夢と決断
アレクサンドラはオシュクルによって突きつけられた二つの選択肢を前にして黙り込む。
王宮に帰る道を選べば、不便が無い生活が保障される。オシュクルは限度はあるものの、極力望みのものは与えてくれると言った。いくら予算制限があるにしても、そこでの生活は遊動の旅とは比べ物にならないくらい快適なものであるはずだ。アレクサンドラは王宮で、今まで通り貴族らしい生活を送ることが出来る。
けれども、その際には「王の寵愛が無く、子種を貰えない女」というレッテルを背負わなければならない。いくらここはモルドラで、子どもに対する価値観は違うとはいえ、アレクサンドラの侍女はルシェルカンドの貴族出だ。元々アレクサンドラを敵視しているだけに、そのことで一層アレクサンドラを侮るようになるだろう。誰一人周囲には、親身になってくれる人物がいない状態で、アレクサンドラはそれに耐えなければならない。
遊動の旅に同行すれば、その生活は信じられない程不便だ。アレクサンドラは今までの生き方を全て変えなければならない。
けれども旅を続ければ、オシュクルの寵愛を受ける可能性は、王宮に留まるよりもずっと高くなる。オシュクルは言葉もまともに理解出来ない異国出の花嫁を、きっと見捨てない。旅の間ずっと、気に掛けてくれるだろう。それにアレクサンドラは、旅を通して自分が知らない未知の世界を知ることが出来る。王宮の中で引き籠っていては、けして知ることが出来ない世界を。
アレクサンドラの心は揺れた。
「…明日の朝まで、結論を出してくれればいい。今は取りあえず、このまま休め。きっととても疲れているだろうから」
そう言ってオシュクルは、葛藤するアレクサンドラの頭をもう一度撫であげた。
それは妻に対してというよりも寧ろ、大人が子どもをあしらう様な行為だったが、それでもやはりオシュクルの手は、優しかった。
その晩、アレクサンドラは夢を見た。
夢の中でアレクサンドラは子どもに戻っていた。
たっぷりフリルが付いたお気に入りのドレスを身に纏って、広いセルファ家の屋敷の中を一人駆け回る。
色鮮やかなたくさんのドレス。天涯付きのふわふわベッド。美しい花々が咲き乱れている庭。国中の美食を集めた豪勢な食事。アレクサンドラを敬い、可愛がってくれる優しい使用人達。
屋敷の中には、アレクサンドラが望む快適さの全てがあった。
それなのに、夢の中のアレクサンドラは酷く不満そうに肩を落としていた。
『アレクサンドラ様。お元気がないようですが、いかがなさいました?』
侍女の一人が屈み込んでアレクサンドラの顔を覗き込む。アレクサンドラは今より何回りも小さな手をぎゅっと握りしめた。
『お父様は…お父様は今日、帰って来られないの?』
その眼は、涙の膜で潤んでいた。
『今日は、私の誕生日なのに…』
アレクサンドラの父、セゴールは昔からいつも忙しい人だった。宰相として、セルファ家当主として、常に駆け回って碌に家に帰って来ない。アレクサンドラの誕生日には、使用人に命じて豪華なお祝いをしてくれたが、それにセゴールが同席出来ることは滅多になかった。
『セゴール様はお仕事が忙しくて、本日はどうしても帰って来られないとのことです。けれども代わりに、メッセージカードとプレゼントをお預かりしてますよ』
『そう…』
明らかに意気消沈しているアレクサンドラの姿に、幼い頃から世話をしていた侍女は困ったように眉尻を下げた。
『…アレクサンドラ様。今からでも、誰かアレクサンドラ様のお友達を屋敷にご招待して、パーティを行ったらいかがでしょう?突然ですがきっと誰かしら都合が…』
『っいらないわ!!』
幼いアレクサンドラには、心から信用出来る友人なんて誰一人いなかった。
