逢魔時
二度目の自殺を、僕は図ろうとしていたのかもしれない。
夕日に濡れた木造アパートの白い階段は、僕が足を踏み下ろすごとにギシギシと心許ない音を立てる。かつて家族四人で地元の祭りへ繰り出したときのおぼろげな記憶などが、頭の隅に浮かんでは消えていく。
少年だった僕にとって、夕焼けとは生活のなかに特別な色彩を与えるものだった。充実した一日を振り返り、温かい食事に思いを馳せつつ未来の思い出の形式など予感するとき、その背景を夕日はいつも照らしてくれる。
だが今はもう、そのような感慨を抱くこともない。
日が暮れる、明日が来る、それだけだ。疲れていた。本当はもう解放されたい。義務、労働、受験勉強――くだらない使い捨ての日々を赤々と強調し、すべてを血に染め上げてから、ゆっくりと没落していくこの空からも。
そんなことを一人で考えていると、ふと、足元に忍び寄ってくるのが見えるのである。
死の影が。
理性の堤防を決壊させ、意識の城壁をやすやすと乗り越え、そうやって、自己を存在論の彼方へといざなおうとする力。それは青天の下では大人しく、封じ込めておくのも容易いものだが、今に至っては空がこんなにも紅いのだから。
不意に踏切の音が聞こえてくる……そう遠くないところで遮断機が降り、充血した信号が明滅を繰り返していた。
吸い寄せられるようにして、ふらふらと近付いていく。
矢印は二本。それぞれ別方向から一本ずつ、電車がやってくる気配だ。
周りには誰もいない。
あそこへ跳べれば……。
判断力が欠如していたか、あるいはこうしたできごとを「魔が差した」とでも言うのかもしれない――とにかく、最初の電車が過ぎ去るさまを間近で見つめる僕の頭はぼうっとしていた。そして気付けば続く二本目を待たずして、僕の身体はひとりでに遮断機を越え、線路に立ち入ろうとしている。
だがそこで軽い違和感が起こった。
心なしか視界が暗いのである。
あまりにも大きな影が、気づいたときには僕を呑み込んでいたが、こればっかりは比喩ではなかった。いくらなんでも、最初の電車が通過する前後で明るさが違いすぎるのだ。
不思議に思い、顔を上げてみる。……すると、僕は奇妙な光景に出会うことになった。目の前の西日に、翳りが出ていたのである。低い空のところで不吉に燃えている太陽――その手前に、闇が出現していた。辺り一帯をまるごと包み込む黒。僕の目が正常ならば、踏切の向こう側に突然現れた何かが斜陽を遮り、影を落としているようだ。
何かが空に浮かんでいる。
もしそれが雲や飛行船だったならば、意外にも思わず、さしたる不安もなく、この出来事もすぐに忘れ去ってしまっていたことだろう。
だが、そうではなかったのだ。
僕の眼に映ったもの――それは、翼を広げた生物である。
鴉だろうか、と最初は考えた。……この推測は半ば妥当なようにも思え、この日没の情景から思い浮かべた安直な連想ゲームの回答に、僕はほとんど満足するところだった、というのも夕暮れの黒い翼などはすべて鴉だと僕は信じていたのである。
ところがそうだとしても、それはあまりにも、大きすぎた――濃い影が細部を隠しているためにその全貌は闇に包まれているが、血染めの夕日をバックにし、空中に静止しているその体躯は、そもそも鳥類のそれとも異なるように見える。
そう、むしろ、あれは……。
否応なくぞくりとするものを感じる。あのシルエットに認められる四本の手足のようなものが、見た目どおりに「仁王立ち」を表しているとすれば、……それはまさに恐るべき光景だった。その姿は必然的に、僕に或る潜在的な連想を働かせる。僕はあれに似たような存在の名称を、今ここで言い当てられないでもない。
――悪魔。
一瞬だけ、目が合った気がした。
が、そこにちょうど二本目の電車が轟音を立てながら走ってきて、目の前の視界が遮られる。このとき僕は既に遮断機を越えて踏切の内側に立っていたのだが、そこからは一歩も前に進むことができずにいた。結果としては、僕が線路に飛び込むことはついになかったのである。
むしろ僕は、遅れてやってきた、原始的な恐怖の感覚をやっと思い出して、その場から逃げ去りたい衝動にとらわれていた――危機察知の能力というのは、人類の長い狩猟生活の動物的所産として個人の内に根付いていて、必要な時になると眠りから目を覚まし、理解とか判断といった思考のすべてを超越し、先行する本能的な活動を肉体に与える――人間一人ひとりに備わる理性などよりも遥かに頼りになり、正確無比に作用する野生が、この血とともに自分にも流れているということに、僕は小さな驚きを覚えていた。実際、こんな時にでも僕の心臓はばねのように跳ね上がり、一つの無意識的な直感、脊髄の命令が僕の右足を半歩後退させようとしている。
だが、それが限界だった。何の前触れもなく眼前に現れた謎の翼――その姿の圧倒的な存在感に、僕はまだ射竦められていたのである。
