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命の不始末 前

誰もが例外なく幸福を求めている。意志はそのようにしか進むことができず、道順はそれぞれながら、みなこの目的に向かっている。これがすべての人間の、自ら首を括ろうとすることに至るまでの、あらゆる行為の動機なのである。(パスカル)

 謎の少女との出会いの続きを語る前に、これから僕の陰惨な過去を振り返ることになるのだが、甘き誘惑の箱庭を期待してこのページを開いた読者には、少しのあいだ辛抱していただくか、いっそこの節まるごと読み飛ばしてもらっても構わない。そして僕の心理や境遇について説明不十分だと感じる頃合いにもう一度ここを開いてくれ。


 端的に言って、絶望していたのである。特にこれといった事情はないが、死のうと思っていた。死にたがる人間というのは死にたい気持ちが先にあり、後から理屈をこねまわすものだ。途轍もなく優秀な兄がいるとか、それに比べて自分は劣っているだとか、受験に完敗したとか、宅浪とフリーターの折衷のような生活で先行きが不安だとか、そういうささやかな不幸ならいくらでも挙げることもできる。

 が、いずれも決定的なものとは言いがたい。

 ただなんとなく、これからも世界に希望など持てないのだろうということぐらいは十九の僕でもわかっていたし、その反面、苦痛であり続ける人生に果たして意味などあるのだろうか、ということは日ごとにわからなくなってきて、ああ、夢は叶わないのだ、と悟ったとき、少し、死んでみたくなったのだ。というよりは、生きるのが面倒になってきた、と言い換えた方が適切かもしれない。

 それでいつからか、きっかけ探しを始めた。もっともらしい理由を集めたり、数えたりするための日記が何日か続けられることになる。死ねない類の人間がえてしてそうであるように。

 まったく情けないことだが、いざ死ぬとなっても実行の踏ん切りなどつくはずもなく、遺書もまとまらないままに、とうとう日記帳の方を先に使い切ってしまっていたとき、この胸のうちに残っていたのは、死への幻想とでも言うべき遊離した思いだけだった。生きることについて考えてきた時間よりも、死ぬことについて考えてきた時間の方が長いというのは、なんと皮肉な現実だろう!

 あるいはそこでさっぱり諦められればよかったのかもしれない。だがわかる人にはわかると思うが、もはや死について考えること以外に僕の美学と精神安定剤はなかったのだ。生は死という火打石があってはじめて輝く。現実逃避でしかなかったこの考えが、やがて自分の手にも負えないほど巨大な魔物と化していくのは時間の問題であった。


 僕はこの鬱屈した悩みをそれとなく人に打ち明けたことがある。相手は天利梨沙さんというバイトの先輩。余計な誤解を招かぬようあらかじめ注記しておきたいが、厳密にはいちおう僕の身分は一人暮らしのフリーターかつ、東大を目指す自宅浪人ということになる。が浪人生としての本分であるはずの受験勉強に関しては、秋も半ばだというのにいまだほとんど進んでおらず、安易な表現が許されるならば、首も回らない絶望的な状況なのであった。

 話を戻せば、梨沙さんというこの同年代のポニーテールは、いかにも包容力にすぐれ、嫉ましく思われるほど余裕あるキャンパスライフを満喫しているようなので、思いきって閉店時のカウンターで話しかけてみたわけである。

「何のために暮らしているのか度々わからなくなることがあります。受験勉強が手につかないのに、今日のように体調が優れない日でさえ、生活のためにアルバイトには出勤している現状がある。倒錯しているとは思いませんか」

「また例の自虐? そんなの珍しいことでもなんでもないよ。私だって別に目的があって店の手伝いしているわけじゃないし、サークルとかレポートとかいろいろあるうちの一つって感じだもの」

「だけど梨沙さんは学生で、それに店主の娘さんでもあるから……」

「あるから何? 夢野くんは、この仕事に不満があるわけ?」

「いや……」僕は若干口ごもった。「つまり僕が言いたいのは、この仕事がだんだん板についてくる自分のことが、どうしようもなくいやらしくて恐ろしく、それをなんとかして、元に戻したいということなんです」

