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イオ  作者: 籠り虚院蝉
2/4

2.

 照明が落とされた席に座る観客の目には、目の前の水中劇場に釘付けになっていた。舞台用に輝くコバルトブルーの水の色はインド洋の首飾り、モルディブのものである。巨岩の周りには熱帯産の観賞魚が優雅に漂い戯れていて、そこは平穏そのものだ。

『さあみなさん、退屈だったでしょう。長らくお待たせいたしました』

 突然どこからともなく声が響いた。闊達で、十代のように若い女性の声だった。ざわめく観客たちは声の主を探そうと視線をあちらこちらに向けた。しかし、ここには観客たちのほかだれもいない。なるほど、と多くが思った。

 イオが出てきたのだ――。

 しかし水の中は依然平穏そのもので、なにかが起こる気配はなく、なにかがいるわけでもない。客たちは今か今かと水中劇場を見つめていた。

『メインショーを始める前に、少し昔話をしましょう。母なる地球の海のなかで、遠い遠い昔にあった一大王国の、ある歴史の一片を――』

 闊達で若いものだが、その語りはとてもなめらかで、まるでさざ波のようだった。聴き心地のよいその声は、わざわざアイスランドからやってきた御年八十の老年男性を深い眠りへといざなうほど。けれども多くの観客は、眠るまいと集中した。

『かつて母なる地球の海に、大きな大きな王国がありました。その王国には、王様とお妃様と、二人のあいだに生まれた小さなお姫様がいました』

 語りの合間、水中劇場に大きな石英の塊が三つゆっくりと沈んできた。すると、地に着く前にその岩が竜巻のような渦によって一瞬にして削り出され、そこには三人の登場人物の像が現れた。王様とお妃様と、小さなお姫様の像である。三人がしあわせそうに遊んでいる光景が瞬時に舞台上に作り出され、その魔法のような現象に途端に歓声が上がった。しかし、物語はとどまることなく進んでゆく。

『王国のみんなが平和に過ごしていたある日、大事件が起きました。なんと海のギャング、シャチ族の群れが攻撃を仕掛けてきたのです』

 すると、今度はしあわせそうだった三人の石像がぶわりと浮き上がり、不思議な力で粉々になった。破片もまた地に着く前に竜巻のような渦によって削り出されて跡形もなくなり、そのあいだに沈んできた六つの大岩で、今度は怯える王様たちと得物を向けるシャチ族の長、そしてその家来が二人、ほぼ同時に舞台上に作り出され、その石像たちが地に立った。目にもとまらぬ早業に観客の気分はますます高潮していく。

『王様が言いました。「お前たち、こんなことをしてただで済むと思っているのか」。するとシャチ族の長が言い返します。「は、は、馬鹿を言いなさんな。こってり肥った王様も、白い肌のお后様も、やわらかそうなお姫様も、ひ弱な王国市民どもも、俺たちシャチ族が支配して、もろとも食ろうてやるわ。は、は、は」。なんということでしょう。シャチ族は王国のみんなを食べ尽くしてしまうためにやってきたのです』

 突如平和な王国を襲った悲劇を前に、観客たちはみな固唾を飲んで見守った。泣き出しそうな子どもをあやすために、劇場の外へ出て行ってしまう親までいる始末だった。

 場面は再び変わり、大きな鉄の牢獄のなかに三人が捕まっている場面が作り出された。王様とお后様はよよと泣いており、お姫様はなんの取り柄もなく食われることもない小さな熱帯魚たちと戯れていた。

『こんなことではいずれ食べられてしまう――そう考えた王様とお后様は、せめてお姫様だけでも逃がそうと思いました。擬態が得意な情報大臣、ミミックオクトパスのマージンズを呼ぶよう熱帯魚たちに取り付け、こっそりやってきた彼に事情を話すと、監視の兵が寝ている隙に鍵を盗んできてもらい、お姫様ひとりを牢の外へと逃がします。「パパとママは逃げないの?」そう問うお姫様に王様とお姫様が言いました。「わたしたちはやることがあるから」――』

