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覚醒

 ……何もない、真っ白な空間に浮かんでいる。

 いや、実際にはどこまでも無色透明だから白だと感じているだけかもしれない。色という種々の概念に分化する以前の段階と言った方がよさそうだ。自己という主体を除いた世界のすべてが透き通っていて、三六十度、視野を遮る物体は何一つ存在しない。だがそれゆえに、何を認識することもできないのである。


「巡……お前は……」

 不意に声が聞こえた。耳に馴染みのある、聞き慣れた声だ。振り返ると、遠くに兄らしき姿が確認できた。

 ところが彼もまた、色彩を欠いた存在だった。まるで後ろから強い光を当てられてでもいるかのように、彼の全身は黒く影に縁取られ、その影絵だけが、僕の網膜に映っている。

「慧兄さん!」

 駆け寄り、声を確かめようとする。だが、進めども進めども、僕の両脚は徒に空転を続けるだけで、彼との距離は少しも縮まらないのである。夜空に浮かぶ月のように、いつまでも彼に触れることはかなわなかった。

「お前は……どうして……」

 兄は何かを言おうとしているのだが、声が小さく遠いため、聞き取ることができない。

「それじゃ聞こえないよ。もっと、こっちに来てくれ」

 だが兄はゆっくりと首を横に振る。

「できない」

「兄さん……?」

 やがて影の姿が次第に小さくなりはじめ、とうとう単なる極小の黒点にしか見えなくなり、最後には消えてしまうのだった。

「待ってくれよ!」

 思わずまた走り出そうとしたのだったが、ちょうどそのとき、僕の身体は何者かによって、ふわりと後ろから抱きとめられる。不審に思いつつも、僕はおそるおそるその肉体を受け入れる。とても芳しい香りがしたのだった。

 背中にぴっとりと密着しているその身体には、淡いピンクの色があった。それは絹のようにやわらかく、極大に達した瑞々しい若さをその細部に至るまで宿している。同時に背中を通して伝わってくるのは、一糸纏わぬ肌の温もり。

 もちもちとした少女の感触のすべては、深い息づかいを統一する蠱惑的な力を有しており、いつしか僕は不安を忘れ、その深い安らぎの中に、自ら身を投じているのであった。

 いま、その白く細い指先が僕の上半身を優しく愛撫する。それは言いようのない快感を全身に駆け巡らせる刺激にほかならない。服の下、手が入り込み、僕の肉体にじかに触れている。少女の腕が肌をこすり、そのひとたびごとに、何か僕の中に熱いものがこみ上げてきて、火花を散らしながら今にも迸りそうになった。

 目を閉じる。

 されるがままに身を任せつつ、この無邪気な悪戯が永遠に続くことを願った。

 耳の裏に熱い吐息がかけられる。

 周到に囁かれる甘い声に僕はうっとり耳を傾けた。

「さあ、ひとつになろう」

「ひとつに…………」


 ――今ここで肉体に依存する生の形から脱却し、より大なる存在の一部として生まれ変わることができるとしたら……


 ぞっとするほど冷たい風が、肌を通り過ぎた気がした。

 咄嗟に目を開く。

 すると、世界を信じることができなくなっていた。

 すべてが反転する。

 白は黒へ、黒は白へ……。

 闇の中にどっぷりと浸かっている。

 味方はどこだ。

 少女の白い腕は……?

 そんなものは、初めから存在していなかったのだ。そこにあるのはただ、黒くくすんだ灰色の、名状し難き異形の骨格のみ。

 どこからともなく伸びてきた無数の腕によって僕は捕らえられていた。

 振りほどけない。

 もがけばもがくほど、さらに窮屈に締め上げられていくようだ。ただちに鉤爪によって腹部が切り裂かれ、闇が傷口から溢れ出した。それが放射状に僕の肉体から色を奪い去り、黒く変色させていく。抵抗は不可能だ。やがて声を出すこともできなくなる。引っ張られていく。飲み込まれる。無数の腕の中へ――



「…………っ!」

 気付けば全身にびっしょりと汗をかいていた。心臓は早鐘を打ち、息は上がっている。まるで海底から帰還した直後のような気分である。全身が酸素を求めてやまず、しばらくは乱暴な呼吸が続く。

