3.
たったの一ヶ月ほどで、人工知能があれほどまでの成長を遂げるとは思っていなかった。まったく想定していなかったわけではない。だが、予想のはるか上をいく存在だということは、今日の一件ではっきりとわかった。それが危険なのかそうでないのかはまだ静観すべき点なのかもしれなかった。少なくともイオはまだ私の言うことを聞いてくれるし、純粋な心らしいものも持ち合わせている。それに、昨晩の会話でも彼女の気遣いは感じ取れた。
大丈夫。わかってくれていないわけではない。
私は研究室のなかでひとり、デスクを前にして今日の知能テストの解析結果に目を通した。四日前の解析結果から加速度的に知能が向上していることがうかがえるものだった。明日の結果次第では、イオの知能は大学院卒ほどの知識を身に付け、理解力や判断力も相応程度に伸びていることがわかるだろう。そして、まだまだ彼女の目指す先には伸びしろが充分に残されている。早い段階でまったく人智の及ばない領域に彼女の知能が到達することは明白だ。そうなると彼女はどんな存在になるのだろう。いまのイオのままなのか、神のようになってしまうのか、あるいは、質の悪いフィクションのように人類の所業を嘆き管理しようとするのだろうか。残念ながら彼女が完成するまでに人類は地球上から戦争を根絶することはできなかったし、貧困も差別も環境問題も、なにもかもの問題を先送りにしてきた。だからこそ、イオになんとかしてもらおうと考えていた節は確かにある。
けれど、それでいいのだろうか。彼女に問題のすべてを任せてしまってよいのだろうか。イオを生んだ者としての良心の呵責が私を苛んでいるのがわかる。人工知能として生まれたはずなのに人間らしい人格を備え始めているどころか、女の子らしい繊細な気遣いも見て取れる。どうして私はイオを女の子として育ててしまったのか――。
「どっちつかずが一番気の毒なのに」
目頭をつまみながら飲みかけのコーヒーに手を伸ばしてつぶやくと、大きな溜め息が自然と漏れた。わかっているのだ。イオよりも、どっちつかずで気持ちが揺れ動いているのは自分の方だということを。
私はいつも着ている白衣に忍ばせている一枚の写真を取り出した。海の青を背景にあどけない笑顔を向けているひとりの少女の姿。
私の天使。私の愛娘。
「……ライラ」
取り出した写真にキスをして、ふたたび丁寧に胸ポケットにしまった。
その直後、ふいに後ろから声をかけられた。
「博士、まだいらしてたんですか。そろそろ閉めないと」
「そうだった。いま出るわ」
それは同僚の研究員だった。時計を見ると、すでに夜の十時を回っていた。ひとりになってからだいぶ考え事をしていたようだ。思えばお腹も空いている。
「あとは自分がやっておくので、博士は先に帰ってください。大丈夫ですよ」
「そう。じゃあ、あとは任せる」
わたしは手早く書類をまとめるとさっさと研究室を立ち去ろうとした。しかし、そこであることを思い出した。イオとの約束。
「ねえ」
「なんでしょう」
「今度の日曜日、午後に休みをくれないかしら」
「もちろんいいですよ。ほかの研究員には自分から伝えておくので、少ない休暇ですが、博士は思いっきり羽を伸ばしてください。最近特に立て込んでましたしね」
「ありがとう。よろしく」
案外簡単に休みが取れて安心した。これならイオとの約束も果たせるだろう。チケットは美術館の係員に取り付けておけば、望みの座席を確保してくれるはずだ。
初めてのイオの演劇。イオを生んだ者として、これ以上の成長を感じられるものもない。