「それで私になんて言ってほしいの? そんなに危機感があるのなら、勉強すればいいじゃない。時間がないならバイト辞めれば? あなたの歳なら親だって無理に働けとは言わないと思うし、そこまで粉骨砕身することもないわ」

「駄目ですよ……両親はもう、僕が兄のように東大へ行っていると思い込んでいる。それで僕は奨学金で暮らしていることになっているんです。今さら出す顔なんてない。ましてや金をせびるなど……」

「それは夢野くんが嘘をついたからでしょう? 本当に駄目な人ねあなたは。仕事もできないし、ぐだぐだ言うばっかり。そんなことより早くそれ食べてくれない? 待たされる側の気持ちにもなってよ」

 先ほど包容力があると言ったのは嘘だ。梨沙の愛想がよくなるのは客かイケメン相手に限られる。自分のような根暗オタクには情け容赦もないらしい。

 彼女が指したまかないのカレー皿を僕は気が遠くなりながらも凝視している。早く食べろと言われたものの、食欲不振で全くはかどっていない。言い忘れていたが、この場は「アマリリス」という名の喫茶風レストランであり、駅周辺の繁華街エリアからは少し離れた区画にひっそりと軒を構えるレンガ造りの小さな店だ。客が入っているのを見たことがないので働くことにしたのだったが、蓋を開ければ中身は激務薄給で、ほぼ朝から晩まで拘束されることになってしまった。これが毎日続くのだ。気が狂いでもしないかぎり、死にたくならないほうがおかしい。オムライスやビーフシチューの作り方を覚えたところで、それがいったい何になる? 東大に入れていれば、こんなことにはならなかったのに。

 僕に兄さんぐらいの才気があれば、この女を虜にすることも容易だったであろうに。



 ――兄は桁外れに優秀な人物だった。

 どのくらい非凡だったかというと、その理智が天まで届くかと思われるほどだ。卑近な例で恐縮だが、工藤新一や夜神月の類を思い浮かべてもらえればいい。勉強、運動、芸術、どれをとっても一流で、皆からも慕われる完璧超人。常にその背中を見て育った僕にとっては、やはり憧れの存在である。

 だが恐ろしい人でもあった。

 滅多に片鱗を見せることはなかったけれど、温厚柔和な仮面の下に、なにか得体の知れないものを隠している――僕にはそのように思われてならない。

 幼少時に一度だけ、部屋の中に無断で踏み入ったことがあるのだが、僕は見た。薄気味の悪い、解読不能な記号のメモ書きが山のように重ね置かれ、散乱している光景を。何一つ理解できなかったけれども、それがすでに人の領域を超えたものであることを僕は瞬時に見て取った。天稟というのは、人をして超越的な知へと至らしめる宿命でもあるのかもしれない。その後の兄が僕に対して行った非道い仕打ちはいま思い出すだけでも鳥肌が立つ。

 何を考えているのかわからないそんな人が自分の兄であることを考えれば、僕の価値観などまだまだ常識的な範疇に入るだろう。もっとも、その唾棄すべき平凡さが数々のルサンチマンを生んだわけだが。

 僕が最後に兄の部屋へ入ったのは、彼が東京へ発つことになった前の夜だった。兄は肘掛け椅子をゆっくりと後ろに回し、少しく目を細め、こんなことを言っていた。

「巡、アブラクサスという名を聞いたことはあるか。お前にはまだ早いかもしれないが、これはグノーシス主義という一種の知性崇拝における祭神のことだ。覚えておくといい。お前にもいつかわかる時が来るだろう。この社会のパラダイムというものが、いまだ未知の領域に覆われた、一つの移行過程でしかないということが。真実の世界により近づこうと思うなら、お前も強くなりなさい。僕は少し先へ行こう。そしてお前が来るのを待つことにするよ」



 それから何年かして、僕は似たような話を別人から聞かされることになる。だがその詳細を語るには、僕が決行した一回目の自殺について触れねばならない。それはまた、僕が「悪魔」という存在と接触した最初の事件でもあった。