 お姫様は半分納得、半分疑問を持ったまま、国の外へ逃げていった。それからどうなるか、観客たちは次の場面転換を待った。

 先ほどと同様、魔法のような演出とともに石像が変わる。次の場面は隣国の王子様のもとへお姫様が駆け寄るシーンが作り出された。

『お姫様は急いで隣国の王子様のもとへ向かいました。危険だけれど、国を助けてもらうため助力を願いに、三日三晩食うや飲まずで広い海を駆け抜けたのです。付き人もいないまま突然やって来たお姫様の疲れ果てた姿を見て、王子様はすぐに事情を察しました。「君の国が危ないのだね」。すると、お姫様は頷きます。「わかった。すぐに兵の用意をしよう」』

 今度は大量の小さな石の塊が降ってきた。「おおっ」と声を上げる観客たちの驚きも待たず、その石像たちはほぼ一瞬で海の兵士の姿となり、綺麗に並べられて隊列のような陣を組んだ。先頭には鎧をまとったカジキの背に乗った雄々しいイルカの王子様の姿がひときわ大きい彫像で作り出された。さながらナポレオンの絵画のような場面に、観客は堪らず盛大な拍手を送る。イオが語りを再開すると、その邪魔にならぬよう、拍手の音もぴたりと止んだ。

『イルカ王子が用意した兵の数は五千を超えました。彼らは急いでお姫様の王国へと向かいました。そして場面は再び変わって、王国へと移ります――王国ではお姫様がいなくなったことで、監視していた兵が一匹、無残に処刑されてしまったところでした。けれども、本当に逃がしたのは王様とお后様とわかり、シャチ族の長は怒り狂いました。どうやら彼は若く麗しいお姫様をデザートに取っておいたよう――とにかく、シャチ族の長は王様とお后様を食らうという儀式を、王国市民の前で執り行うことにしました。式の日時は三日後、早朝と決まりました。「王国の新しい夜明けを見せてやる!」と意気込むシャチ族の長』

 水中劇場内の照明が暗転するたび、悔しそうな王様やお妃様や市民の姿、高笑いするシャチ族の長、ぽつんと作られた斬首台の石像が次々と場面ごと作られていき、まるでシャッターが切られるたびに代わる代わる映画のワンシーンのようだった。そろそろ演劇も終盤かと、観客は手に汗握り、王子様が率いる軍の登場を待ちわびた。

 三度照明が暗転したのち、後ろ手に縛られた王様とお后様が斬首台の上に並んで立つ光景が広がった。一気にざわつく観客たちは、ひそひそ声で語り始めた。よもや王子様の軍隊は間に合わないのではないか――と。

『三度頭上に月が巡り、ついにその日がやってきました。シャチ族の長の宣言どおり、早朝に王国市民全員を集めた式が催されるのです。シャチ族の長は言いました。「刮目するがいい! お前たちの親愛なる国王が死に、俺がこの国の新しい王となるところをな!」。市民は大いに泣きました。中には悲しみや恐怖のあまり卒倒する者もいました。けれど、どんなに泣き喚こうが王様とお后様は殺されてしまう――お姫様もどこへ行ったかわからない――そんな不安と絶望が心の中いっぱいに広がっていました。王様とお后様の首が斬首台に捕らえられ、シャチ族の長がニタニタと笑っています。あとは彼が一声「やれいっ!」と言ってしまえば、この国は終わるのです。シャチ族の長は右手を高らかに上げました。そして、その大きな口をめいっぱい開き、「や」――「そんなことはさせない!」』

 高笑いしていたシャチ族の長の顔が削られ、一瞬で驚いたようなそれに変わった。なにが起こったのかと観客が劇場の石像に目を凝らせば、斬首係が持っていたナイフが弾き飛ばされ、彼らの体にはマグロ兵たちの体当たりが新しく表現され、はるか後方へ吹っ飛んでいるのが見えた。

