2枚の写真と謝罪
ふらつく足でどうにかベッド二つ分の移動をやり遂げた俺は、目当てのカーテンの前で立ちつくしていた。
今更だが、ドアならノックも出来るが薄いカーテンは大げさに開けない限り音は鳴らないと気付いたからである。
いきなり声をかけたいところだが、相手がもし心臓発作で運ばれてきた患者ならそれは良い案とは言えない。
相手は女性のようだし、自分で言うのも何だが俺は超がつくほどハンサムだ。
得体のしれないハンサムに「やあ」なんて突然声をかけられたら、並の女は仰天するに決まってる。
とにかくまずは様子をうかがおうと、俺はカーテンのすき間から中をうかがった。
うつむいているので顔はよく見えないが、やはり相手は女だ。その上女は、何故か俺の写真を凝視している。
まだ捨てられていないことに安堵しつつ、同時に俺はチャンスだと思った。
写真を落とした者だと言えば、不自然なくカーテンの内側に入れると思ったのだ。
「お休みの所失礼。今あなたが手にしている写真は私の物なんだが、返して頂けるかな?」
相手を驚かせないようゆっくりカーテンを開けると、女が顔を上げた。
細いというよりやつれていると称した方がしっくり来る青白い顔だった。そしてそれは俺が大嫌いな種類の顔のはずだった。
なのにそれを正面に捕らえた瞬間、何故だか俺は目頭が熱くなるのを感じた。
とはいえ吐きそうなわけではない、ただ何故か胸のあたりが激しく苦しくなり、そしてあれほど頑なだったか半身までうずいている。
今更のように媚薬が効いてきたのかと唖然としつつ、俺は持っていた洗面器でさり気なく股間を隠すと、ポカンとしている女から写真をひったくった。
そこで、俺は少し後悔した。
女は顔色は悪いだけでなく怪我をしていたのだ。その上腕には、太い点滴まで刺している。
気付くのが遅かったとはいえ、そんな相手から、奪うように写真を取り返すのは酷い行為に思えた。
「拾ってくれてありがとう。これはその、大事な物なんだ……」
情けないほど掠れた声でそう言って、俺はそれをズボンのポケットにしまう。
だがそのとき、俺は妙な違和感を感じた。
それは確かに俺の写真なのに、先ほどの写真より妙にしっくり来るのだ。
もう一度取り出し、写真の表面を指でなぞると更にしっくり来る。
手に馴染んでいるというか、触り慣れた感じがするのだ。
どういう事だろうと怪訝に思う俺に、ようやく女がゆっくりと動いた。
「あなたが落としたのはこっちです」
そう言って差し出された手には、俺が持つ写真と全く同じ物が握られていた。
いや全く同じではない。女が持つ物の方が傷も少なく、そして艶やかだった。
写真を見て、そして女を見て、俺ははっと息をのんだ。
息をのむと同時に熱かった目頭から涙がこぼれ、同時に膝からその場に崩れ落ちていた。
突然のことに驚いたのは彼女の方だった。ギョッとした顔で看護婦を呼ぼうとするので、それだけは何とか止めさせる。
「大丈夫だ、ごめん、大丈夫だから」
誰にも見られないようにカーテンを閉め、それから俺は食い入るように彼女を見た。
彼女も俺を見ていた。
それだけでこんなにも胸が苦しくなるのは、世界中でただ一人しかいない。
「ここにいるのは、俺の所為か?」
尋ねると、彼女は困った顔で笑う。
でもそれは肯定に思えた。彼女のやつれ方は尋常ではない。そしてその原因は俺との勝負に関係していると考えるのが自然だ。
「どこか悪いのか? もしかして命に関わる病気でもしたのか? 実は目の前にいるのは幽霊で、実物はオペ室で心停止してるとかないよな?」
それを確認するために抱きつきたかったが、それをするにはあまりに彼女は細すぎた。
触りたくないのではない、触ると壊れてしまいそうだったので俺は近付けなかったのだ。
でも彼女は静かに苦笑すると、見覚えのある仕草で腕を広げてくれる。