 薄目を開けつつ目をこする。

 外の光が眩しい。既に太陽が昇り、日が差し込んできているようだ。

 一日のいちばん初めに見る風景。見慣れた白い天井。

 しかし、どこかが、何かがいつもとは決定的に違う気がする。

 まだぼんやりとした頭で、昨日のことを思い返す。

「……! そうだ、あいつは……」

 布団から飛び起きた途端、鈍い頭痛を感じる。自分の家なのにまるで他所から泊まりに来た客人のように、僕は部屋の中を見回していた。小さな不安に駆られながら。

 何か確乎とした手掛かりが、今すぐに欲しい。

 だが心配せずとも、証拠はちゃんとそこにあった。毛布にくるまって部屋の隅に座り込み、膝を抱えてじっとしている銀髪の少女。その姿にははっきりとした見覚えがあった。

 世界は滞りなく続いている。

 彼女が僕に気付いて顔を上げた。無垢で、天使のようなあどけない表情が、一瞬だけそこに宿る。

 だが実際は、おそらくそれとは最も遠い存在が、彼女であるのだった。

「目が覚めたか」

「ああ。……僕、気絶していたのか」

「身体に異常はないか?」

「頭がちょっとだけ痛いけど、まあ、平気だ。でも、いったい何が起きたのかさっぱりで」

 よっ、と、ベッドから降りて、ドロルフィニスと向かい合う。すると彼女はなぜか気まずそうに目を逸らすのだが。

「……すまなかった。私がしっかり説明しておくべきだったのだが、急ぐあまりに省略してしまって……いや、たいしたことになるとは思わなかったのだ。しかし、お前にここまで適性がなかったとは……」

「どういうことだ?」

「何と言えばよいやら……実は私もこういうのは初めてで……、そうだな、昨夜にもすこし話したが、契約というのは、精神や肉体を一時的に同調させて、お前と私との間に魔力による連絡経路を作るものなのだ。……しかし、修行によってマナを感得した魔術師や宗教家ならともかく、一般人の場合には魔力の受容体がそもそも閉じているから、まずはこれをこじ開けねばならんのだが、その際、肉体にいくらか負担が掛かるようで……まあそれでも、大抵の場合は軽い眩暈や頭痛などの症状に見舞われる程度なのだが、中には過度の防衛反応が働いてしまう者もいて、最悪の場合、そのまま死に至る可能性もあるらしく……」

「おいおい、そんな物騒な話を今まで黙ってたのかよ」

「……すまん、許してくれ」

 今ではあの傲岸不遜な態度は影を潜め、彼女は彼女なりに反省しているようだった。蒼い瞳にうっすらと涙を滲ませる様子は、本気で落ち込んでいるようにも見える。

 このあざとい悪魔めが……。

「まあ、いいよ。現にこうして生きてるみたいだし」

 それに、死ぬ時は死ぬ時で、別にそれでもよかった。

 そう思うと大抵のことは許せる気がする。

 その含みが伝わったのかどうかはわからないが、彼女の表情にも少しずつ昨日の調子が戻ってきた。


 ところで――と、僕はさっきから気になっていたことを尋ねてみる。

「なんかお前、いや、部屋の中全部か。何か変わってないか? なんとなく妙な感じがするんだ。こう、ざわざわするというか」

「それがマナだ」

 ドロルフィニスがすっくと立ち上がり、毛布を捨てる。

 そういえばこいつ、上の服しか着ていなかったのだった……。

 本当に尻から脚のきわどいラインなのだけれど。

 そのままベランダの方へ歩いていく彼女の後ろを、僕はこわごわとした心境でついていく。

「マナって、何なんだ?」

「マナは力の源だ」

 窓が開け放たれる。あまりあの格好のままベランダに出てほしくはなかったけれど、どうせ言っても聞かないだろうと思ったので放置して、僕はその手前で見守っていることにしたのだが。