  Name: Nemuro Mail: ×××××@×××.jp 20××/10/13(Fri) 02:04:14

  近々車に練炭積んで終わらせる予定なので同行者募集

  道具等全てこちらで手配可

  連絡待ってます


 とあるインターネットの掲示板で上のような書き込みを見つけたとき、僕はすでに死の強迫観念に片足を銜え込まれており、極楽浄土から垂れ下がる蜘蛛の糸のように見えたこの勧誘に、無我夢中で縋らずにはいられなかった。思い切れない僕にとって、痒い所に届くというわけではないが、少なくとも背中をぽんと押してくれる手ではあったのだ。たとえその先が断崖絶壁であるとしても、なぜか空に飛び立てるような気がしていたのである。

 本当はそれがとんだ誤解で、「幻想」はただの「幻想」だったのだと、後になって思い知らされることになるのだが。

 あの日は一度限りの縁で結ばれた三人が集まり、根室という主催の男の車で山中の辺鄙なキャンプ場まで運ばれ、そこで用意した七輪で焚いた練炭の煙を吸い、仲良く成仏する手筈だった。こんな自我も煩悶も、あのときを最後にすべて置き去りにする心づもりで、順当に一酸化炭素中毒で意識が遠のいていった瞬間には、ああこれでやっと窮屈な日常生活から解放されるのだと悟り、安堵と、わずかばかりの寂寞感さえ胸に感じたものだった。

 ところが僕の精神は未練たらしく、元鞘に収まるかのごとく、肉体に帰ってきてしまったのである。


「痛い……」

 目が覚めたとき、気づけば僕は地面の上で呻吟していた。むろん生きているためである。別れを告げたはずの虚無感との思いがけない再会に、僕は心底うんざりしていた。歓迎などできるはずもない。もっとも、生身の肌の感覚や、土の匂い、空のいろ、そうしたものに対しての、若干の懐かしさも覚えないわけではなかったが。

「もうお気付きになられましたか」

 黎明どきに、うつ伏せにした僕の身体を引きずっていたのはあの根室とかいう男だった。ずきずきとする頭を使って考える。何がしたいんだ、この男は。それ以前に、どうなっているのだ、この状況は、と。

「……離してくれ」

 僕はそう言って頭を上げ、それから肘に力を入れて、ゆっくりと身体を起き上がらせる。全身が覚束ない状態で、ともすればまた倒れてしまいそうになるが、どうにかして堪えていた。雨が降っているせいで、身体は泥だらけになっている。

 見渡せば広場だった。周囲を木々に取り囲まれた、閑散としたキャンプ場。……この景色には見覚えがある。どうやらあまり移動はしていないようだ。足元を見やると、こちらはぐったりと倒れている、自分と同じ歳ぐらいの女の子が一人。名前は知らない。名乗る必要などなかったのだから。

 付近には僕らが乗ってきた黒塗りのセダンが確認できる。だが本来、あの中から外に出ることはなかったはずなのだ……。僕は目前に立つ、ぴっちりとしたストライプスーツを着た長身の男に向かって言った。

「何のつもりだ」と。

「申し訳ありません、気が変わってしまいましてね」

「どういうことだ。お前から提案したことじゃないのか」

「そうは言っても、私だってほら、人間、ですから」

 想定とはまったく異なる現実を突き付けられているいま、僕の心は非常に乱れていた。たとえどのような現実であれ、それを目の前に突き付けられるというそのことが、もはやあってはならない事態だったのだ。やすやすと他人を信用するべきではない。それは今回の一件を通して、僕が痛切に感じたことのうちの一つだった。

「僕を失望させないでくれないか。何が人間だ。欲望の負債を抱え込み、死という暗黙の刻限に怯えつつ、せいぜい一つか二つ自分の生きた痕跡を残そうとする、そんな醜い死刑囚が何だって言うんだ」

「しかし命を無下に捨てるのはやはり惜しいですからね、そうは思いませんか」

「思わないね。社会は厳しく、人生は孤独だ。祈りは空しく、時の流れは等しく残酷なのだから、たかが一つの命 など、あってもなくても同じことだ」

 根室という奇矯な男は不気味な微笑を顔に張り付けている。

「……そうですねえ。もちろん、人間の一生は苦悩の連続です。残念ながら、苦しみながらでしか人は生きることができない。……ところでそれがなぜなのか、その本当の原因がお分かりになりますかね?」

