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命の不始末 後

だるい方は末尾のまとめへどうぞ

「そこまでよ」

 不意に、凛とした若い女性の声が響き渡ったのは、根室の持つ化物じみた腕が、まさに僕の首筋を圧搾せんとするその直前にして最後の瞬間だった。柄にもなく心の中ではつい十何回か念仏を唱えていたわけだが、あるいはそれが功を奏したのかもしれない。

 僕の目の前で根室は息を殺し、硬直したまま微動だにせず、背後を警戒しているようだ。

 慎重に五感を研ぎ澄ませると、彼の身体の向こう側に、一つの影を見ることができた。

 全身黒ずくめであり、身に付けているのはおそらく長いレインコート。フードを目深にかぶっているため、その中身まで見通すことはできそうにないが、驚くべきことに、彼女は銃を構えている。


「その人から離れなさい」


 再び警告が発せられる。まったく聞き覚えのない声だ。

 根室が唇を噛んでいるのは、黒一色の衣装の中でもひときわ目立つ象牙色の拳銃が、その背中の中心をぴったりと捉えているからだろう。


「……ボクが、言われてその通りにするとでも?」

「あなたに選択の余地はないわ。これは命令よ」

「断ると言ったら?」

「あなたは死ぬわ」

「従った場合は?」

「寿命が延びるわ。数秒ほど」


 落ち着き払った応答だったが、その言葉には炎のような迫力が込められていた。

 しばし両者は沈黙し、緊張状態が続く。

 が、やがて彼は観念したかのように大きな溜め息を一つ吐くと、肩をすくめ、両手を上げてみせた。


「そのまま、振り向かずに下がって」


 言われた通りに、根室氏がゆっくりと後退を始める。ほどなくして、レインコートの女性が止まるようにと指示を出す。

 ところが今度は、彼は従おうとしなかった。


「止まりなさい」


 だが、彼は後退をやめないのである。

 予想外のことに、レインコートの女性にも若干の焦りの様子が窺えた。

 次の瞬間、根室が跳躍する。

 後方に向けて天高く飛び上がった彼は、空中で勢いよく身体を反転させると、砲弾のようにきりもみながら、力強くレインコートに躍り掛かったのだ。

 それに対し、レインコートは咄嗟に真横に飛ぶことによって辛くも攻撃を回避したが、そのコートの端は彼の鉤爪による攻撃を免れず、切り裂かれた布が鴉の羽根のように薄暗い雨の中を舞う。

「くっ……! 悪魔め……!」

 レインコートが素早く体勢を整え、ストライプスーツ目掛けて二発の弾丸を連続で発砲している――その軌道は彼の急所を正確無比に捉えたように思われた。

 が、当たらない。

 銃弾が皮膚を食い破る直前に、すべて弾かれてしまっているのである。あたかも彼の手前に不可視の盾でも存在しているかのように、堅牢なのだ。

 その間にも男は凄まじい速さで、レインコートとは逆の方角に向かって広場を走り抜けている。

「逃がさない……っ!」

 謎の女性が漆黒のレインコートを翻しながらストライプスーツを追う。

 ところがその刹那――何の前触れもなく――そこに停めてあった黒塗りのセダンが突如爆発し、大地を揺るがすほどの物凄い轟音とともに、巨大な火柱がそこに立ち昇りだす。


 世にも恐ろしい現象は、その直後に起こった。

 なんと、縦方向に伸びていた火柱が突如としてその向きを変え、明らかな敵意を持って、こちらに襲い掛かってくるではないか。

「う、うわあっ!」

 思わず悲鳴を上げて立ちすくむ。逃げられない――あんな圧倒的な火焔の前では僕はまったくの無力だ。このままでは、あの鬼のような火力に骨まで焼き尽くされてしまう。雨の中にあっても灼熱の勢いはまるでとどまるところを知らず、真っ直ぐこちらに突っ込んでくる凶暴な炎の渦は、言ってしまえば死の権化ではないか。

 これを目の当たりにした僕が、いまだかつて味わったこともないような、限りなく純粋かつ破滅的な恐怖そのものの感覚に震えていたことは、残念ながら事実である。我ながら現金で身勝手な感情だと自覚はしているが、そのとき僕は何もかも忘れてこう思わざるを得なかった。