 窓から外の景色に意識を向けた瞬間、例の違和感はより顕著になった。

 色のない色のような、形のない形のような、あるいは音や、匂いや、光のような、しかもそのいずれでもない何かが、大気の中をうねりながら満たしているのがわかる。――完全に五感を超越していて、見えると言っても聞こえるとも言っても正確ではなく、ただただ「わかる」という感じなのだ。そんな知覚が身体のどの感覚器官も経由することなく、いきなり飛び込んできたのである。

 強いて言うなら、それは「力」そのものだった。

 純粋な力の感覚、という表現が一番しっくりとくる。

 収まらない胸のざわつきのようなものの原因は、おそらくこれだろう。

「わかるか? このように、マナは世界に遍在しているのだ」

 彼女は柵に身を乗り出して外を見ていた。

「これが、マナ……」

「そしてマナを体内で変換したものが固有魔力になる。いわゆる魔力というのは、これら二つのことだな」

 彼女が右手の指を一本立ててみせる。すると次の瞬間、そこを中心にして、何か力強いオーラのようなものが集まり始めるのが見えた。

 ……否、実際に見ようとすると見えないのである。網膜には映っていないのだ。しかしそれは見えるように感じるし、かえって目を閉じていた方がはっきりと知覚することができた。


 マナと固有魔力。


 似たようなイメージを持った二つの言葉は混乱を誘った。しかし、確かに見比べてみると(便宜上この言葉を使うが)、外の自然に広がっている力と、いま彼女の指先に集まっているものは、同じようでも、力の具合がどこか違う。上手い言葉が見つからないが、彼女のそれの方が重厚で密度が高く、独特の「彼女らしさ」があるように感じられるのだ。

 やがて指が下ろされると、力の集中は解かれ、分散し、消滅していった。

「これは、現実なのか」

 そう口にせずにはいられなかった。

 今まで見て、触れて、感じてきた世界とは、一体何だったのだろう。

「これが現実なのだよ」

 お前が見ている通りの現実だ、と彼女は付け加えている。

「魔力を認識できるということは、お前の中の受容体は既に目覚めているはずだ。これで普通の人間にもともと備わっている五つの感覚に加えて、お前はさらにもう一つの能力を獲得したことになる。魔力を知覚する特性だから、単純に、魔覚といったところか」

「魔覚……」

 何やらおぞましい単語まで出てきた。そんなものが自分に宿ってしまったというのか。

「最初のうちは抵抗もあり、落ち着かないだろうが、じき慣れる。やがては自分でも魔力を扱えるようにもなるだろう」

「えっ、僕が魔力を?」

 俄然、胸が躍った。まるで漫画の中の話だ。ファイアボールやかめはめ波はまさに男の夢。習得すればさぞかし気分爽快なことだろう。現代日本における用途はまた別に考えるとしても。

「理屈の上では、だがな。無論、実践レベルに引き上げるには相応の努力が必要になるぞ」

「だよな……」

 僕はがっくりと肩を落とした。

「なに、心配あるまい。そのための私だ。魔力操作に関して我々の右に出る者はいないのだからな!」

 そうだった。こいつはただのかわいらしいロリではないのだ。

 権謀術数に長けた悪魔の娘、ドロルフィニス――どういうわけか、僕に興味を引かれてやってきたらしい。こいつの目当ては、僕の魂なのだ……。


「あれ、そういえば結局、契約ってどうなったんだよ」

「ん? まだ言ってなかったか? ものの試しでやってみた方法が、どうやらうまくいったようだな」

「と、いうことは……」


「ふふふ、今日からお前が私の主人だ。よろしく頼むぞ、ユメノメグルよ」


 輝きのなか、ドロルフィニスはこちらに向き直って腕を広げ、はにかむような表情になり、それから慌てて不敵に笑い直してみせた。

 悪魔に朝は似合わないと思っていたのだが、その点でも、僕の常識は打ち破られたことになる。

 雲の切れ間からは地上を照らす幾筋もの光が降り注ぎ、そのうちの一本が、このベランダにも届いていた。

 そうして時折顔を覗かせる太陽を、僕はそれまでとはまったく違った感じ方で、眺めるのだった。


 しかし、女の子に指を舐められて興奮し、唾液の交換でトリップした挙句に失神して死にかけたなんて、それこそ他人には死んでも言えないな……。

もし悪魔と契約したら、まず何をしたいですか?

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