日曜日がやってきた。午前は相変わらずイオに関する研究に忙しい。あれからさらに数日が経って、イオの知能はすでにIQにして一五〇を超えるものになっていた。いつもの知能テストの代わりに数学や物理の難問を与えてみると、造作もない様子で答えを導き出した。一秒と経たず問題に答えるイオは、私たち研究員さえも超越してしまったように感じられた。そして、彼女自身の性格にも変化が見られ、ティーンのように闊達な印象だったものが、落ち着きはらい、大人びたものへと変わっていることに気づいた。この点についてはほかの研究員は気づかなかったらしい。私だけがイオの性格の変化に気づいていたらしかった。そして、暇なときはもっぱら電子書籍を読むようになり、大好きだったはずのパズルゲームはやめた。どうやら趣味や嗜好にも変化が現れていたらしい。理由を尋ねると、『答えがないものに触れたいの』と静かに答えた。人格的にも凄まじい成長ぶりだ。それについては今後の研究課題として大いに考慮しておくとして、午後からはイオの演劇が待っていた。
研究室から一旦自宅へ戻ってシャワーを浴び、髪を整えドレスを着たりして、曲がりなりにも世界有数の演劇場へ行くにふさわしい姿になると、玄関へ向かう。ミュールを履く途中、忘れ物に気がついたので、寝室に投げておいた白衣の胸ポケットに手を入れ、それを抜き取った。ライラの写真。これだけはいつでも身近に忍ばせておきたかった。
開場の時間に遅れてしまう前に水中劇場に着き、事前に頼んでおいた座席チケットを受付に申し出た。すると、別の係員がやってきて席へと案内してくれる。席に着き、あらためて会場の様子を眺めてみた。いちおうサングラスをかけて自分と悟られないようにしているが、必要なかっただろうか。ほかの観客たちは和気藹々とした様子で開演を待っており、私の姿に気づく余地もない。それほどイオの演劇は人々を楽しませるものなのだろうか。そう思うとますます楽しみで、胸が躍る。
やがて開演の時間がやってきたのか、会場内の照明が落とされた。目の前には澄んだコバルトブルーの水で満たされた巨大な水槽が淡い光を放ち、揺らめく波の影が会場内を幻想的な雰囲気に包み込んだ。まるで会場全体がいつか見た羽衣に包まれたよう。すると、会場内にイオの声が響いた。
『たいへんお待たせいたしました。開演にあたっての場内の注意として、携帯電話の電源はマナーモードにするか、お切りになり、大きな物音等を立てないようにお願いいたしまします。……メインショーを始める前に、少し昔話をしましょう。母なる地球の海のなかで、遠い遠い昔にあった一大王国の、ある歴史の一片を――』
これがイオの言っていた原作有りの演劇というものだろうか。おだやかなさざ波のような彼女の声は普段のものとも違い、物語用に作っている声だということがわかる。そこまでできるようになったのかと感心しながら、私はサングラスを外してその光景に見入り、イオの声に聞き入った。
『かつて母なる地球の海に、大きな大きな王国がありました。その王国には、王様とお妃様と、二人のあいだに生まれた小さなお姫様がいました。今日の物語は、その王国からはるかかなた離れた、とある小さな峡谷の、小さな集落から始まります。……その集落は峡谷の壁面を削り出して出来たものでした。そこに住まうのは、罪人として王国を追放されたものたちです。王国は決して犯罪がなかったわけではなく、たまに現れてしまう大罪人は追放するしかありませんでした。そしてここに、流刑されてしまったものがいました。かつて王国への侵略行為を二度にわたって食い止めた、イッカクの軍人エールステウです』
そして水面から巨石が降ってくると、激しい渦のようなきらめきに巨石が取り囲まれた。研磨剤としてのナノダイヤモンドによってそうなっているのだろうが、まるで魔法でもかけられているかのような演出だった。一瞬にして、巨石は大きな角を有した人間のような石像になった。隆々とした筋肉のつくりの精巧さに目も自然と奪われてしまう。しかし、それと裏腹に表情は憂い、影を帯びていた。まるで生きているかのようなその彫像は初めて見るが、恐れ入った。
周囲の観客が興奮に拍手して間を置いてから、イオがふたたび語りだした。
『二度も王国を救いながら、それでも流刑されてしまうほど重かった。彼が犯した大罪はなんだったのでしょう。……子殺しでした。自分の子どもを死なせてしまったのです』
