な時は、この誰かにお話掛け下さいませ」
「フレムス?」
「共に王宮から来た、あの男のことだ。ルシェルカンド語を解しているので、クイナと共に剣舞を任せた。剣の腕では、多分騎士団で一、二を争う実力の持ち主だぞ」
「オシュクル様、それはご謙遜ですか?騎士団一の剣の腕の持ち主は、誰がどう見ても貴方様でしょうに」
剣舞を踊った男…思い出そうとしたが残念ながらアレクサンドラの記憶にはぼんやりしか残っていなかった。剣舞の間、ほとんどクイナに釘付けになっていたし、道中はずっとオシュクルといて、そのうえ昨日はあれほど大勢の人たちの顔を見たのだから、記憶が薄くなっても仕方ないとも言える。
ただルシェルカンド語を解するという情報はアレクサンドラにとって、非常に重要な為、アレクサンドラはフレムスという名前をしっかりと心に刻み込んだ。
「アレクサンドラ様。貴女様が旅に残留することは、それがし達にとっては僥倖ながら、大変驚くべきことでした。正直ルシェルカンドの生粋の貴族出身の貴女様が、不便だらけの旅を選択をするとは思っておりませんでした」
不意に向けられた視線に、ぞくりと肌が粟立った。
エルセトの細い目は見開かれ、その黄金色の瞳が、まるでアレクサンドラを見定めるように真っ直ぐに向けられていた。
「ルシェルカンド語を解するのに、今まで名も名乗らずに大変失礼を致しました。短いご付き合いならば、それがしのような取るに足らぬ存在の名など、貴女様が頭に留める価値もないかと思っていたのです。ご無礼をどうかお許しください。改めて、自己紹介をさせて頂きます。それがしの名前はエルセト・ジェッツ。少々珍しい魔法が使えるだけの、しがない魔術師でございます。以後お見知りおきを」
エルセトの言葉は丁寧だったが、何となく冷たく慇懃無礼にも感じられた。
本心が分からないその雰囲気は、ルシェルカンドの貴族を思わせて、アレクサンドラはエルセトを即座に苦手な相手だと認識した。
「遅ればせながら、我らが王と、太陽がごとく美しい姫君とのご結婚のお祝いを。お二人が寄り添いあう姿が、一日でも長く見られることをお祈りしております。…王宮に戻りたくなったら、いつでもそれがしにお申し付け下さいませ。すぐに貴女様をお送りいたします」
恭しく礼をされても、その言葉に滲む「どうせすぐ帰るのだろう」という本音は全く隠されていなくて、アレクサンドラの口元は盛大に引きつった。
言うだけ言うと、エルセトはさっさとアレクサンドラから背を向けて転移魔法の準備を始めた。
「…悪い男ではないんだ。慣れてみると」
ぼそりと告げられたオシュクルのフォローは、全くアレクサンドラの胸に響かなかった。
「――さあ、魔法陣の準備が出来ましたぞ、主を置いて快適な王宮に戻る道を選択された、ルシェルカンドの高貴なご婦人方。…おや、そのような顔をされて、いかがされました?それがしが貴女様達のご気分を害されるようなことを言ってしまったなら申し訳ない。どうも話慣れていないせいか、それがしのルシェルカンド語は不十分なようで。まあ、どうせ今限りのお付き合い、広い心でお許し下さい。さ、さ、自国から与えられた職務を放棄されたご婦人方、魔法陣の中にどうぞ」
「……わざとよね、あれ」
「……ああいう男なんだ」
急降下したアレクサンドラの中のエルセトの好感度が、少し上がった。
歪んだ侍女たちの顔が、大変気持ちいい。是非もっと言ってやって欲しい。
エルセトに進められるがままに、侍女たちは複雑に描かれた魔法陣の中に入った。
エルセトが杖を持ち上げた瞬間、アレクサンドラは思わず身を乗りだした。希少な転移魔法を見られる機会なんて滅多にない。
エルセトは杖を掲げながら、勿体ぶるように咳を一つしてみせた。
「さて、この場にいられますのがルシェルカンド語を解する方々ばかりなので、せっかくなので詠唱もルシェルカンド語で致しましょうか。何、詠唱の言語など、意味が同じならば効果は一緒。大事なのは、注がれる魔力ですからな。…まあ、もしそれがしがルシェルカンド語をとちれば、少々目的地を外れたりもするかもしれませんが…まあ、歩いて知らない場所から王宮を目指す旅も、なかなかおつなものでしょう」
「だ、大丈夫なの?」
「わざとだと言っただろう…エルセトは五か国語を完璧に操れる男だ。そもそもあいつの転移魔法は、行先はモルドラの王宮のみに固定されている。失敗したら、単純にここから移動できないだけだ。…どう考えても、嫌がらせだ」
「…それでは、ご婦人方のご期待にお答えして、ルシェルカンド語で失礼をば。【空を翔ける。地を駆ける。時を縮め、道を縮む。汝が足をつけし地は何処か。汝が望む地は何処か。我が魔力に身を任せ。いざ、送らん。我が定めた唯一の地へ】」
そう言ってエルセトが杖を突きつけた瞬間、魔法陣が眩いばかりに光った。
突風と共に砂煙があがり、アレクサンドラは思わず目を瞑った。
「…さて、終わりましたぞ」
そして、目が明けた瞬間、魔法陣の中に侍女たちの姿は無くなっていた。