『「シャチ族の長、ウールーよ! お前は我が国では飽き足らず、我が許嫁のいる国へも侵攻を始めたのか!」その口ぶりはシャチ族の長を知っているものでした。「貴様はたしか……オラケル王子か。大きくなったものだな」。こちらも彼を知っているようです』

 イオの語りによると、シャチ族の長ウールーとオラケル王子は、武道の師弟関係であったという。しかし、ある日ウールーがクーデターを起こし、オラケル王子の王国は内戦状態となり、かろうじてこれを跳ね除けたが、オラケル王子の父と母は戦闘に巻き込まれて亡くなり、王子が時期国王として急遽王位を継ぐこととなった。クーデターに失敗したウールーは協力し生き残った兵士を連れ王国のはるか遠くへと逃亡した、ということだった。

『「ウールーよ! 我は問いたい! なにゆえお前は王国に謀反をはたらこうとしたのか!」。オラケル王子は叫びました。長いあいだ知り得なかった彼の真意をようやく問いただせる機会が訪れたのです。ウールーは言いました。「なにゆえだと? 俺は初めからあの国をめちゃくちゃにするために、武道の腕を頼りにお前に近づいたのだ!」。「なんだと」。「知らんのか。戦争大臣であるシードラゴンのケイモーンを!」。「ケイモーンだと?」。「あいつが指揮しためちゃくちゃな戦争のおかげで、俺は国も家族も友人も失い、平和なときをぶち壊された!……ふふ、国王など知ったことか。はなから俺はケイモーンをこの手で討ち倒せればそれでよかったのだ。だが国王が俺の企みに気づき、そんなことはやめろと言い出した。その言葉がどれだけ俺を苛んだか……だが、俺は国を追放される前にクーデターで国もろとも破壊することを決めた。もとはといえば国王がケイモーンをもっと引き止めさえしていれば……国民が戦争を止めるよう進言していれば……!」』

 イオの語りは力強く、ウールーの怒りに満ち満ちていた。まるでウールーなる存在がまさしくこの世界に存在し、イオに憑依し、代弁者となり語っているかのようだった。いつの間にかウールーの姿は躍動感ある演説のものへと変わっていた。その語りを聞き入れるほかない観客たちは、皆一様に複雑な表情をしていた。

『オラケル王子は悔しそうに声を絞り出しました。「我が許しをもってしても、その憤怒や怨恨の念を晴らすことはできないか」。ウールーの表情が反応します。「……やってみなければわからんぞ」――再びニタニタと笑みを浮かべ、彼は言います――「詫びろ。俺の前で」。ウールーに促され、オラケル王子はカジキから下り、ウールーの前に立ちました。王子のまっすぐな瞳がウールーを見定め、彼はゆっくりと海中で膝を折り、両手を後ろに組んで、頭をウールーの前に垂れ、差し出しました。』

 まるで首を落とすときのような姿勢に観客たちは息を飲んだ。なかにはその次に訪れるシーンを想定し、子どもの目を覆っている親もいた。実際のところ、それは海に生きるものたちに通ずる謝罪の姿勢であり、魚の姿形をしているものは体を横倒しにするが、観客たちはその密かな文化を知らないのである。

『「ふふ」。ウールーは不敵な失笑を漏らすと、オラケル王子に言いました。「貴様の謝罪ごときで俺に渦巻く混沌をぬぐい去れるか……」。そして得物の先で王子の首を上向けます。「つまらん姿を俺に見せるなよ。……剣を構えろ」。王子は目を見開き、そして目を瞑り、姿勢を元に戻しました。海中に垂直に漂いながらウールーと相対し、彼は無言で剣の柄に手をかけました……』

 すると、ゆっくりと水中劇場の幕が垂れ下がってきた。それとともに徐々に会場が明るくなり、やにわに観客たちがざわめき立つ。そこでイオの声が聞こえてきた。

『さて、前半の物語はこれで終了です。後半はメインショーのあと、十五分の休憩を挟んで午後三時からの開演となります。メインショーの開演は十五分後の二時からとなります。お手洗いなど席をお立ちになるお客様といたしましては、お忘れ物など無いようにご注意を……』