……ところが、電車が目の前をすっかり通り過ぎてしまって、踏切の音がやみ、遮断機が上がったとき、そこにはもう、何も存在していなかった。
電車が置き土産に残していったわずかな風が肌を撫で、踏切の向こうでは、何事もなかったかのようにぽっかりと、太陽が浮かんでいる。
注意深く、いま目にした翼の姿を探したが、既に影も形もなかった。とたん、安堵感が押し寄せてきたが、それと同時に、僕は苛立ちをも覚えずにはいられない。
杞憂に過ぎなかったのだろうか。また幻覚だったのだろうか。脱力した肩から垂れ下がる自分の両腕をぼんやりと見つめながら、ぽつりと僕は呟いている。
「ああ、ついに僕は、現実と夢の区別すら付かなくなってしまったんだな――」
そんな自分の言葉すらわけがわからなくて、今度は笑いが込み上げてきた。自分が馬鹿馬鹿しかったのだ。夕焼けも馬鹿馬鹿しかった。誰もいない踏切のなか、真っ赤な空を見上げつつ、僕は一人で笑っている。止め方を忘れていたのだった。
「何がそんなに可笑しい?」
これは僕の発した声だっただろうか? ……そうかもしれない。だが、違うような気もする。もっと後ろの方から響いてきたのでは? ……そんな混濁した意識だったが、何気なく背後を振り返っている。
そのとき、僕は、赤みがかった景色の中で、そこだけが世界から切り離されて独立し、永遠の時空の中を無限に屈折しては吸い込まれてゆく、透明な海の輝きを、見たのであった。
やがてその光がゆるやかかつ急速に収斂し、それが眼前に出現した二つの碧の瞳から放たれるものであると気付いたときには、そのあまりの距離の近さゆえに、今度こそ心臓が止まる思いをしたが、文字通り、目と鼻の先の位置に一つの顔の輪郭が現れ、その大きな双眸でもって、正面から僕を見据えていたのである。僕が驚倒して尻餅をついたことは言うまでもない。それでも目の前に立ちふさがったその異形の存在からは、目を離すことができなかった。
頭がひどく混乱している。現実と非現実との境界が至極曖昧になっているようだ。それゆえか、そこにようやく小さな少女の姿を見留めたときは、彼女が何者であるかということよりも、その実在性の方が遥かに気掛かりになった。というのも、それは少なくとも二つの点で、既に常識を凌駕しているように思われたのだ。
一つには、物理的に有り得ない状態で――つまり、両足が地面から離れ、完全に空中にとどまった状態で、少女はぴたりと静止している。
そしてまた、その姿はあまりにも美しく、現実離れしていたのであった。
踏切に倒れたまま何も言えずにいると、少女はその外見に似つかわしくないほど不敵な笑みを表情に宿し、屈強な男たちがよくそうするような仕草で、か細い腕を組んでみせる。
「ふふふ、この私が恐ろしいのだな?」
彼女はそう言って、背中の翼をぱたぱたと動かす。
……翼だって?
僕はもう一度、彼女の小さな身体の下から上までを、まじまじと観察してみる。……すると、全体として少女という印象を与えているにも関わらず、人間の子どもという属性とは著しく反発する禍々しい器官が、彼女に備わっていることが判明するのだった。
翼と角……。
にわかには信じがたいが……。
そんな少女もまた同様にじっと僕のことを見つめている。立ち去ろうともせず、上空から僕を見おろしているのだ。背中から伸びるその蝙蝠のような黒い翼を凝視しながら、僕は先程の直感を思い出していた。
だが、あるいはこの状況も一つの幻覚症状なのかもしれない。なぜならこれも文字通り、目を疑うべき光景だったからである。そこで僕は、目の前の少女に向かって言った。
「よう、もし幻なら、消えてくれないか」
ところが彼女は笑いながらよくわからない台詞を言ってよこす。
「あわれな人間よ、もともと世界の認識など、すべては幻のようなものではないか?」
「そんなわけがないだろう」
「なら、そうなのだろう。お前の中ではな。それはそれとして一つの真理なのだ」
「教えてくれ。お前は存在するのか、しないのか」
「この私は存在する。この名がある限りはな」
「だったら、お前は何者だ」
「そうだな、……『常に悪を求め、常に善を造る力の一部』……とでも言っておこうか」
まったく意味がわからなかったが、なんとか噛み砕いて理解しようとつとめてみたところ、わからなかった。
「というか、何か僕に用でもあるのか?」
「ふん」
するとそのとき、彼女の翼が奇妙な光を帯びたかと思うと、ぱっと消えてしまった。それから重力が、まるで唐突に思い出したかのように少女の身体にも働き始め、そのままふわりと、彼女は地上に降り立っている。
「絶望でぽっかり空いた心よ。その憂いが私を呼んだわけだ。からの杯ほど、すくい甲斐があるというものだからな。さて、見させてもらおうか。そこに欲望の美酒が注ぎ込まれるさまを!」
「悪いけど、さっきからお前が何を言っているのか、全然わからないんだが」
