惑溺 前
書き下ろしパートです。
ああ、忙しい。
息もできないくらい。
大学に入って約半年が過ぎたけれど、毎日はほんとうに目まぐるしくて、気がつけばベッドに身を投げ出していることもざらだ。
毛布のなかで目をつむると、その日あったことや見たことがざーっといっぺんに流れていって、それがなんだかとっても遠くにあるみたい。そのときはじめて私はまた一日を生きたんだなと実感する。そのときだけしか私の時間はないような心地で。
浅い浅い眠りのなかで、よく私は夢を見ている。いろいろな男のひとが私を外に連れ出してくれる。お伽話のような世界。もうそんなあこがれを抱く歳でもないのに。
学生は遊び放題と言うけれど、全然そんなことなんてない。出席、サークル、バイト、恋。全部ひっくるめて学生の仕事という感じがする。そして私の身体は否応なくそんな生活を受け入れるためのものに変わっていく。
「ふぁぁ~……っ」
二限の講義を終え、私は濃く色づいた銀杏並木のベンチに座って、生協の購買で調達したクリーム入りメロンパンをかじっていた。
「食べながらあくびをするなんて、梨沙っちはほんと器用だな」
「げ……秋斗」
「げ、ってなんだよ。俺、邪魔か? ちょっと傷つくんだけど」
と言いながらも、秋斗は私の隣に腰を下ろして、すぐさまゴールデンバットに火をつけている。
赤いメッシュを入れた髪。
細身に似合わず、鍛えてある身体。
彼はいちおう私の恋人ということになるのかもしれない。
わからない。
元はサークルの先輩だけれど、新歓コンパでなんとなく親しくなって、その日のうちにこの人に抱かれた。
お酒もキスもはじめてだった。
それ以降、秋斗はしばしば私を求める。
この前は私が所属する法学部の大講義室の中で。
「今日の飲み会来る?」
「あー……ごめん。今日もお店の手伝いがあって」
「そっか。いろいろ大変だな、飲食店の一人娘っていうのは。でも梨沙っちのそういうところ、俺はマジで尊敬してるよ。きっちりしてるっていうかさ、やるべきことはちゃんとやってる。なんだかんだで前期フル単だろ? すげえよほんと。俺は遊んでばっかだからなあ、女子ってやっぱさすがだなあと思うわけだわ」
「私だって、たまには羽目を外したいときもあるけれど……」
私の脳裡に、夜の秋斗の姿が浮かんだ。
秋斗はいつも乱暴にする。
私を動物のように扱う。
これが男なんだと、私は感じた。
「三限空いてる? どっかでしゃべらない?」
「ごめん、授業で……」
「ああ、じゃあいいや。俺もう行くわ」
秋斗は一気に興味をなくしたみたいに煙草を捨てて立ち上がった。
私はこの人が他にもいろんな子に手を出していることを知っている。
自分のことしか考えていないんだと思う。
私も同じかもしれない。
ただ私には羽目を外す勇気がないから。
安全な道を選んでいるだけ。
「また今度な」
と言って、秋斗は立ち去る前に、私の唇へ舌をねじこんできた。
それで私がどんな気持ちになるか知っててそうしてくるんだ。
心がとろとろにかきまわされてしまうことを知ってて。
肉体の悪魔みたいに。
「ひどいよ秋斗……そんなの……」
それ以上、私は言えない。
天利梨沙は、こんなことで自分に負けるような女ではない。
私は私にとって恥のないように生きなきゃいけない。
そうやって、自分に言い聞かせるのが精いっぱいだった。
考えてはいけない。
考えていては、置き去りにされてしまう。
どうしようもない何かから。
「……ただいま」
くたびれた身体で「アマリリス」の出入口から家に帰ると、カランコロンと鈴の鳴る聞き慣れた音が私を出迎える。今は昼と夜の間の準備どきで、マホガニーのテーブルにお客さんの姿はない。スパイスの香りがぷんぷん漂ってくる厨房から、腕まくりをした父がカウンター越しに私を一瞥して、おかえりと声をかけてくれた。
私は裏手を通って二階の居室へ行き、かばんを置いて手洗いとうがいをすませ、軽く化粧を直してからまた「アマリリス」へ戻る。学校の課題は講義中にすべてやっておいた。だからもう部屋ですることはない。夜まで仕事だ。頭はもうスイッチが切り替わっている。
「学校はどう? 慣れた? 楽しい?」
と父が出し抜けに訊いてきた。
「あーうん、思ってたのとはちょっと違う感じ。教員免許とかすごく面倒だし……だけど、楽しいこともあるよ」
「そうか。……おまえはおまえのやりたいことを見つければいい。父さんは大学に行けなかったからこの道に進むしかなかったが、おまえには未来があるんだからな。そのほうがきっと、母さんもよろこぶよ」
「何言ってんの。パパの料理は一級品じゃん。絶対天職だと思うよ」
「そういう話をしているんじゃない」
「何? ちょっと照れてんの?」
すると父は朴訥にも頬を掻き、スープの味見作業に戻るのだった。
自分の店を持つことが父の悲願だったようだ。
私の名をもじって創業したというこの「アマリリス」のことを、私は娘として誇りに思う。アンティークで統一されたこの店内も、天井から流れてくるこのしっとりとしたジャズも、料理も私の趣味に合う。ぶっちゃけ私は父が好きなのかもしれない。
調理全般を父が担当するとして、私がやるべきことは接客やレジ打ちのほか、従業員のスケジュール管理や簡単な経理業務にまで及ぶ。そのために簿記の資格をとった。生活面で不器用な父のことは私が支えてやらねばならない。この家業を継ぐかどうかはわからないし、父も強制はしていないけれど、とりあえずできるだけのことはするつもりだ。