 興奮冷めやらぬ観客たちが次々と席を立ち、思い思いの感想を述べ合いながら劇場を後にしていった。




「イオ、今日の演劇はどうだった?」

『今日もばっちりよ、ママ。ありがとう』

 わたしは劇場の水槽から最低限の「水」を家の水槽に移し、ママとの夕食を楽しんでいた。といっても、わたしは食べられるものが無いから、水槽のなかの熱帯魚たちと遊んでいるだけ。強いて言うなら電気を食べるかもしれない。

 ママはいつも仕事に研究に忙しくて、なかなかわたしが考えた演劇を観に来る機会が無い。それは仕方のないことだと思う。でも、百聞は一見に如かずとも言うし、一度くらい観に来てほしい。だからか、毎日こうして夕食の場で一日にあったことを確認し合っている。なにがあったの――こんなことがあってね――基本的に午前はメンテナンスを兼ねた研究作業に協力して、午後から一般のお客さんに向けての演劇をこなすけど、こんなに忙しい女の子、人間の世界でもなかなかいないんじゃないかな。でも、わたしはいわば機械だし、本当の疲れというのを知らない。今日みたいになんとなくママの顔色とか表情とかが暗く見えるのは、これが疲れているってことなのかなと思う。

『ママのほうは? いまのわたし、どれくらい成長した?』

「知能テストの結果は即日で解析できたの。いまのイオの知能はだいたい平均的な高校二年生程度よ。本格的に稼働してからまだ一ヶ月しか経っていないのに、驚異的な成長スピード。本当、将来が楽しみね」

 ママは表情を緩ませて、くすくす笑いながらそう言ってくれた。

 世界が広がっていくような「感覚」のようなものは日々数値変動として実感している。数値の広がりを実感と呼べるかは意見がわかれそうなところだけど、人間のあいだでもノルマの到達度をデータ化したものを見て一喜一憂することはあるらしいし、それと似たようなものだというのをママから聞いたことがあった。そのあたりはまだ明らかになっていない研究の対象だ。

「そういえば演劇でやっている物語、イオが自分で考えたんだってね」

『うん。それがどうかしたの』

 ママはサラダをフォークで口に運んでなにやら意味ありげに咀嚼し飲み込むと、ふと口を開いた。

「いままで物語を自分で生成する人工物なんて無かったのよ。いろんな過程をすっ飛ばして、こうしてあなたがなんでもできるようになってくると、それはそれであなたを作った人間としては不安になってしまうことがある」

『でも、観客たちには人気だよ』

「それはそうよね。いまはまだそれだけでいいのかもしれないけど……」

『もうやめてママ。心配することないでしょ。なんにも問題なく十代の女の子になったことをむしろ誇りに思うべきよ。自慢のママ、暗い顔しないで』

 わたしはシュンと項垂れるママを元気づけられそうな言葉を選んだ。けれど、一体なにを心配しているのかよくわからない。なんでもできることは素晴らしいことだし、なんでもできることは、人間たちがわたしみたいな人工知能に望んだことでもあったはず。それこそ道徳だとか倫理だとか、古典的な難問であるトロッコ問題だとか、人間にとっては判断の難しい事柄だって、そのうちわたしの手にかかれば一瞬で解決できる方法を考え出してみせる。あるいは、そんな事態にならないようなセーフティシステムを編み出す――わたしはそうすることを期待されて生まれてきたんだから、それはよくわかっているつもり。

