はじまりは婚約破棄
「アレクサンドラ・セルファ。…今日を持って、私はお前との婚約を破棄する」
その一言が、アレクサンドラの人生を一転させた。
「――何故、私が婚約破棄されなきゃいけないのぉおおおお!!!!」
全てが最高品質の物で整えられた、豪奢でありながらもそれでいて品が良い屋敷の中、その家には相応しくない金切り声が響き渡る。
だけど、この家の物はメイドはおろか、下働きの童子ですら驚いた様子も見せることはなく与えられた仕事を続行している。
この家の高慢ではあるが、少々足りないお嬢様が取り乱している姿など、屋敷に働き始めた新参者ですらとおに見慣れてしまっている。
「私は…私はあの身の程知らずの庶民の娘に、相応しい対応をしてやっただけだというのにぃいい!!」
発狂せんばかりの耳障りな甲高い声をあげながら、美しいブロンドの髪を掻き毟る彼女の名前は、アレクサンドラ・セルファ。
その顔は、憤怒と屈辱に歪みながらも、それでもなお麗しい。
何度掻き毟られても、豊かに波打つ金色の髪。黒曜石のごとく輝く瞳。筋が通った高い鼻。薔薇のように赤い唇。
全体的に鋭利な顔立ちは見た物にきつい印象を与えがちではあるが、それでもアレクサンドラは一目見た瞬間、誰もがハッと息を飲みこまずにはいられない程美しかった。美の女神の化身だと評するものもいる。国一番の美姫だと言っても過言ではない。
アレクサンドラはその出自もまた素晴らしい。芸術と貿易で栄えている大国ルシェルカンドにおける、大貴族セルファ家の直系長姫。しかも現在の家長にあたる父親は、宰相として国を陰で動かしている実力者だ。
美貌と権力。そんな誰もが羨む様な物を手にしているアレクサンドラだが、彼女には決定的に足りない物があった。
「――当たり前だ。馬鹿者」
アレクサンドラの父親にあたるセゴール・セルファは、30を過ぎた頃から取れなくなってしまった眉間の皺を一層深くして溜息を吐いた。
「っ何故なの、お父様…!!お父様はどこの馬の骨とも知れない平民出の娘が王族に嫁いでも…」
「そうは言っておらん…だがっ」
傍に控えていた執事は、主にばれないようにこっそりと持参の耳栓を耳に入れた。
こんなことをしていることがばれたら、お咎めを受けるかもしれないが、暫く耳が使えなくなって主の命令を聞き逃したお咎めの方が恐ろしいので仕方がない。
そして執事が耳栓を入れてきっちり一秒後。
屋敷の中にこれまた聞き慣れた雷が響き渡った。
「なぜ、簡単に証拠が集められるような、ばればれの嫌がらせをするんだっ、馬鹿者!!やるならば、もっと上手く手回しせんか!!お前が言う平民出の娘の方が、情報操作でも人脈作りでも一枚も二枚も上手だったぞ!!」
ことの起こりは三か月前。
アレクサンドラの婚約者だった、ルシェルカンドの第二皇子ルーディッヒが、ひょんなきっかけで平民の娘を見初めたことから始まった。
いくら互いに愛し合ったところで、王族と平民という身分差は歴然。それはけして叶わぬ恋。もしそのまま放っておいたなら、周囲の手によって諦めさせられたか、良くてもせいぜい秘密の愛妾どまりで終わっただろう。第一夫人になるはずだったアレクサンドラに敵う相手ではない。
けれどもその噂を聞いたアレクサンドラは怒り狂った。別に皇子を愛していたからというわけではない。確かに皇子は見目麗しく、教養も兼ね備えた高物件であったが、所詮は両親が決めた政略結婚。自身との釣り合いを考えて満足はしても、愛など大層な物は期待していなかった。
けれども自分以外の別の女に心を奪われているとなったら、話は別だ。アレクサンドラは自分自身の価値を非常に高く見積もっている。これほど素晴らしい相手を婚約者に持ちながら、他の…しかも平民出の女を愛するだなんて!!アレクサンドラの胸の奥に嫉妬の炎は燃え上がった。