学生になり、父・天利登志彦は私にちゃんとした賃金を払ってくれるようになったが、子どものころから店の手伝いをさせられてきた私にとっては、自宅と仕事場が一続きになっていることについて、特に何も思うところはない。店は家の一部で、家は店の一部。それだけだ。母親がいないことで境界線はより曖昧になっているが、一連の流れはルーチン化されてあって、私に考える隙を与えない。実際そうすることが私にとっていちばん楽だった。
しかし、さすがに忙しくて手の回らないときもある。
「え……、夢野くん、今日も休みなの?」
シフト表と照らし合わせながら確認をとる。寸胴の前で、父はエプロンを巻いた腰に手をあて、柔和な顔つきにたくわえた顎髭をさすりながら鷹揚に頷いた。
「うん、どうも風邪をこじらせたみたいでね。身体は弱そうだし、やっぱり季節の変わり目だからだからだろう。梨沙も気をつけたほうがいい。丈夫なほうだからといって、油断してはいけないよ」
私はその場で舌打ちをしたい気持ちを一心にこらえる。またあいつか、と思わないでもなかった。いったいどれだけ迷惑をかけたら気が済むのだろう。私は決して世話好きなほうではないから、彼の惰弱な態度にはいささか辟易しているところだ。まったく、少しは他人の気にもなってほしい。
私は他の学生バイトやパートの主婦に電話をかけて、交替のシフトに出てもらえないかと電話をかけて回った。だがあいにくみんな忙しく、なかなかうんと言ってくれない。私も気持ちはわかるから、実はこういう仕事がいちばんきつかったりする。
「どうしよう、パパ……」
「いいよいいよ。今日の予約は団体一組だけだし、気合いでなんとかなるさ」
そう言って父は力強く胸を叩いてみせた。
やっぱり威厳があるというか、頼りになる。
どこかのサボリ犯とは大違いだ。
私も気合いを入れるために、ポニーテールを結び直す。
十八時半にやってきた団体様は、好きなだけ飲み食いをし、好きなだけ騒ぎ散らして帰っていった。そのころには二十一時を過ぎ、私たちはもうへとへとになって後片付けをしていた。
そんなときにカランと店のベルが鳴り、紳士ふうの若い一人の男性客がやってくる。
「まだ開いていますか?」
「あ、すいません、今日はもう――」
おしまいなんです、と言いかけて、思わず私は息を呑んだ。
あまりにもその人の容貌が、夢で見る美青年にそっくりだったから。
「ああ、簡単なものだったら出せるよ。こっちも商売やってる手前、腹を空かしたお客さんを無下に帰すことなんてできないからね。ま、どこか適当に座ってくださいよ」
父が後ろからにこにこしながら口を出していた。
「それでは失礼。お察しの通り、もう空腹で死にそうなんです。いやあ助かった。ここは実に感じのよい店ですね。空間が調和していて、光の加減も丁度いい。そしてなにより、店員さんがきれいだ」
「き、きれいだなんて……」
頬がぼっと燃え上がるように熱くなるのを感じた。いけないいけない、私ったら、お客さん相手に何をこんなに。
「――ご注文が、お決まりになりましたら、お呼びください」
定型文を口に出してなんとか気持ちを立て直す。男の人はうなずいて、メニューに目を通しはじめた。他のお客さんはもういないので、私はその人から近からず遠からずの位置に立ちつくし、ちらちらと窺っている。
……すごく、かっこいい。精悍で利発そうな顔立ちと、均整の取れたしなやかな身体。何をしている人なんだろう。どこに住んでいるんだろう。
接客にあるまじき目線でそんな青年を眺めていると、やがて彼が手招きして私を呼んだ。
「なにかおすすめなどはありませんか?」
甘いマスクにミステリアスな微笑をたずさえ、まじまじと目を見つめながら訊ねられる。私はぐっと自分をおさえて、メニューをめくりながら話した。
「おすすめ……ですか。えっと、当店の定番料理は、こちらのバターライスとオムライスとなっておりますが……」
すると思わぬことに、唐突に彼が私の指を握ってきた。
はっとして目を向けると、視線がそこでぶつかる。
彼は悪ぶれもない調子で言った。
「君はどっちが好き?」
「えっ……?」
「バターライスは能動、オムライスは受動。君の心はどうかな?」
「こ……困ります」
私はテーブルの上で手を握られたまま軽い眩暈を感じてしまった。誰もが引いてしまうようないかにも臭い言葉だけれど、目の前の美青年から言われると、どきどきしてしまうのはなぜかしら。
今までも何回かお客さんから、こういうからかい文句や告白まがいの手紙を受けたことならあるけれど、ほとんど無視してきた。
だって、私には一ノ瀬秋人という人がいるから。
でも、あの人は最近私に対して冷たいし、いろんな子にもちょっかい出してる。
それにくらべて、この人の眩惑的な魅力はなにかしら。
まるで、私の心をすみずみまで浸してくれる海みたい。
名前も知らないその青年が帰るまでのあいだ、私はずっとそんなことを考えていた。
席を立ったあとのオムライスの皿を片づけようとしていると、そこに残されていたメモ書きにふと目がとまる。
――真夜中の零時、お店の前でまた会いましょう。
まるで怪盗の犯行予告みたいな文面で、そう書いてあった。
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