 ――嫌だ、死にたくない、と。


「大丈夫」


 そんな声が聞こえてきたとき、僕は時間が停止したのではないかと疑ったほどだ。周囲のすべての音はやみ、ただその清らかな一声のみが反響と拡散を繰り返す専制君主的な宇宙の様相のなかで、眼前に屹立するレインコートの後姿だけを永遠に僕は見つめている――そのような唯一無二の強烈な印象をおぼえたのである。

 息を呑むほどの美しい光景。

 いつの間にか拳銃を捨て、両の手のひらを勢いよく業火に向けて突き出しているレインコート。すると視界の一面が急激に、まばゆいばかりの光に満たされていく。

 落雷、ではなかった。

 なぜならその光は確かな密度と重量を携えてそこに現前しており、燃えさかる炎の牙の直撃を完全に受け流し、捻じ伏せていたためである。僕はくらくらする頭を押さえつつ、その様子を目に焼き付けていた。


 光の防壁は爆炎と相殺して消滅し、残り火の消火は雨がその役目を引き受けている。

 だがあの根室という謎の男も、そのときにはすでに広場から姿を消していた。


 レインコートの女性は、しばらく男の姿を探すようにキャンプ場内をきょろきょろと見回していたが、やがて諦めたのか静かに象牙色の拳銃を拾い上げると、コートの内側にそれをしまいこむ。

 そして、振り返る。

「立てる?」

「ああ、ありがとう……」

 僕は腰が抜けてその場にへたり込んでしまっていたのだが、差し伸べられた手を借りて、なんとか立ち上がった。

「危ないところだったわね」

 この一言をきっかけに、僕の頭は徐々に判然とした意識と思考力とを取り戻していく。

 皮肉としか思えない、奇妙な現実があった。

 ひょっとすると、この状況は――

 僕はこの人に、「命を救われた」と、いうこと、なのか。

 そういうことになってしまう。

 信じられないけれども。

 事実として、僕はいま、なんとも言いがたい安堵感のうちに包まれている。

 それだけは確かだった。


 一酸化炭素中毒で昏倒しているもう一人の女性を雨の中に放置しておくわけにもいかないので、ひとまず僕らは協力し、彼女をキャンプ場内に佇む一件の四阿(あずまや)の中へ運び入れることにする。

 屋根の中に入ると、レインコートの人は目深にかぶっていたフードをようやく脱ぎ、自身の短めの黒髪を振り払ってみせた。この時はじめて全体が露わになった彼女の容貌を、僕は改めて目にすることになる。

 驚いた。

 それは意外にも、声の調子から想像していたよりもずっと若い、儚げな少女だったのだ。取り澄ました表情からはやや大人びた印象を受けるが、よく見ると身体付きの方はあまり発育しておらず、非常に華奢である。高校生ぐらいだろうかと僕は推測した。

 すると自分よりも年下なのだ。

「……命に別状はないと思うわ。ただ、まだしばらくは目を覚まさないかもしれない」

 彼女はぐったりした状態の女性を淡々と観察している。

「あー、えっと、その……助けてくれて、ありがとう……って言うべきだよね……やっぱり」

 どうしようもなく皮肉な運命。

 だが彼女に命を助けられたという事実――これは間違いなく感謝に値するものであるし、感謝しなければならないことだった。

「気にしないで」

 まるで薔薇のような人だ。ショートカット、というよりはむしろ天然の内巻きボブに近いのかもしれないが、その髪型が辛うじて彼女由来の刺々しさを控えめにしているという印象を受ける。しかしながら、全体としてそれはとてもきれいに整っていて。

