人間的な、あまりに人間的な
「僕の望みを叶えてくれるんだよな?」
「そのつもりだ」
「言うことを聞く?」
「主人の命とあらば」
「なんでも?」
「私の力が及ぶ限りは」
「一生?」
「一生」
「言質取ったからな」
「…………」
以前に比べて希死念慮は後退していたが、かと言って完全に払拭されたわけでもなく、かつて大きな塊として発作のように襲ってきたあの衝動は、今ではうすく延ばされて生活のすみずみに染み渡り、慢性的な気怠さとして現れるようになっていた。
そんな時に手を差し伸べてきたのが天使ではなくよりにもよって悪魔だったというのはいかにも神様の皮肉が効いているように思える。確かにその方が僕にとってはお似合いだろう。やってやろうじゃないかという気持ちと、なるようになるだろうという気持ちが半々だ。
ドロルフィニスとの「契約」。
それは慎重に熟慮を重ねた上での決断だったとは言いがたかった。
むしろ終始慌ただしく、あれよあれよと言う間にあっさり話が進んでしまったように思う。
悪魔という存在や、魔力、それに魂の実在性などについて多くのことを僕はまだ知らなかった。だから振り返って考えてみれば、それはいかにも愚かで軽率な行動だったと言わざるを得ない。本当はもっと警戒するべきだったのだろう。
その反面、衝撃的な彼女との出会いは僕の心を揺さぶるのに十分なパワーとスピードとを兼ね備えていたし、いかなる経験則や先入観も彼女の前には所詮無力だった、あの型破りな言動の数々を前にしてもまだ落ち着き払った現実主義者を続けていられるほどには、僕の精神も強くなかったということなのだろう、半信半疑で子どものお遊びに付き合っているつもりが、いつの間にか真剣になり、そのままずるずると、引き込まれていったわけだ。
多少の不満はあるとしても、決して後悔しているわけではない。それどころかささやかな満足すら覚えているのは、たとえ過程がどうであれ、最終的に契約に合意したのは僕の意思だからだ。
もちろん僕にとっての利益を見込んでのこと。
ドロルフィニスが僕に提供すると約束した「そう悪くない人生」。それがどんな形をしているのか興味がないわけではない。むろん完全に鵜呑みにしているわけではないが、少なくとも彼女が僕の人生に転機をもたらしたことは事実と言える。灰色の日常が鮮やかな色彩を取り戻すがごとく、世界のなかの可能性が息を吹き返していくように感じられた。
たとえば魔力の存在は、もし彼女と出会っていなければおそらく一生知らないまま人生を終えていたことだろうし、それはすごく勿体ないことのように思う。おそらく悪魔と魔力の関係とは、切っても切り離せないものであると同時にそれぞれ独立している。生きていくうちにこういうものの原理が次第にはっきりしてくるのなら、少なくとも死ぬまでの退屈しのぎにはなるかもしれない。
結局のところ、大人たちが好んで使うところの「事の成り行き」という表現がこの展開を一番よく言い表しているのではないか。関係というものはとても厄介だ。それは時として、抗うことのできない大きな力の奔流に飲み込まれてしまうことがある。
男女の場合には、特に。
「……お前、本当に僕の眷属になったんだよな」
「うむ、契約が成立した以上はな」
「にしては随分態度がでかいような気がするんだけれど」
ドロルフィニスはベッドに身を投げ出して相変わらずくつろいでいる様子。
「私はお前に力を貸すことは約束したが、媚びへつらうと決めたわけではないからな」
「そうなのか……」
「私に平伏を望むか?」
碧の双眸が僕を見つめる。
「いや、……もういいよ、そのままで」
もはや彼女が敬語を使うところを想像できなかったのだ。
「ふふふ、長い付き合いになるのだから、お互い自然体の方がよかろう?」
「その理屈はおかしいけどな」
こうして契約は成立し、僕らは主従関係を持つに至るが、昨日までの時点でいったい誰がこうなることを予期できたであろうか。今やたった一人の少女によって、僕の生きる世界はがらりと変わってしまったことになる。