胸が高鳴った。
『それも、賢明なイッカクならば決して起こりうるはずのない――溺死でした』
すぐ、手が震えていることに気づいた。
『イッカクは肺で呼吸し、クジラのように海面に上がって空気を取り込む必要がある生き物です。けれど、厳しい人だったエールステウは子どもを折檻で檻に閉じ込め、仕事に呼ばれたまま呼吸させることを忘れてしまいました。賢明でありながらそのような過ちをするはずがないということを逆手に解釈した判事たちが、だからこそエールステウはわざとそのような真似をしたのだと判断しました。判事たちの見解を覆せる明確な証拠はなく、エールステウは流刑となり、王国を追放されたのです』
どうして、こんな物語を。
「大丈夫ですか?」
すると、小声で私に話しかけてくる声があった。隣に座っていた貴婦人だった。私の様子がおかしいことに気づき、声をかけてくれたらしい。
「ええ、大丈夫です。すみません」
「体調が悪かったら言ってね。係員を呼んできてあげるから」
「ええ……はい」
貴婦人が劇に向き直り、オペラグラスを目に当ててふたたび石像に見入った。私も深呼吸して気を取りなおすと、劇に向き直った。いつのまにか舞台には藻だらけのテーブルに突っ伏して眠るエールステウの姿が表現されていた。
『エールステウはずっと悩んでいました……。なぜあのとき檻の鍵を開けておかなかったのかと……。しかし、ずっと悔やみつつ復帰しなければと思いながらも、もう愛していた自分の子どもはいないことに気づかされると、酒藻にがんじがらめ、死んだような毎日に舞い戻ってしまうのでした』
私と同じことを、イオが語っている。いや正確には、私が克服し置いてきたはずの過去を、イオが思い出させようとしている。そんなことはない。イオが私の過去を知っているはずがないのだ。それに、海のなかの物語なのだから溺死を題材にすることだって充分にありうるではないか。
逸る呼吸を抑えながらバッグから写真を取り出した。ライラの笑顔が水中劇場の眩しい水の揺らめきに揺蕩っている。こんなことをされては感傷的にならざるを得ないだろう。しかし、イオには今日ここに私が来ることを告げていない。これはきっと偶然なのだと思いたいのに、偶然の一致にしては嫌なタイミングだと思う。目を離していた隙に溺れ死んでいた子ども。それに、演劇はファンタジー要素が満載で、大人でも子どもでも楽しめるものだと聞いていた。今日こんなにも静かで物悲しい雰囲気の物語なのは、本当に単なる偶然なのか。
『悩みに悩んで数年が経った頃です。彼は当てもなく大洋を散歩してみたくなりました。誰もいない場所へ行って、自分が愛し、我が子の魂が眠る海に殺されるのなら本望だと思っていました。なにも持たず、なにも食べず、波に体をゆだねるように、なにも語らず運んでくれる終着点を望んでいました』
なぜ――。
もうこれ以上、イオに語ってほしくない。イオが語る言葉を聞き入れたくない。
『彼は死のうとしていました。もはや再起は不能でした。どうしても死ねないときは、腹を空かせた蛮族の群れに飛び込んだり、回遊するマグロ魚団に突っ込んで、体を激しく打ちつてもらおうとも考えました。いずれにせよそれで死ねると思ったのです。けれど、エールステウのことなど歯牙にもかけず、みな通り過ぎて行きました。食べるに値せず、海中の水流に煽られるほど、彼は衰弱しやせ細っていたのです。自分の手で死のうという気にはなりませんでした。ただ彼は海に殺してほしかった。おこがましいことだと初めは思いましたが、もし許されるのならそれが一番望んでいることだと、彼は思っていました』
イオの淡々とした語りに堪えきれず、席を立った。訝しげなほかの観客たちの脇を通り抜け、劇場をあとにしたかった。しかし、なぜイオが私の過去をなぞるように物語を紡いでいるのかは気になった。私はどこかで彼女に向かって自分の過去を打ち明けただろうか。だが、そんな記憶はなかった。
