カルチャーショック2
※トイレ事情に触れていますので苦手な方はご注意ください
「どうした?もう食べないのか?」
既にほとんど食べ終わっているオシュクルの言葉に、どきりとする。
向けられる黒い瞳は感情が分かりづらく、オシュクルが一体どういった意図でその言葉を言ったのかは分からない。だがアレクサンドラには、これだから異国人の女はと馬鹿にされたように感じた。
「…いえ、頂くわ。とてもお腹が空いているのだもの」
アレクサンドラは強がりを言いながら、無理矢理食事を口に押し込んだ。やはり、まずい。それでもアレクサンドラは自身の意地にかけて、ここで吐き出したり残したりするわけにはいかなかった。
その様は明らかに貴族らしくなかったが、そんなことをとても気にしてられない。大体オシュクルだって、とても上品に食べていたとは言えないのだ。アレクサンドラは頬に詰めるだけ詰めた食事を、水で流し込むことで何とか完食した。
そんなアレクサンドラを、オシュクルは少し眉を顰めて眺めていた。
(…どうしよう。お腹が、痛い)
けれどいくらオシュクルを誤魔化したつもりでも、自身の体は誤魔化せない。
食べ慣れぬ食事を、アレクサンドラの胃腸は、速やかに拒絶した。
胃のムカつきと、吐き気は何とか必死に耐えたが、それがおさまると今度は激しい腹痛がアレクサンドラを襲った。つと冷たい汗がアレクサンドラの頬を伝う。
「大丈夫か?アレクサンドラ。随分と顔色が悪い」
共にテント内で休んでいたオシュクルの言葉に、アレクサンドラは少し躊躇しながらも小声で口を開いた。
「オシュクル様…その…トイレに行きたいのだけど…」
こんなことを異性に対して言うのは恥ずかしかったが、腹痛がひどくて、いつの間にかどこかへ行ってしまった通訳を待つ余裕などとても無い。
オシュクルはアレクサンドラの言葉に一つ頷くと、少し離れた所にいるあの剣舞の女性を呼んだ。
「…クイナ、アレクサンドラが手水を所望だ」
それはルシェルカンドの言葉で告げられた言葉だったが、クイナと言われた女性は聞き返すこともなく頷いた。どうやら彼女はルシェルカンドの言葉を解すことが出来るようだ。だからこそ、オシュクルは結婚式に彼女を同行させたのかもしれない。
アレクサンドラは、周囲に意味を悟られないようにルシェルカンドの言葉を使ってくれたオシュクルに内心で感謝しながら、クイナの後をついてテントを出た。
しかしテントを出た瞬間、ふと気が付く。テント住まいの遊動の旅に、トイレなどあるのだろうか。
そして今、クイナが手に持っている布と紙は一体何を意味しているのだろうか。
(い、いえ、きっと携帯出来る排泄用の特殊魔具が…)
連れて行かれたのは、僅かに草が茂っただけの、何もない場所だった。
案の情の結果に青ざめるアレクサンドラを前に、クイナは表情一つ変えることなく手に持っていた布を広げた。
「ここ、遠い。私、布、隠す。見えない。大丈夫」
片言で紡がれたクイナの言葉を耳にした瞬間、アレクサンドラの記憶はぷつりと途切れた。
あまりの事態に脳が現状を理解することを拒否したのだろう。
「…アレクサンドラ?先程より顔色が悪いが、どうした?」
場面が飛んで、気が付けばアレクサンドラはいつの間にかテントに戻っており、オシュクルが眉を顰めてアレクサンドラの顔を覗き込んでいた。
なお、この時点でアレクサンドラの腹の痛みは無くなっていたことを言及しておく。食べ過ぎて膨らんでいた下腹も、すっかり平らになっていた。
「…アレクサンドラ…!?」
アレクサンドラはとうとう、余りのカルチャーショックに脳の処理が追いつけなくなり、オシュクルの焦ったような声を聞きながら、その場でぶっ倒れた。
目が醒めた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。
先程までの行為は、全部悪い夢だったのだろうか。
…否、夢じゃない。