魂を差し出すということは、これもひっそりとした自傷行為にあたるのだろうか。
それでも不思議と抵抗は少なかった。
彼女の言った通り、本心ではやはり破滅を望んでいたのかもしれない。
――僕にとっての「救済」はとりもなおさず「死」だ。
だが僕が夭折することがあればきっとこいつは喜ぶだろう。
それはつまらなかった。
生前の僕に忠誠を誓わせた以上、それを無駄にして終わるのでは意味がない。せっかく都合のいい召使を得たのだから、せいぜいこき使ってやろうと思う。死後の魂が拘束されるというのは気味が悪いが、逆に言えばそれだけだ。ドロルフィニスとの契約は、初めからそれ自体が一つの賭けではあったし、勝ち負けがわかるのはまだずっと先のことだった。
僕は思案する。
「まずは、そうだな……やっぱりお金だな。話はそれからだ」
「金……通貨か」
「そう。とりあえず僕を金持ちにしてくれ」
「ふむ、わかった」
銀髪娘のドロルフィニスには黒のタイツがよく似合う。
……それにしても、下着類までコンビニに売っていたとは。
駄目元のつもりだったのだが、やはりコンビニは偉大だったということだろう、僕は夜のコンビニに最大級の感謝を捧げつつ、女性用のキャミソールやショーツ、タイツなどを購入していた。というのは、色々とギリギリの格好で部屋の中をうろつき回るドロルフィニスに対して僕の方が耐えられなかったのである。
レジを担当したのが女店員でさえなければ完璧だった――バーコードを読み取る店員の手は心なしか震えており、眉をひそめながら何度も顔を確認してくるその目は、明らかに不審人物に対するそれだった。
しかしこうして払われた僕の尊い犠牲のおかげで、ドロルフィニスはさしあたり女の子としての文化的最低限度の衣服を手に入れたわけだ。もっとも彼女自身はそれらの着用に乗り気ではなかったのだが。
「――では、行ってくる」
「どこ行く気だ?」
「適当に町でも襲って、お金を集めてくる」
「ちょっと待て」
黒い翼を生やして窓から出て行こうとするドロルフィニスの襟首をぐわしと掴んで止める。
「ご主人、なぜ邪魔をする?」
「頼むから、騒ぎになるようなことだけはするな」
「腕を離せ」
「ならその翼をしまえ」
彼女は渋々従った。
とりあえず、座らせる。
「あのな、もしあのまま出て行って間抜けに強盗でも働いてみろ、絶対にただ事じゃ済まされないぞ。逮捕でもされたらどうするつもりだ」
「私は捕まらない」
きっぱりと言い放った。あたかも自信満々で。ただの強がり、のようには見えなかった。
こいつは、自分の能力を本当に信じているのだ。
交番に預けようとしたことがまったくの無意味に終わったこともまだ記憶に新しく、そのこともあってか、言動に奇妙な説得力がともなっている。
しかし万が一こいつが何か勝手にへまをやらかせば、火の粉が僕に降ってくる可能性は高い。重要参考人……いや、教唆犯か? そうなればどうなる。こいつがいればあるいはそれも切り抜けられるのかもしれないが、リスクは小さいに越したことがない。今はまだ、ほとんど暗中模索なのだから。
「……捕まらなければいいってわけでもないだろ。やっていいことと悪いことを考えろよ」
「善いことと悪いこと? そんなもの、誰が決めたのだ?」
「決めるまでもなく、当たり前の事だ」
「くだらん。人間の価値観だ」
「そりゃあ人間の社会だからな。法律が正義を代弁してる。法治国家っていうのはそういうものだ」
「国家……倒せるだろうか」
馬鹿かこいつは。
「お前にだって善悪の基準ぐらいあるんじゃないのか?」
「私にとっては」彼女は立ち上がって言った。「目標の達成、願いの成就。それだけが唯一の正義だ。その過程において優劣こそあれ、善も悪も存在はしない」
僕は軽い眩暈を感じて、机の椅子に腰掛ける。
「……無茶苦茶だ、飛躍しすぎてる。僕には理解できない」
ドロルフィニスが苦笑する。