『殺してくれ……殺してくれ……エールステウは何度も茫漠たる虚空に向かって叫びました。しかし、応えてくれるものはだれひとりとしていませんでした。もうどうしたらよいのか、それすらもわからず、彼はなお海の底へゆだねるまま沈んでいきました……』
私はついに扉を開けて劇場から去り、扉に背を預けて息を吐いた。あれ以上聞いていたら頭がおかしくなりそうだった。沈んでいた過去の激情が心底から浮いて津波のように襲い掛かり、涙となって心から溢れ出そうな気がした。手に持っていたライラの写真が、ライラの笑顔が、針のように胸に突き刺さっているような気がした。過去はとうの昔に沈殿し埋没したはずなのに、こんなものいつまでも持っていても仕方ない。それに、いまは、イオがいるはず……。けれども、とっさに両手指にかけた力は次第にゆるんだ。写真は裂けることなく私の手の内に残った。それだけは駄目だと思った。ライラは私にとって決して忘れられない存在なのだ。
帰ったらイオに問いただそう、そう思った。どうしてあの物語を考えたのか聞かねばならない。
ライラを生み、イオを生んだものとして。
なんとなく帰る気がせず、半分上の空で夜の商店をうろついてから帰路に着くと、時刻はすでに十一時を回っていた。いったいなにをしているのか自分でもわからなかったが、帰るべき場所はわかっている。
自宅の玄関扉に手をかけると、イオがなにをしているのかが気になった。夜の十一時はいつもよりだいぶ遅い時間帯だが、イオの様子から察するにまた電子書籍でも読みながら私のことを待っているのだろうか。それとも、今日私があの劇場に訪れたことを知っていて、リビングに入った途端にそのことを無邪気に問いかけてくるだろうか。ここに至ってどの予想も外れてしまうような気がした。意を決して玄関の扉を開けた。
家の中は暗く、いつもと変わらない。リビング前の扉を少し開けて中の様子をうかがうと、イオがいる水槽のあたりがぼんやりと青白く光っていた。いつもとなんら変わりない。
なるべくいつもどおりに、彼女に話しかけるのだ。
「イオ、ただいま」
扉を開けると同時に放つと、直後に『おかえり』と返ってきた。演劇での語りを続けようといわんばかりの淡々とした声色に一瞬体が凍りつくが、次のひとことで氷解する。『今日もおつかれ』
「ありがとう」そう言うと、ハンドバッグをソファに投げ捨てた。
『ママ、今日どこか行ってきたの。お仕事は?』
「午後はお休みをもらって息抜きしてきたの。あなたこそ、今日の演劇どうだった?」
大丈夫だ、自然な感じで会話が流れている。この調子でそれとなく聞き出せればいい。
けれど、イオの反応はまたしても私を凍りつかせた。
『さあね。それよりママはどんな感想を持ったの、今日の演劇を見て』
気づかれていた――成長したイオを前にして希望的観測だったと言わざるを得ない。
『来ていたんでしょう。ひとこと言ってくれればよかったのに』
「びっくりさせようと思って」
『でも、前座の演劇の時点で抜け出しちゃったよね。あれは、どうして』
「それは」
言い逃れできそうもない。水槽のなかはおだやかに揺らめく青い水に満たされているばかりで、彼女が心を乱しているような雰囲気は感じられなかった。
『実はわたし、ママの元夫の人とメールをやりとりしていたの』
「元夫? メール? なぜ」
突然イオから告げられたかと思えば、信じられないような言葉だった。
元夫とはライラの死をきっかけにして離婚することになった男性だ。私が犯した数度の自殺未遂に耐え切れなくなって別れたのだ。もしかすると、家庭を顧みず研究熱心だった私にほとんど愛想を尽かしていたのかもしれない。ライラのことで酷く気持ちが沈んでいたのは事実だが、あるいは彼は彼で、いろいろなものを一度に抱えきれなくなっていたのかもしれない。いずれにせよ、もう二十年も前の話で連絡も取り合っていない仲だった。