「ならば教えてやろう、この世の快楽のすべてをな。さあ、手を取れ。しかしてお前の望みを口にするのだ――」
差し出されるがままに手を引かれて立ち上がると、思いのほか少女の背丈は僕の肩ぐらいまでしかなく、自然とこちらから見おろすという形になる。そして夕陽に照らされて黄金に輝いているように見えていた長い髪は実はまっさらな白銀の色であることがわかり、ひんやりとしたその肌も雪のように白かった。
僕が腕を離したのは、見蕩れているということに気付き、きまりが悪くなったからだ。翼がなくなった今となっては、彼女は少し風変わりな一人の女の子に過ぎない。もっとも、その小さな口から飛び出してくる言葉は異様そのものであり、困惑せざるを得ないのだが。
しかも――これまでは他の事象に対して驚きを示すことに忙しかったせいで、これに反応するのは少し遅くなってしまったのだが――この子はなぜか、どう考えても露出が多すぎるのである。そもそも彼女が身に付けているものは衣服の形状をなしていなかった。無造作に巻き付けられた黒いリボンのような生地が、細く、起伏に乏しい身体の二か所を隠しているに過ぎず、それが奇抜な髪色と相まって途轍もない存在感を放っている。
ひとことで言ってしまえば、彼女は変質者だ。通報した方がよさそうである。
というより、こんな危険な格好をしている少女と一緒にいるというこの状況は、別の意味で危険かもしれない。もしこれが通行人の目に留まったとしたらどうだろうか。……僕は社会というものの恐ろしさをよく知っているつもりだ。下手をすればこの場合、通報されてしまうのは僕の方ではあるまいか。まったく理不尽なことに、どう見積もっても中学生くらいの――もっと幼い可能性もある――見ず知らずの子どもと一緒にいるだけで、地味なパーカーを着たこのアルバイトの男が途端に犯罪味を帯びてくるということが、世間では有り得るらしい。
誠実な対応が求められている。そんな気がしていた。
「わかった、とりあえず交番へ行こう」
「交番? それは何をするところだ?」
「迷子を引き取ってもらうところ」
よくわからないが、こちらからしてみれば彼女こそが不審者だし、さっさと警察に引き取ってもらうのが吉と見た。
「私が迷子だと? はっ、面白いことを言うな。だがその必要はないぞ、青年よ!」
「じゃあお前は、いったいどこから来たんだよ?」
「どこ……? そんなこと、考えたこともないな。まあ、強いて答えるなら、『ここ』だが」
「……親は?」
「さあな」
事情は思っていたより複雑かもしれないな。
迷子ではないなら捨て子か、あるいは記憶喪失か……、いずれにしても、普通の子どもではないことは確かなようだ。厄介なことになってきた。
「名前はわかるのか?」
なぜか、そのことに触れた途端、彼女の様子が急激におかしくなりだす。にわかに火が付いたように顔が赤くなり、それまでの余裕ぶりとは打って変わり、表情には狼狽の色が浮かぶのである。
そうして彼女は小声になり、こう言ってきた。
「……わ、私の名がそんなに気になるのか?」
「そりゃ、まあ……」
ただならぬ雰囲気を感じ、慌てて言葉を付け足す。
「あ、僕は夢野巡。怪しい者じゃない。十九歳。ただの浪人生だ」希死念慮があるだけの。
「き、貴様! そのようにやすやすと自らの名を明かすとは、なんという了見だ! どういう意味かわかっているのか!? まだ顔を合わせて数刻も経たんというのに、こんな場所で名をさらけ出すなど……!」
なぜ怒られているのかわからない。
「別に、普通だと思うけど」
「なっ……!」
少女の顔がますます朱に染まり、とうとう全身まで小刻みに震え始めている。
「……い、いいだろう、貴様が早くもそういうつもりだと言うのならば、私もそれに報いるほかはない。……さあ、み、耳を貸せ! 我が名は――」
屈みこむと、ずいと顔が寄せられてくる。熱の乗ったくすぐったい言葉が、耳にかかった。
「……ドロルフィニス? 随分変わった名前なんだな」
言うや否や、彼女は飛び上がって口を塞ぎにかかる。
「ばっ馬鹿者! 大声を出すでない! 誰が聞いているやら――」
「聞かれたら何かまずいことでもあるのか?」と手を払いのけ、僕は言った。
「まずいも何も、自分の命にも等しい真名だぞ! お前には恥じらいというものがないのか? まったく、何という男だ、この私をここまで弄ぶとは……豪胆にも程がある。いやしかし、恐れ入ったぞ青年よ。余程の覚悟があると見た。これも天の運命だというのか?」
いろいろと謎の多い女の子のようだ。
「……早くしないと日も暮れるし、そろそろ行きたいんだけど」
「そうか、では共に行こう。どこへでも連れて行くがいい!」
この銀髪娘の正体がわかるのは、まだまだ先の話である。
いろいろあって、僕は自殺をしたかった。
そんなときに厄介事が降ってきたのは、はたして偶然なのだろうか。