「なぜそんなことを今さら訊ねる必要がある? そもそも生まれてきたこと自体が間違っているからだ。初めから人生などというものが形式的矛盾の上に成り立っている以上、いかなる意味も見出されることがないからだ」

 すると彼は四角い眼鏡をクイッと持ち上げてみせる。


「惜しいですね……。しかしあなたは、個人という存在の矮小さをきちんと自覚できているようだ……それはとてもすばらしい。では、解答を言いましょう。……それは精神が、一つの肉体に縛り付けられているからなのですよ。この二つは本来、水と油のようなものなのです。肉の桎梏に閉じ込められている限り、精神は決して自由になることがない……。その矛盾が葛藤を生み、葛藤が心の闇を増幅させる……その闇こそが、苦しみなのですよ」


 彼の言葉は理解不能な論理であり、どこか耳に遠く、上滑りしているような印象を受ける。だが、それは理屈ではなく奇妙に音楽的な響きをもって、僕の脳裏を揺さぶりかけてくるのであった。

「――実はですね、死ぬよりももっとすばらしい、一つの方法があるのですよ。あなた方には、それを教えて差し上げようと思いまして」

「そんなのは余計なお世話だ。この世が既に苦しみで溢れ返っているのだから、死よりもすぐれた救済など存在するわけがない、信じた希望の数だけ多くの挫折を味わうことになるのだから、この苦しみの連鎖を今こそ完全に断ち切る時だと、さっき話したところじゃないか」


「いえいえ、……私はあなた方を、苦しみのない世界へと招待したいのですよ。今ここで肉体に依存する生の形から脱却し、より大なる存在の一部として生まれ変わることができるとしたら、どうですか……? それはとてもとても満たされた、幸福なことだとは思いませんか……?」


 ああ、そうか。

 僕はようやくそこで気づいた。

 こいつは最初からこのつもりだったのだ。

 本当は自殺するつもりなんてさらさらなくて、むしろ僕たちのような自殺志願者をこうして騙し集めてから何か、宗教団体のようなものに勧誘しようとしているにちがいない。

 つまり、まんまとしてやられたわけだ……。

「悪いけど、僕はそういうのにはあまり関心がないんだ」

 根室という怪しい男の目つきが、今少し、変わったような気がして、僕をたじろがせる。

「……では、やはり死にたいと?」

 このように改めて決意を確かめられた際に、すぐさま断乎として答えることができないというのが悲しいところだった。死ねなかったことが悔やまれる一方で、この肉体を懐かしむような気持ちもどこかには存在しているようであり……。

 だが、話の流れと立場上、ここで肯定しないわけにはいかない。

「まあ、……そういうことになるのかな」

 すると。


「そうですか……ならばこの私が、今ここで、直截手を下して差し上げても?」

「……え?」


 ちょうどその時、天に雷光が閃いた。

 それが明らかに照らし出したものを見た瞬間、僕は同時に二つの事実に気が付く。

 一つは、彼の身体に濡れている箇所がほとんど見当たらないという点である。先ほどからずっと雨に晒され続け、僕やその脇に倒れている少女の身体などは既に濡れそぼっているというのに、だ。

 そしてさらにもうひとつ、これがもっとも戦慄すべき事柄なのだが、そのとき彼のストライプスーツの袖から覗く両腕があろうことか真っ黒く変色し、もはや人体の形状をなしていなかったのである。

 巨大な鉤爪。

 目を疑わずにはいられないが、それがはっきりと見えていた。

 僕は咄嗟に逃げ出したくなってはいたが、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく、身動き一つ取ることができない。

「お、お、おまえ……っ!」そう声を絞り出すのがやっとだった。

 そして今、闇の中で、その名状しがたき異形の腕が、ゆっくりと、まさに、僕の喉元へ、差し向けられ……。


「さあ、行きましょう――我らが救世主(メシア)のもとへと。そして、一つになるのです」


 僕は今度こそ死を観念した。

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