友人と称して、アレクサンドラの回りに群がる貴族の子どもは少なくない。アレクサンドラは性格に難はあっても、大貴族セルファ家の直系令嬢だ。縁を作って置くに越したことはない。けれども、表側では調子が良いことを言いながらも、裏では高慢だの、愚かだのと言ってアレクサンドラを侮っていることが透けて見える自称友人たちが、アレクサンドラは吐き気がする程大嫌いだった。そんな彼らを自身の誕生日に屋敷に招待するくらいなら、使用人に囲まれて過ごした方がずっとましだと言って、アレクサンドラはもう何年も誕生パーティを開催したことはなかった。
『…さしでがましいことを言いました。申し訳ありません』
肩を落として謝罪を述べる侍女の姿に、アレクサンドラはハッとする。
少しきつく言いすぎたかもしれない。
『…大きくなったら、社交の為に誕生パーティは極力開催しないといけないのでしょう?だったら今のうちくらいは、気心を知れた貴女達とだけで、屋敷でゆっくり過ごしたいの』
『そんな…勿体無いお言葉です』
『ねぇ、コックに伝えてよ。私、夕飯はウィフ鳥の丸焼きが食べたいわ。中にちゃんとデォの実を詰めてね。グムンと生クリームをたっぷり乗せたケーキも焼いてね。あと、誕生日に来てくれない薄情なお父様には、プレゼントの他にお詫びとして、新しい特注のドレスが欲しいって連絡して』
『は、はい!!すぐに連絡して参ります』
アレクサンドラは、我儘だ。
けれど、叶わないと知っている我儘は、滅多に言わない。
それは、叶わない我が儘を言っても無駄だと悟っているからだとか、その様をみっともないと思っているとか、そういうわけではない。残念ながら、今も昔も浅慮なアレクサンドラは、そんな深く物事は考えられない。
アレクサンドラが叶わない我が儘を言わない理由、それは我儘を聞いた父親や使用人が、悲しい顔をするからだ。
アレクサンドラは、滅多に会えないけれど、何だかんだでアレクサンドラを気に掛けてくれる父親が、好きだった。出来ることなら何でも甘やかしてくれる、優しい使用人が好きだった。
大好きな人たちを悲しませたくない。そんな気持ちがアレクサンドラに「寂しい」という言葉を封じた。
けれども本当は泣きわめきたかった。
なんで私の誕生日なのに帰って来てくれないの、と大声で我が儘を言いたかった。
幼いアレクサンドラは、優しい使用人達に囲まれ、父親から愛されていてもなお、心のどこかに孤独を抱えていた。
物心がつかないうちに亡くなった母親と、滅多にいない父親の分の穴を埋めるには、優しいけれど、それでも主従関係を越えることなく、一定の距離感を保ったままアレクサンドラに接する使用人達では足りなかった。
寂しい
寂しい
寂しい
誰かに、ずっと、傍にいて欲しい。
身分差のせいで距離を置かれることもなく、表面的に取り繕った態度をとることもなく、対等の目線で真っ直ぐにアレクサンドラと向かい合ってくれる、そんな誰かに一緒にいて欲しい。
そんなアレクサンドラの願いは人によっては贅沢な望みだと思うのかもしれない。世の中にはアレクサンドラより、ずっとずっとひどい環境にいる人間なんて、山ほどいる。そんな人達にとって、アレクサンドラの抱える孤独なぞ、鼻で笑い飛ばせるレベルであろう。
けれども幼いアレクサンドラにとってそれは、ひどく切実な願いであった。
そしてその幼い日の望みは、ずっとアレクサンドラの心の奥に、消えることなく残り続けていた。
目を醒ました時、アレクサンドラの決断は決まっていた。
「――ここに、残るわ」
翌朝、アレクサンドラはオシュクルに顔を合せるなり、そう告げた。
「一緒に遊動の旅について行かせて」
(だってどんなに辛くても、きっとそっちの方が寂しくないから)
アレクサンドラの決断の、オシュクルは静かに頷いた。