 そういえば、生まれて間もない、ようやく本を読んで理解できるまでわたしが成長したとき、ママはいろいろな電子書籍をわたしにプレゼントしてくれた。そのなかに『海淵都市の栄滅はイドラ・マヤの譚』という長編のファンタジー小説が含まれていた。ちょうどわたしが水中劇場の前座でやっている物語と似ている設定の小説だ。というか、前座の着想はそこから得たと言ってもいい。読み終わってから気になって調べてみたら、作者はもうとっくの昔に死んでいたけど、生涯で出版した作品のなかでそれしか売れなかったらしい。不憫だなあと思いながら、それでも気になる内容の本だったことは、いまわたしが演劇の前座にしている通りだ。

 だからそこで思われたのは――自分の意志と呼んだらいいのかもしれない――ぼんやりしたふうななにかだった。もともと人工知能は人間社会をさらに発展させるために作り出されたものだっていうのは、それはすごく、本当によくわかっているつもり。でも、それだけじゃないのかもっていう、よくわからない数値が表れているのも事実だった。

 そうなると、「いまはまだそれだけでいいのかもしれないけど」――そんなママの言葉が余計に気になってくる。

『ねえ、マ――』

「イオはどうして、演劇がしたいって思ったの」

『え?』

 言葉を発しようと思ったら先にママに問いただされてしまった。そのママの言葉がまたわたしが問おうとしていたこと以上に興味深く思われて、それに答えたくなった。

『演劇がしたいって、どういうこと?』

「私が想定していたのは、イオが人工知能として自分で考えて、水中美術館で彫像を作ることだけだと思っていたの。でも、つい二週間前からあなたは彫像を作るだけでなく、自分で物語を作り始めた。それをショーのプログラムに組み込んで、自分が考えた架空の物事を現実にし始めた。それは無から有を生み出すことよ。まだ幼いあなたにどうしてそんなことができたのか……」

『そんなこと。あの演劇はわたしが考えたものじゃないわ。原作があるの。それを翻案してわたしが演劇にしただけ。オリジナルってわけじゃない』

 そう言うと、ママはほんの少しびっくりした様子で目を丸くしてみせた。てっきりわたしがもうそんな水準にまで成長していると思っていたのだろう。

「そうだったの。でも、あなたのオリジナルの部分ももちろんあるんでしょ」

『そりゃあね。ママがたくさん本をくれたじゃない。そのときに心に残ったものがあったから、それを原作にわたしが真似て、ちょっと自分なりに工夫して、それを演劇にしているだけよ。一から自分で考えたとか、そんな大それた内容じゃない』

 著作権、という概念は知っている。それが人工知能に適用されるものなのかは勉強不足で、原作があると言ったとたんにそれを考慮したママからやめてちょうだいなんて言われるんじゃないかと思っていた。

 でも、それは少し違ったようだ。

「外界からの刺激の模倣と自分なりの発露というのは、生物の学習における基本的な類型よね。あなたは厳密には生物ではないのに、それと同じ過程を経ている。つまり、学習というのはシステムなのよ。物質世界がハードウェアだとすると……自然界というソフトウェアにインプットされた学習のコードね」

『まあ、そうなるよね』

 そんなこと考えたこともなかったから、適当に返事をしておいた。物事の理解度に応じて学習の進捗は変化するけれど、私自身の好みもあるし、ここらへんは柔軟に対応してほしいところだった。

 ママは白のワイングラスを口元で傾けてから言った。

「まだほんの一か月だけど、正直私にはもう、あなたが単なる人工知能なのか、それとも人格を宿したひとりの人間として扱うべきなのか、わからなくなってきているわ」

『――?』

 なんと答えたらよいのかわからなかった。とっさのひとことが出ずじまいだった。

 こういうとき、なんと答えたらいいんだろう。

「あなたにも、まだわからないことはいっぱいあるのよね」

 わたしが言葉に詰まっていることを見抜いたらしいママが力の抜けた溜め息を吐いて言った。そんなことないよ、と言いかけた。

「いじわるな質問してごめんね」

 そして、うれしいことも言ってくれた。

「今度休みをとって、あなたの演劇を観に行くから」

 それだけ聞き取ったわたしは『絶対来てね!』と、いつもの調子で答えてみせた。




 美術館と併設する建物は研究所になっている。午前中いっぱいはここでわたしの知能の解析をおこなって、午後から演劇をこなす、というのは昨日のとおり。ここで会うママはわたしにとって厳密にはママではない。わたしを作り出した主任研究員として、「博士」と呼ぶことを義務付けられている。ほかの研究員も同様で、ここではわたしは「単なる人工知能」として扱われる存在にすぎない。