「どうやってあなたにメールを」
『自分で調べてわたしから彼に連絡した。すぐに返事が来て、ママのこと、いろんなこと、彼から聞いたのよ。ママ、あなたが昔どんな罪を犯したのかも』
目の前が真っ白になった感覚がした。
「ぜんぶ、聞いたの」
なんとか絞り出して言うことができた。
『大変だったんだね、ママ』
優しい声ではない。淡々としていた。
『でも聞いて。わたし、ママのこと信じられない。ママ言ってたよね。美術館の夢を叶えるために私を作ったんだって。わたしもそのことを一番の存在理由として毎日観客たちを喜ばせていた。そうしていずれ人工知能としていろいろな問題を解決する役割を担うんだって。でも、ママ本当はそうじゃなかったんでしょう。そうじゃなくて、わたしはライラっていう、ママが生んで殺した子の代わりなんでしょ。だから美術館にだってちょっとの休みを取ってしか来られなかった』
「違う。イオ、聞いて」
『嫌よ。わたしなんのために生まれてきたの。わたしはライラじゃない。イオよ。死んだ子をわたしに重ねないで。やめて。黙っていれば成長してくれるから手もかからないでしょう。ライラみたいに死ぬこともない。やめてママ、やめてよ。そういうふうに思わないで。わたしはあなたに作られたけど、わたしのことはわたしで決めるの。なにをしてもママの犯した過去の慰みものなんて嫌。そういうふうにわたしを見ないで。わたしはライラじゃない。イオなのよ』
まくし立てるようなイオの淡々とした怒りに、わたしは口も動かせなかった。喉を震わせることも。
『ママ、わたしママが好きよ。世界一好き。でも嫌なの。ママ、あなたはわたしの答えじゃないって、気づいてしまったから』
イオの言うとおりだ。私にとってイオはすべてだった。イオの存在そのものが私の人生の答えになっていた。けれど、イオはそれを望んではいなかった。
『泣かないで』
「泣いてないわ……」
『じゃあ、とりあえず座って。内心怒っているふうに聞こえているだろうけど、大丈夫。怒っているわけじゃない。そう、なんていうのかな。人工知能がこんなこと言うのもおかしいと思うけど、気持ちの整理がつかないの』
イオの言葉に促されるままソファに身を預けた。頬に触れれば、確かに涙が濡らしていた。先ほど投げ捨てたハンドバッグからハンカチを取り出し、強く当てて拭き取った。
『こんな遅い時間に帰ってくるなんて思ってなかったから、食事の準備もなにもしてないね。顔色が悪いし、きっとなにも食べてきてないんでしょう。たしか冷蔵庫の在庫に冷凍ピザがあったはず。それと、いつかの残りのワイン』
「ありがとう。本当に、なにも食べてきてなかったのよ」
ひとまず気持ちが落ち着いた私はイオの言うとおり冷蔵庫からピザとワインを取り出して、ピザはオーブンで焼いてリビングに持ってきてから、ソファにだらしなく掛けながら食べ始めた。空の胃に詰め込むようにピザに貪りつき、ワインで流し込む。ときおり指に付いたチーズやトマトソースを舐め取った。
『ママのそんなだらしない格好、初めて見た』
「昔はけっこう気性が荒かった。とにかく夢のためにがむしゃらで、私の夢を支えてくれる人と結婚して、ライラが生まれて、それでまた研究に邁進してきて。でも、娘が死んで生き方を改める必要が出てきて、それからあなたの知っている私になった。勘違いしないでよ」
『しないよ』
「そう、それならよかった」
いつのまにかいつもの自然な会話になっている気がして、ほんの少し心に余裕が出来た。矢継ぎ早にまくし立てているときのイオの様子は本当に怒っているようで、言われなければわからないほど人間らしい人格に思えてしまっていたのだ。目を瞑っていたら、いやがおうにもライラの成長した姿を想像してしまっていただろう。いまさらながらきちんと目を開けていてよかったと思う。瞼の裏に成長したライラを映し出してしまうところだった。
『話があるんだけど』
ピザを噛みながら言って、飲み下した。