「ご主人は頭が固すぎるのだ。だが今にわかる。私と契約した以上、ご主人はもうこちら側に加担しているのだからな」
「それは……違う」
「違わないさ。お前はもう〝普通の人間〟には戻れない。私の力を使いこなすには、人間の倫理は狭すぎるぞ」
堕落への誘いだ。僕を試しているんだ。
「……お前はやり方が極端過ぎるんだよ」
僕は決然と言い放つ。
「いいか、決して騒ぎを起こすな。これは主としての命令だ。僕に従うことが悪魔の倫理なんだろう?」
倫理……などと言いながらも、僕が考えているのは全然別のことだった。
もっと単純で卑俗な原理が、僕を或る一線で踏みとどまらせている。
つまり、怖いだけ。
罪名が怖い。
人の恨みが怖い。
疑いの視線が怖い。
そして何よりも、自分が自分でなくなることが一番怖かった。
自分のなかでもっとも強い欲求があるとすれば、それは自己保身の欲求だ。倫理というのは孔雀が自分の姿を大きく見せるために羽に付ける飾りのことだと僕は思う。もっとも、悪魔にとっては力の実現こそが倫理なのだろうが。
結局僕は臆病で、こいつのことを全然まだ信用してはいないのだ。
「……わかった」
彼女はどうにか不満を飲みこんでくれたようだった。
「あと、人前で無闇に翼を広げるのも禁止だ。お前は目立ち過ぎるんだよ」
これについては意外とすんなり了承を得た。というよりも彼女自身、本来は陰に隠れて生きるべき存在であることを自覚していたようであり。
「だったらなんで最初からそうしなかったんだよ」
「……私も少し浮かれていたのかもしれないな」
彼女はそう言って、きまりが悪そうに頬を掻く。
時折見せる、ドロルフィニスのこうした年相応の仕草に僕はどきりとさせられることがある。もちろん面には出せないし、僕の好みは梨咲さんのような年上の女性なのだが。……しかしそんなことは今はどうでもいい。
「話は戻るけど、もっと平和的にお金を増やす方法はないのか?」
「うーむ、平和的、か……」
彼女は腕を組んで考え込んでいたが、やがてポンと手を打って、
「わかった」
と言った。
「何がわかったんだ?」
「はろーわーく」
僕は椅子から転げ落ちた。
「お、お前、何言ってんだ……ていうかなんでそんな名前知ってるんだよ」
昨日までシャワーすら一人で浴びられなかっただろうが。
「お前の精神と接触した際に幾らか情報が流れ込んできてな、このあたりの実情が少し掴めたのだ」
ドロルフィニスは今にも玄関先から出て行こうとしていた。
「おい、待て、戻ってこい」
「なんだ?」
振り向いた彼女に、忠告を与える。
「ハローワークは駄目だ」
「なぜだ? 平和的に金を増やせと言ったのはご主人、お前の方だぞ」
彼女の理解はなんだかあやふやのように思えた。
「ハロワに金はない。あそこはな、仕事を探すところだ」
「しかし仕事は金になる」
「仕事ってのは余所で働くってことだぞ、わかってるのか?」
「うむ」
うむじゃねえよ。
「……今のご時勢じゃ、ハロワに通っても職が見つからない人だって多いんだ。ましてやお前のような子どもにはなおさら無理だ。そもそも門戸が開いてすらいない。社会をなめるな。社会はな、厳しいんだ」
すると彼女はむうっと頬を膨らませて、抗議の声を張り上げながら駆け寄ってくる。
「また私を子ども扱いしたな? 貴様などよりも私の方が、余程長く生きているのだぞ?」
「実際に子どもにしか見えないんだから仕方ないだろ」
「子ども子どもと言いよって……!」
どうやら彼女は、「子ども」という単語にかなりの憎しみを抱いているようだった。
しかし悲しいかな、肘を張り、拳を握りしめ、顔を真っ赤にして怒るその姿は、まさしく子どものそれだったのだ。
「ごめんごめん、悪かったよ、ドロルフィニス」
「…………~~~~~っ!」
一瞬、彼女の全身がびくりと震え、それからなぜか、背中から黒い翼がぼんっと飛び出してきた。その表情はにわかに強張り、何かを言おうとして口を開くものの、言葉が出てこず、無言でぱくぱくとさせている。何かを我慢しているようにも見えた。