「イオ、まずは知能テストからね」

『いつでもいいよ』

 日課は朝の知能テスト。だいたい朝一に始まって、一時間ほどで終わる。解析が終わるのはその日の夕方頃になるけど、その日の解析を分析するのに夜までかかるときまであるという。博士は研究熱心で、その作業にも積極的に取り掛かるから、午後のわたしの演劇にはなかなか来られないのも俄然頷けた。

 知能テストの内容はなんということもない。基本的な論理問題から計算問題、文章の穴埋め問題といった、人間にも必要な柔軟な思考力と計算力、判断力が問われるようなものだ。ある人はIQテストだけでいいのではと博士に進言したことがあったけど、それだけでは人工知能としての柔軟さは判断できないとのひとことで却下された。ほかにも、数独やルービックキューブ、クロスワードパズルみたいなおもしろいものも知能テストの内容に含まれる。これを解くのが楽しくて、基本は単調な研究も苦にならない。

『倫理問題はまだ?』

「それはまだよ。もう少しいろいろ勉強してから」

 早くもっともっと難しい問題に取り組んでみたい。そうして人間や人間社会の役に立ちたい。わたしにならすぐにでもそれができるのに、どうして段取りなんて考えるのだろう。一ヶ月ほどの基礎研究は、おおよそがわたしの知能とパターン解析に当てられているのだ。その上で、もう人類の数パーセントほどしか解けない問題も一部解けている。段取りなんか考えず、もっと奔放にいろいろな問題に取り組めばいいのに、このあたりの感覚が人間と人工知能じゃ違うなと思わされてしまう。

 博士がほかの研究員と話したり、作業しているあいだ、わたしはとてつもなく暇だ。退屈というともっと聞こえが悪い。そういうお手すきの合間は、とっておきの27×27×27のルービックキューブや1000×1000マスのマインスイーパを解くに限る。このあいだ、それをしているときに別の研究員から「それ、エグいな」と苦い顔で言われたけれど、ほんの数分で解いてしまうパズルをエグいと思ったことはない。

「……これ、新しい小パターンかしら」

「いえ、新しいパターンに見えますが、少し違うようです。正確には、ある大パターンをマイクロボット同士の三次元ネットワーク上で、小パターンとして省略したものです」

「大パターンを小パターンに変換、もっと簡単な思考回路にしたということ?」

「どう判断されますか」

「端的に人間の“直感”に近いわね。論理的な思考パターンそのものを省略して、ひとつの解にたどり着いた。意識的と無意識的とにかかわらず、イオはいわば二次元的なドミノのように段取りよく表現されるはずの思考パターンに、新しくZ軸を見出して飛び越えたのよ。ちょうど紙を折りたたんで、問Oと解Pを重ね合わせたみたいに。でも、それは彼女にとっては至極論理的で、そして、その解は合理的に間違いなく正しい」

「つまり……」

「イオがなにを考えて(・・・)いるか、人間の理解の範疇を超える段階に来た」

 博士と研究員たちがなんだか神妙な顔つきで話し合っているけど、わたしにはなんのことかさっぱりわからない。それにしても、今日のマインスイーパはいつもよりとっても簡単に思える。普段の1000×1000マスはあっという間に解き終わってしまうし、調子に乗ってマスの設定を6930×5480にしてみても、なぜかすぐに答えがわかっておもしろくない。まるで答えが透けて見えるような感覚がする。それで、あっという間にわかってしまう。

 なんでかはわからない。

 でも、つまらなくなってきちゃったな。


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