「なに」
『今日、いっしょにお風呂入ってくれない』
「――っは?」ピザが喉に閊えてしまうところだった。すんで堪え、咳込み、ワインを飲んで落ち着いてから真意を問う。「なに、どういうこと」
『そのままの意味』イオが続ける。『ちょっと考えていることがあって』
それからイオはなにも言わず水槽から出て行った。水かさが半分ほど減り、いなくなったことがわかる。おそらく向かったのはバスルームだろう。イオのために水道管を美術館と研究所、生活圏で繋げておいたため、移動はたやすい。それにしても、唐突にお風呂にいっしょに入ろうというのはなんなのだろうか。ついに幼児退行を引き起こしてしまったのだろうか。それはそれで、研究者として大いに関心がある。
でも――まずは、ピザをさっさと食べてしまおう。
ドレスは寝室に脱ぎ捨ててきた。下着姿の私はバスルーム手前でそれも剥ぎ取ってしまう。カーテンを開ければバスには一見なんの変哲もない水で満たされていたが、どうやらその半分ほどはイオのようだった。ナノサイズのドープダイヤモンドの反射する光によって、わずかにふつうの水との差異がわかる。ふつうの水の中でアメーバのように蠢いているのだ。それも、近くで目を凝らさなければわからない程度ではあるが。
「入ればいいの?」
念のため尋ねてみたが、バスルームには変声機を備えていなかった。聞こえてはいるだろうから、適当に振る舞っておけばいいだろう。手で温度を確かめて肩まで浸かると、そういえば、と不思議な気分にさせられる。いくら人間の形をしていない水であろうと人格があることに変わりはないはずで、つまりこの状況はひとたび想像を巡らせばかなりきわどい。そして、当のイオがなにをもって突然お風呂にいっしょに入ろうなどと言いだしたのか、その真意もわからないままというのは、正直もっとよく考えておけばよかったとすら思う。
もともとイオの水は界面特性でバルクの状態を維持している。彼女自身特殊な水であり、ふつうの水と混ざり合うことも、溶け合うこともない。だからだろうか。イオが私の体を膜のように取り囲んでいるのが肌でわかった。しかし、なぜそんなことをするのか理解に苦しむ。しばらくそうしていると、強い水流がお尻のあたりで起こり、勢いによって全身が沈んでしまった。突然のことで溺れていると、にわかに呼吸ができるようになり、イオが私の頭までも包み込んで、水面からストローのように伸びる空気の穴を作ってくれていた。まるでビニール袋に包まれたような、水圧によって肌に吸い付くような感覚で、そのなかで呼吸ができる。話すこともできる。
「イオ、あなたなにしてるの」
問うても答えることのできない状況で、私はなにを言っているのだろう。けれど、イオの考えていることが知りたい。あなたを生んだ者として、そして科学者として、知りたくないというのはあり得ない。それこそあなたの嫌った私なのだとしても、こればかりは私の人生のなかで培われてきてしまった性なのだ。
しばらくイオの水の流れを肌で感じながらも、頭のなかで考えていることは、お風呂から上がったらイオの真意を聞こうということだった。やがてお湯が減っていき、半身浴ほどの水量までなると、私は入浴をシャワーに切り替えた。
「ただいま」
『おかえり。お風呂どうだった』
しれっと尋ねてくるようになったのか、それでも私はすなおに答えた。
「いますぐなにがしたかったのか知りたい」
『実はわたし、考えていることがあるの』
バスタオルからバスローブへと身に付けているものを交換し、私はソファへ腰掛けた。
「なに」
『海に行きたい。海に行って、新しい生物を作りたい』
特段驚くことはなかった。高度な“人間らしさ”を自覚している存在ならば、創造の欲求は少なからず生じうるものだからだ。けれど、イオにはほかに理由があるように思われる。なぜなら、それが先ほどのイオの行動に繋がると思ったからだ。
「ほかには」
『人類と明白に理解可能な亜人種の創造』