実はこういう高慢さこそが、皇子がアレクサンドラを愛せなかった最大の要因なのだが、当然アレクサンドラは気が付いていなかった。
みっとも無く悋気を表にだし、堂々と目立つ嫌がらせを繰り返したアレクサンドラの行動は、たちまち周囲の知るところになった。身分差故に引き裂かれた悲劇の恋人と、それを邪魔する高慢な婚約者。周囲が心情的にどちらを応援するかなど分かり切っている。
そこで身を乗り出すのは、セルファ家が王族との姻戚関係を強くして、一層力をつけることを好ましく思っていないライバル家達。噂を利用して、何とかこの婚約を白紙にすることは出来ないものか。
行動に移したのはダルド家だった。領土の関係で、何代も前からセルファ家と敵対関係にある上に、現ダルド家の家長エドモンドは、セゴールと宰相の座を争って敗れた人物でもある。
アレクサンドラの婚約を無くして、セルファ家の力を削げれば幸い。ついでに、娘の失態でセゴールの宰相の地位を揺さぶることが出来れば、なお幸い。おまけにどさくさに紛れて、自分の直系の娘を第二皇子の第二夫人あたりに出来れば(そして最終的に寵愛を奪わせれば)、なお結構。
エドモンドは平民の娘を自身の養子に迎えいれたうえで、そのことを表だって公表せぬままアレクサンドラの嫌がらせを続行させて、証拠を集めた。エドモンドにとって都合がいいことに、セゴールは現在他国との諸問題にかかりきりで、足元を見る余裕はない。情報操作を徹底して、セゴールの耳に噂を要れないようにした。
そして機を熟した頃に、アレクサンドラを「ダルド家令嬢に対して不法な嫌がらせを行った」として、公の場で訴えた。そして行われた婚約破棄。ダルド家はセルファ家と同格な為、アレクサンドラの断罪はつつがなく遂行された。…アレクサンドラの自業自得とも言える。
「お前がしでかしたことの後始末と、宰相の立場を守る為に、私が一体どれだけ苦労したと思っているっ!!何故、お前はそんなにも愚かなんだ…っ!!」
アレクサンドラが決定的に足りない物――それは、頭の良さである。
教養や、物覚えの良さとか、そういう意味での頭の良さではない。寧ろそう言う意味ではアレクサンドラは優れていると言ってもいい。高名な詩などは何も見ずともそらんじることが出来るし、芸術的なセンスもある。
彼女が書けている頭の良さとは、言うならば思慮深さのことだ。短絡的で、感情的。結果を考えずに、思うがままに突っ走り、暴走する。それが、様々な面で恵まれたアレクサンドラの、唯一にして最大の短所と言えよう。
「でも…でも、お父様!!平民女になんて、そんな気を回す必要があるだなんて思わないじゃないっ!!」
「あらゆる可能性を考えてと、私は何度も何度も口にしただろうっ!!いつどこでどんなきっかけで足元を掬われるか分からないのが、貴族社会だとっ!!どうして、お前はそれが理解できないんだ…っ!!」
自分も妻も、聡明だと謳われていた筈なのに、一体どこでどう間違えてこんな娘に育ったのか。
セゴールは溜息を吐きながら、頭を抱える。
アレクサンドラの母であるリリアナは、アレクサンドラがまだ幼い頃に他界し、自身もまた仕事にかかりきりだった為、教育を全て他の物に任せたのが間違いだったのかもしれない。なまじ学習成績や作法などと言った部分は優秀な分、叱られる機会も叱る人もいなかったのだろう。幼い頃から、もっと厳しく躾けるように言って置けば良かった。だが、今さら後悔しても遅い。
セゴールは、未だどこか解せぬ様子のアレクサンドラの姿を横目で見ながら、再び嘆息した。愚かではあるが、アレクサンドラはセゴールの血を分けた唯一の娘で、心から愛してリリアナが産んだ娘だ。愚かであっても、否、愚かであるからこそ、なおのこと可愛い。…そうやって甘やかした結果が、今のアレクサンドラではあるのだが。
だからこそ、これから告げないといけない言葉は、セゴールにとっては身を切るように辛いものであった。