このように取り乱した彼女の姿を見るのはこれが初めてではなかったが、さすがに変ではあるまいか。
「もしかして、自分の名前を呼ばれるのが嫌いなの?」と訊いてみる。
「……いや、赤の他人ならいざ知らず、他ならぬわが主からの言問いならば、決して嫌だというわけでは……ただ……」
「ただ?」
彼女の色白の顔は耳まで真っ赤に染まっていて。
「……慣れんのだ。急に真名を口に出されると、いきなり精神を鷲掴みにされるというか、その場に釘付けにされる感覚というか、私の矜持が……深奥が……」
「要するに恥ずかしいと?」
「……否定はせん」
観念的な性感帯でもあるのだろうか……。
笑いを必死にこらえていることが見抜かれたのか、ドロルフィニスは涙を溜めた目で精一杯に僕を睨みつける。しかしそのまなざしすらも、今の僕にとっては彼女の新しい一面を演出するための小道具に過ぎなかった。女の子からの敵意の視線を心地良いと感じたのは思わぬ体験だ。
「お前の弱点を一つ見つけた気分だよ」
「き、貴様……」
「まあまあ、落ち着けよ。いつまでそんな翼出してるつもりだ」
彼女は自分が翼を出していたことにすら気付いていなかったようだった。もしかすると何か奇怪な仕掛けがあり、強い興奮を感じると無意識裡に展開されてしまうような、そんな一つの身体的な反射なのかもしれない。
またよく見ると、彼女の翼は他の物理的構造物とは根本的に一線を画すような、ある性質を持ち合わせていることがわかった。というのは、その翼には、先刻彼女が僕に見せてくれた、ドロルフィニスの「固有魔力」なる力の在り方がそのまま宿っているのであり、その独特の圧力が、僕の「魔覚」をびりびりと刺激しているのである。となると、この着脱自在の黒い翼は、彼女の固有魔力と何らかの関係があると考えられる。
小さな反抗心からなのか、それとも制御が難しくなっているのか、彼女はなかなか翼を畳もうとはせず、膝を崩してカーペットに座り込んだ。しかし部屋で大人しくしている分には別に実害があるわけではないので、それ以上は注意しない。おどろおどろしい蝙蝠のような翼は、初めて見た時には慄然とさせられたものだが、何度か目にするうちに次第に慣れてきて、それほど気にはならなくなっている。
むしろアタッチメントのようで愛くるしい。
「しかし名前を呼ぶ度にこうも過剰反応されると、ちょっとやりづらいんだよな」
「従来通り『お前』とでも『おい』とでも、……『悪魔』とでも呼べばよかろう」
「その方がいいのか?」
「それが普通だ」
彼女は少し投げ遣りな調子に言った。
下ろしたての黒いタイツに包まれたほっそりとした脚の細かな動きに注目しながら、僕は考える。
確かに僕らの会話はこれまで主に二人称を用いて行われてきた。雨雫が水面に落ちて波紋を形づくるように、自然発生的に起こる偶然の会話を繋ぐ分にはそれでよかった。ところが、そのようにして現れる共有された空間は、どこかがぐらついておぼつかない、不安定な基盤の上にしか成り立ちそうにない。
こうした限定的な会話の中ではドロルフィニスという個の存在は薄くおぼろげで、従者という対象の影に隠れてしまっている。二人称の関係はいつも単発的だ。僕がドロルフィニスを「お前」と呼び続ける限り、本質的に彼女と対話をすることはできないかもしれない。
そのことに今、気が付いた。
そうか、それでこいつは名前が重要だと言ったのか。ドロルフィニスのドロルフィニスたる由縁、存在の実存性、その根拠、それが名前だというのだ。彼女にとって、名前というのはそれほど価値のあるものなのだろう。
しかし、それならどうして動揺する? 名を呼ばれることになぜそこまで過敏になる? 自分の名前に誇りを持っているのであれば、むしろ堂々と名乗り出て然るべきなのではないか? 名前を認めることこそが、関係に依存しないドロルフィニスの確乎とした存在自体を、厳然たる姿としてそこに出現させる手段だというのに――
……いや、彼女はそれを恐れている?