「ええと、君は、いったい……?」

 我ながら要領を得ない質問だと思ったが、彼女という人物に関しては謎だらけだったのだ。

「私はあいつを追っていたの」

「あの根室とかいう男を?」

「根室、か……」

 黒髪が揺れている。

「ねえ、あの人は……何者だったんだ?」

 このレインコートの少女しかり、あのストライプスーツの男しかり、少なくとも常人ではないことは明らかだった。いったいどういうことなのか、簡明直截な説明が欲しい。

 彼女は一瞬どこか遠くを見つめるような眼差しになる。

 少し経ってから、黙殺されているのだと気付いた。

 どうやら答える気はないらしい。

 何か、知られると困る特殊な事情でもあるのだろうか。

「……あなた達は、ここに誘拐されてきたのかしら」と彼女が逆に質問する。

「ああ……まあ、そう、なのかな……」

 合っているような、合っていないような、微妙な感じ。

「そう……だったら、あいつは誘拐犯ということになるわね」

 なるほど、そうきたか。


 災難だったわね、とこともなげに呟いてから、彼女は僕に向き直り、言った。

「状況はわかったわ。後のことはいいから、あなたはもう帰りなさい」と。

「いや、でも、自分だけ帰るわけには……」

「大丈夫よ、慣れてるから」

 ……邪魔だから早く消えろ、と言外に言われているように聞こえなくもない。

「だけどやっぱり、警察を待った方がいいんじゃ……」

「警察は、来ないわ」

 と言われる。

 一応、ポケットから携帯電話を取り出してみたが、そこで初めて気が付いた。

 ここは圏外だったのだ。

 微妙に気恥ずかしさを感じて、無言でしまい直す。

 次に彼女は、僕に対して不可解な忠告をする。


「私からのお願いは二つ。今日のことはもう忘れて、決して人には話さないこと。それから、余計な詮索は何もしないこと。いいかしら」


「あ、ああ、わかった」

 妙な念の押し方だったが、有無をも言わさぬ圧力をそこに感じたので、僕は黙って頷いていた。

「帰り道……は、知らないわよね」

「ごめん、わからない」

 終始車の運転に任せきりだった僕は、帰り道はおろか、ここがどこであるのかすら知らない。

 すると彼女は無表情で目をぱちくりとさせた後、要領よく話し始めてくれた。それによると、どうやら僕らはかなりの迂回をしてきただけで、この山中のキャンプ場は距離としては僕のアパートのある町からそれほど離れてはいないらしい。そして広場に面した舗装道路に出てからしばらく道なりに進むと、一つのバス停があるということがわかった。

「どうもありがとう」

 礼を言って、小雨の中を歩き出そうとすると、

「待って」

 と言われ、振り返ると、漆黒のレインコートの内側をごそごそとやっている姿がある。出てきたものは珍しい花柄がプリントされた、一枚の小さなタオルハンカチなのだが、彼女はそれを手早くたたみ直し、僕に手渡してきた。

「傘の代わりにはならないと思うけど、一応」

「えっ、でも……」

「遠慮しないで」

 少し逡巡したが、結局は彼女の厚意に甘えることにした。

「それじゃあ……ありがとう、本当に……」

 彼女はこくりと頷き、再びフードを被った。やや横ハネの目立つ黒髪がすっぽりと収まる。


 四阿を出て、ひとり道路に向かって歩き始めた。

 しかしすぐに身体を投げ出したくなる。

 恐ろしいほど重い足取りなのだ。

 どうやら自分で感じていたよりもずっと、激しく憔悴しているらしかった。

 頭はまだぼんやりと痛む。

 とぼとぼと道を歩きながら、今日の収穫について考える。ところが、ほとんど何もなかった。問題が先送りにされただけである。それを思うと悲しくなった。こんな状態で、果たして家まで辿り着けるのだろうか。


 家……。


 そうだ、帰らなければならないのだ……日常に。日常という猖獗の地に……。

 やるせない……虚無だ。また虚無感が襲ってくる。

 けれども、僕はこの日の体験を通して、二つ目のことを学んでいた。

 自分は死ぬことすらもままならない、どうしようもない人間だということだ。死は、予想していたよりもずっと煩雑で、しかも恐怖だったのである。あのレインコートの少女に助けられた時の安堵感、あれは確かに本物だった。


 ……そういえば、「命の恩人」の名前を、僕は知らないまま立ち去ってしまった。それぐらいは聞いておくべきだったなと、少しばかりの後悔。


 帰ったらまず日記を燃やそうと思う。死の幻想――それは打ち砕かれた。ただその破片だけがまだ散らばっている。それらを片付ける気力まではもうなかった。せいぜい固い靴を選ぶか、いっそ徹底的なニヒリストに転じて、素足を痛めつけ続けるのも悪くない。


 かくして僕は人生の荒野に再び放り出されたのである。

まとめ

集団自殺するつもりだったのに、得体の知れない思惑に乗せられ、拉致されそうになったところを、謎のレインコートの美少女に助けられて、複雑な心境に至る。


次から銀髪ロリ悪魔・ドロルフィニスと出会った日のエピソードが再開されます。

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