(…背中が痛いわ)
アレクサンドラは自分が、柔らかいベッドの上ではなく、絨毯のうえに寝かせられていることに気が付いた。掛けられた布団が柔らかいのがせめてもの救いだが、やはりどこか砂っぽいし、なんだが少しごつごつしている気がする。
痩せても枯れても高位貴族のアレクサンドラが、こんな環境で寝かせられるなんて、遊動の旅くらいでしかありえない。
「…目が、覚めたか。アレクサンドラ」
アレクサンドラが寝ている脇には、オシュクルが胡坐をかいて座っていた。
アレクサンドラが目を醒ましたのを確認すると、オシュクルは大きく息を吐き出した。
「失神してばかりだな、お前は」
「っ」
アレクサンドラはオシュクルの言葉に、自身の唇を噛みしめた。
コルセットでウエストを締め付けている正装姿の貴族女性が、ちょっとしたことで失神してしまうことはそう珍しくない。けれども今のアレクサンドラは、コルセットなどしていない。それなのにこの短期間で二度も気を失ってしまうなんて。
悔しさで目を伏せるアレクサンドラの頭を、オシュクルがそっと撫でた。その手は驚くくらい、優しかった。
「責めているわけではない。私は最初からそうなると思っていたのだから」
「っそんな…」
「分かっただろう?アレクサンドラ。ここは何もかもが違うんだ。ルシェルカンドとも。…モルドラの王宮とも」
オシュクルはゆっくりと首を横に振った。
「遊動の旅は苛酷だ…いくら王族や貴族だからといって、特別な贅沢は出来ない。身分による差異を作ることは、集団の中での軋轢の種を産むことにかねないからだ。食事も衣類も、多少の違いこそあっても基本的には平等で…そして粗末だ。旅の資金の大本が国民からの税から成り立っている以上、経費は極力抑えなければならない。その為に皆、庶民のように籠を編んだり、狩りを行ったりさえもしている。当然、王である私もだ。――お前が考える貴族の生活とは、あまりのも違いすぎるんだ」
告げられた遊動の旅の現実に、アレクサンドラは言葉も出なかった。ある程度の不便は覚悟をしていた。けれども、ここまでとは予想してもいなかった。下手な平民なんぞより、ずっとずっと苛酷な生活だ。
そんな生活に、果たして自分は耐えられるのだろうか。
「アレクサンドラ…もし、お前が帰ることを望むのなら、私はすぐにでも帰してやる。幸いにして、ここには世界的にも稀少な転移魔法を使える者がいる。あいつが送れるのは、モルドラの王宮に限定されているが、帰るだけなら一瞬で帰すことが出来る」
「…私は……」
「……お前が気絶している間に、お前と共に来た侍女たちは、私に進言してきたぞ。とてもこんな場所では生活が出来ないので王宮に帰して欲しいと」
「…っ!?」
「そして、私はその進言を受け入れた」
アレクサンドラは、オシュクルが明かした事実に、自分が思っていた以上に衝撃を受けた。
アレクサンドラにとって、自分を主とも思わず敵意を隠さない二人は、非常に鬱陶しい存在であった。そもそも、彼女達が役に立ったのは結婚式が始まる前の少しだけの間だけで、それ以降は大した仕事もしていない。通訳だって、殆どオシュクルがしてくれていた。
けれども彼女たちはそれでも、外国人ばかりのモルドラで数少ない、同郷の人間であった。共に遠いモルドラまでやって来た、数少ないルシェルカンド人であった。
アレクサンドラはその事実に、激しい孤独感を感じずにはいられなかった。
「遊動の旅は本当に苛酷だ…だからこそ、望まぬ同行者の面倒を見る余裕なぞ、私達にはない。ただの足手まといだ。だからこそ私は、勝手だと思いながらも、お前が寝ている間に侍女たちに帰還の許可を与えた」
「……」
「転移魔法の施行は明日の早朝…後はアレクサンドラ、お前がどうするかだ。お前は一体、どうしたい?侍女たちと共に、王宮に戻りたいのか、それともお前一人でもここに残りたいのか。…お前がどんな結論を出そうとも、私はお前の気持ちを尊重するぞ」