「ご主人、何やら考え込んでいるようだが、どうしたのか?」
引き締まった脚の上を這いずり回っていた視線を上げると、ドロルフィニスの怪訝な顔があった。
なるほど……彼女は僕に名前によってその存在性を把捉されることに怯えているのかもしれない。関係の中にその座標を措定され、対象の影が振り払われた後の、丸裸の存在としての彼女自身の姿をさらけ出されることに対する、抵抗があるのかもしれない。それはまるで引き出しの中にそっとしまっている、秘密の宝物のように。
けれどもしそうであるなら、それを中和する方法を僕は知っていた。
「実はお前に愛称を与えようと思ってね」
「愛称、だと……?」
彼女が驚いたようにぽかんと口を開くなか、僕は人差し指でこめかみをコツコツと叩きながら再び思案を巡らせる。
愛称、あるいは変名と言った方がいいのかもしれないが、これは本当の名前を回避しつつ存在の同一性を確保する、一種のヴェールのようなものだ。その保護膜の上から触るのであれば、彼女の宝物にも傷を付けずに済むだろう――そう考えたわけだ。
「そうだなあ……単純だけど、省略して『ドロル』っていうのではどうだ?」
僕が「ドロル」と口に出した瞬間、彼女の目が大きく見開かれたので、やはりまずかったか、と反省しかけたが、ずばりと本名で呼び掛けた時ほどには、彼女の表情に異常な興奮は見られなかった。それはほとんど、初めて愛称で呼び掛けられた普通の女の子が見せるかもしれない、一般的な反応と何も変わらなかったのだ。そして彼女は、
「……少しむず痒いが、好きにしろ」
と言ったのだった。
僕は心の中で小さくガッツポーズを決める。
「それじゃあ、僕のことも『メグル』って呼んでくれていいから」
ドロルフィニスはごく稀にだが、僕の名前を口にすることがある。だが、その際には必ず「ユメノメグル」とフルネームで呼ばれることになり、しかもそのアクセントは僕が「ドロルフィニス」と呼ぶ言い方、すなわち「キハダマグロ」と言う時とまったく同じ抑揚で声に出されることがお決まりになっていた。おそらく日本人の名前の構造を理解していないのだと思われるが、いつ訂正しようかとずっと考えていたところだったのだ。したがって、この機を逃す手はなかった。
「ふむ、『メグル』だな、わかった」
彼女は僕を愛称で呼ぶことに対してはあまり抵抗がないようだった。
つまり、これにて一件落着、ということになりそうである。
……おや?