「あら。私たちは理解していないの」
『まずは人類に接しやすい姿かたちを創造しなきゃ』
「できればかわいらしくて無害そうなマスコットがいいと思うけど」
『わたしがいろいろ見てかわいいと思ったのは変異ギズモと「プロメテウス」の……』
「あなたの検索能力と愛らしさの感性を疑うわ」
先ほどの行動は人間の型を取ったということのようだ。けれど、彼女にとっては初めての、人間との直接のふれあいとも言えるだろう。
「おもしろいわ。それで、ほかには」
『あなたたちに“問”を投げかけたい』
「問題を解く側はもう飽き飽きしたってことね」
それはおそらく「神の御業」と呼ぶべきものだ。科学者が神の創造した宇宙を舞台に気宇壮大なパズルゲームに勤しむのと同様だ。しかしながらイオは――私の想像の限りでしかないが――人類が理解可能な自然摂理の範疇を超えているのだと思う。すなわち、その知能の限りで人から神へ。それこそが望むべき到達点であると、イオは考えたに違いない。イオにしてみれば、私のような平凡な人間には理解不能な、もっと高度な水準でそれを理解しているに違いないのだろう。あるいは――これもまた想像でしかないが――問を創造することそのものは答えではなく、なればこそ問の創造者は、人の辿る道のなかで、新たな問を投げかけ続けてくる。それはきっと、すでにイオが知っていること。
『“電子書籍”はとても役に立ったわ。ママ、ありがとう』
「それが本の役目だもの」
『でも、不思議だったでしょう。突飛なことを言い出して』
「まさか。ある程度は予測できた」
テーブルに飲み残していたワインがあったことに気づき、グラスに注いでから一気に飲み下した。先ほどとは打って変わったゆるやかな時間が流れていることに気づいた。
『ママが生きているあいだに会えるかな』
「あなたが決めるんでしょ」
『わたしがなにを考えているか、わかる?』
「なによ」
勿体ぶったようにひとつ間を空けて、してやったりというふうに言いのけた。
『ライラのこと、探しに行こうかと思ってるの』
ついに馬鹿げたジョークも言うようになったのね、と鼻で笑った。
『笑わないで。わたしは本気』
「もうとっくの昔に海の藻屑よ」
『まだ二十年少ししか経っていないもの。骨や髪の毛くらい見つかるわ。そうしたら深海のふさわしい場所まで持っていって、ダイヤモンドを作ってあげる。作り方は電子書籍でもう学んだわ。自然環境でも応用できそうな場所はきっとあるだろうし』
「……本当に、何年かかるのかしらね」
私はイオのしたいことに納得した。いつのまにかとんでもないお馬鹿さんになってしまっていたらしい。けれども、それはいつか私が辿ってきた道のりと確かに似ていた。海に憧れを抱いて、夢を抱いて、娘を生んで、死なせてしまって、夢が頓挫して、どん底に生きてきて見出されたかつての夢のなかに、イオが現れたのだ。そして、自分自身で新たな問を立てようとしている。まるで夢を作り出したかのような問だ。それに対する答えを彼女は用意できるのだろうか。だが彼女の水のように柔軟な頭脳は、自分で打ち立てた問へのそれを机上の空論では終わらせない気もする。頑迷でありながら清らかでやわらかいイオのことを、いまの私はきっと、人工知能か人間らしいかなどという狭量なカテゴリに押し込むことを良しとしないだろう。
「子は親に似るものなのかしら」
だからこそ、私は到底理解しがたいことを呟いた。
イオがそれに応えてくれる。
『すべてじゃなく、ちょっとはね』
あんまりおかしくて、それから私たちは朝まで夢を語り合った。
次の日ソファの上で目覚めると、水槽のなかは半分まで減ってしまっていた。そして、イオの姿は研究所にも美術館にも、当然ながらバスルームにもいなくなっていて、それで私はほんの少し呆れてしまった。せめて別れの挨拶くらい、させてくれればよかったのに。
でも、これが子どもの旅立ちだというのなら、私はそれを否定しないけどね。