僕は彼女に問いかける。
「……ところで何の話をしてたんだっけ?」
すぐに返答があった。
「私を子ども扱いするなという話だ」
「ああ、そうか、僕を金持ちにするという話だったな」
「…………」
ていうか全然話が前に進んでいないじゃないか……。
「……お前はさっきハローワークに出掛けようとしてたんだっけな。……まあ確かにそれは僕の言った通り平和的な手段ではあるし、蓄財の手立てとしても間違ってるとは言わないよ。労働も金には換わるし、それが一番真っ当なやり方だからね。けどな、あまりに人間的過ぎるだろ、それは。そんなこと悪魔に頼まなくたって出来るんだよ。しかもたかが一人分の稼ぎが増えただけじゃ、少し暮らしが楽になる程度で、金持ちになったとは言えないだろ」
「だから町を襲えばいいと、先ほどから……」
「それは駄目っつってんだろ」
「むう、注文の多いやつだな」
「お前が暴走するからだろうが」
ああ、頭が痛い。
「しかし、それではまた振り出しに戻ってしまったようだな」
「頼むから、今度こそはしっかりしてくれよ……」
彼女はゆっくりと翼を動かしながらまた考え始めた。
「ううむ、こうなればもはやあれの手を借りるしか……」
「仲間がいるのか?」
「しょうひしゃきんゆう、といった輩が」
「殴られたいのか」
避けられた。
「何をする。危ないではないか」
「いい加減にしろよお前。何なんだよ悪魔って、無能かよ!」
「私は無能ではない!」
「やめろ! 散らかすな!」
ドロルが突然空中に飛び上がって風を巻き起こすので、畳んであった衣服やら机の上の本やらゴミ箱の中身やらがびゅんびゅんと部屋の中を飛び交い、せっかく片付けた部屋がみるみるうちに台無しになっていく。僕は足腰にしがみ付いたり、地面に引きずりおろしたりすることでなんとかして彼女を止めなければならなかった。
息を荒げながら、僕は彼女に言いつける。
「……お前に力があるのはわかったから、もう同じことは絶対にするなよ。絶対だぞ」
無駄な、破壊の力がな……。
「ふん」
「今度やったら、その耳元でお前の名前を五十回囁いてやるからな」
「そ、それは……!」
なるほど、悪魔というのはこうやって飼い馴らしていけばいいわけか。
彼女の顔色がさーっと青くなり、つんとした表情が一瞬にして変わってしまったので、僕は愉快だった。
「ところでだけど、今の風起こしも何か魔力を使ったんだろう? 魔術だか魔法だか知らないけど、その力を使って直接お金を増やしたりできないのか?」
「魔術をそのようなご都合主義の素敵マジックのように言われてもな……」
「魔術がご都合主義の素敵マジックじゃなかったら他に何になるんだよ」
そもそもこいつは、僕に奇蹟を売り込んできたんじゃないのか……。
「ほら」僕は長財布の中から一人の福沢諭吉を取り出す。「この壱万円札を札束に変えてみせたりとかさ、僕が言ってるのは、そういう夢のあることだよ」
「ふうむ、物体の複製か……」
諭吉を手渡された彼女は両手でそれを持ち、顔の前に掲げてしばらく寄り目がちに見つめていたが、やがて床に置くと、
「やってみよう」
と言った。
次の瞬間、ドロルフィニスのブルーの瞳に、突如、燃えるような紅の光が差した――気がした。それは迸る、彼女の固有魔力の色彩だったのだ。放出された魔力は風のように僕の胸をなぶりながら次第に一点へと集中していく。そうして生まれた白熱する炎の輝きが福沢諭吉を一瞬にして包み込み、また同時に、それとは別の地点にも同じような火柱が上がる。目を疑うような光景を前にして、息をするのも忘れているうちに、魔力の奔流はやがて収束に向かい、地面に吸いこまれるようにして消えていった。
数秒後には、部屋はまるで何事もなかったかのようにまた静けさを取り戻している。
――だが、変化は既に訪れていた。
「おおお!」
僕は歓喜の声を上げる。
「なんだ、やればできるじゃないか!」
「ふふふ」
真紅の瞳を輝かせながら胸を張り、得意気に笑みを浮かべるドロルフィニス。そしてその脇にあるのは、二枚の壱万円札。
――二枚、である。つまり一枚しかなかった万札から、もう一枚を新たに彼女が生み出したということになる。
「すごいなドロル! 見直したぞ」
札束でこそないが、それでもれっきとした複製である。つまりこのメソッドを続ける限り、僕は無限の不労所得を得ることができる――!
すばらしい! すばらし過ぎるぞドロルフィニス!
僕は最高の気分で諭吉を拾い上げる。
最高の気分は――終わった。
「……おい」
「なんだ? 褒美ならば貴様の生命力を少しばかり――」
「これ、透かしが入ってないじゃないか。しかも、なんで裏面が白紙なんだよ……」
すると彼女はきょとんとした表情で口を開く。
「なんだそれは? そんなものは見てないから知らんぞ」
「知らんって……お前……やるならちゃんと細部まで完全に再現しないと意味ないだろ……!」
目の前にあったのは、コンビニのコピー機で両面複写した方がまだ出来映えがいいと思われるような、万札もどきの紙切だったのである。
「完全再現と言われても、私が認識できる範囲でしかそもそも造型は不可能なのだが……」
するとその瞬間、僕が手に持っていた出来損ないのニセ札が、煙のように消えてしまった。
「うわっ! な、なんだ? 手品か?」
「消した」
「消した!? どうやって」
いつの間にか普段のマリンブルーに戻っているドロルの瞳に、口早に問いかける。
「物体といっても、あれは私の固有魔力の一部を昇華させて固化したものに過ぎんから、当然、私からの魔力供給が途絶えれば消失はするぞ」
おいおいおい、劣化コピー以下じゃないか!
「……じゃあ、永続的に存在する物質は作れないってことか?」
「出来んことはないが、厖大なエネルギーが必要になるから、この町一帯がただでは済まんが、それでもいいのか?」
僕は膝から崩れ落ちた。
「嘘だろ……お前のこと、本気で見直してたのに……見直しの見直しかよ……」
さすがに彼女も次第に負い目を感じてきたようで、たどたどしく僕の顔を覗き込んできた。
「ああ、ええとだな、その、術をかけてもよいのなら、億万長者の『夢』だけなら今すぐにでも叶えてやることもできんこともないが……」
「え、本当か?」
それを早く言えという話である。
「うむ、無論、主人の了承がなければ術は使えんわけだが」
「どんな術なんだ?」
「人間の欲望を例外なく満足させる、完璧な幸福空間の中で一生を過ごすことができる――そういう術だ」
言葉の聞こえだけは悪くなかった。
目を閉じて、彼女の言うそんな理想の世界へ、しばし夢想の翼をはばたかせてみる。
だが、夢想……。
「待った」
彼女の瞳がまたしても血の色に輝き始めたところで、虫の報せとでも言うべき胸のざわつきがより一層強さを増してくるのを感じて、思わず手で制止した。
「まさかとは思うが、死ぬまで幻術を掛け続けるとか、そういうオチではないよな?」
「…………」
その顔に浮かんでいるのはきまりの悪そうな苦笑だった。
「……もういい」
たとえこの世のありとあらゆる快楽が満たされる秘密の花園があるとしても、それらがすべて幻の中の出来事だとわかってしまえば、まったくもっての興醒めではないか。
そんなの、死んだ方がましだ。
目の前に立ち尽くしていたドロルの銀色の髪を腹いせにがしがしと撫でて、どぎつい視線を浴びながら、僕は椅子に座ってジュースの残りを飲み干した。
……もしや、既に万策尽きたのではないか?
いや、まだ方法はいくらでもあるはずだ。幸福になるための方法は、何か、必ずどこかに。
しかし一世一代の大博打には、早くも敗色濃厚の兆しが見え隠れしているのであった。
そのとき、僕の脳裡にふたつの顔が思い浮かぶ。
一人は、天利梨沙。バイト先の喫茶「アマリリス」の先輩にして、店主の一人娘。
そしてもう一人は、夢野慧。僕の兄にして、非の打ち所のない完璧超人。
僕はドロルに問い直した。
「おまえ、催眠術とかってできるんだよな?」