「死んでませんし死ぬ予定もありませんよ。言ったでしょ、2ヶ月で戻るって」
その声に、言い方に、懐かしさを感じながら俺は彼女に縋り付いた。
抱きしめるとやはり彼女は折れそうで、俺は今更のように自分の過ちの大きさを知った。
ごめんと繰り返しながら彼女を抱けば、「坊ちゃんは泣き虫ですね」と耳元に優しい声が響く。
「泣くより謝りたいのに、止まらないんだ」
「謝罪と涙が一緒に出るのは、いつものことでしょう」
「ごめん」
「別に責めてる分けじゃありません」
そう言って優しく撫でてくれるその腕は、例え細くても俺の恋人の、リナの物だった。
見た目は変わったが声とにおいで俺にはわかる。ここにいるのは彼女だ。
そして彼女を、声とにおいでしか判別できないほど変えてしまったのは俺だと、俺は今更ながらに自覚した。
同時に、俺は自分に対して酷く腹を立てていた。
彼女はこんなにも酷い状態になっていたのに、俺はそのすぐ横で、自分に都合の良い事ばかり考えていたのだ。それを思い出すと、今すぐ自分で自分の首を絞めてやりたくなる。
でもそれはまだあとだ。今はとにかく、彼女に謝罪をしなければならない。
「本当にすまない」
「それは何に対して?」
今までの全部だと、俺は涙と鼻水を拭いながらリナを見つめた。
冗談でも愛人だなんて言うのではなかったこと。
そしてそれをすぐに謝罪しなかったこと。
リナの怒りを煽るようなことばかり言ったこと。
怒ったリナが無理をすることを予想すらしなかったこと。
そしてMサイズになったと聞いたとき、最も心配すべき事を心配しなかったこと。
数え始めたらきりがないたくさんのことを、俺は詫びた。
「お前がこんなに細くなるだなんて思わなかったんだ」
「がっかりしました?」
「がっかりしたのは自分にだ。相当無理をしたんだろう? 大丈夫なのか?」
俺の言葉にリナがばつの悪そうな顔をする。
「私も坊ちゃんのことをバカに出来ませんね。もう少し、余裕を持つべきだって途中で気付いたんです」
こけてしまった頬を撫でながら、俺はリナを見つめる。
「坊ちゃんを後悔させたくて少し無理をしすぎました」
「その目論見は大成功だ。だからもう無茶はしないでくれ」
それから俺は、リナの体をもう一度良く検分する。
「本当に大事はないのか?」
「ここに運ばれたのは軽い貧血で……。ただ自転車に乗っているところだったので、派手に転んでしまって」
リナが自転車だなんて2ヶ月前までは想像もつかなかった。そして想像をつかないようなことをさせるべきではなかったと俺は再び凹む。
「そっちの怪我はたいしたことないんです。でも急な減量の所為で検査に引っかかってしまって……」
「悪いのか?」
「大丈夫だろうとは言われました。顔がやつれてる所為で細く見えるけど、腰回りとかまだ太いところもあるし」
ただ……と、リナは口ごもる。
その先を聞きたかったが、はっきりした物言いをする彼女には珍しく酷く躊躇う様子を見せた。
それでも気になって催促すれば、彼女は酷く不安そうな顔で口を開く。
だがリナが言いかけた言葉は、残念ながら俺の耳に入ってこなかった。
なぜならそこに、花を持った親父が乱入してきたからである。
「遅れてすまない」
とにこやかにやってきた親父は、リナに抱きついている俺を見た途端、酷く驚いた顔をする。
それどころか、感嘆の声まで上げる。
「お前、リナが関わると本当に鼻が良いな」
「どういう意味だよそれは!」
怒る俺を無視して、親父はリナに花を渡す。
親父がリナのことを知っていて話さなかったのは明白だ。その上律儀に花を買いに行っていることが、更に腹が立つ。
「俺には花はなかったぞ」
見当違いだとわかっていてもぶつけずにいられない怒りをぶちまければ、親父は逆に不思議そうな顔をする。
「これは見舞いの花ではなく、お祝いの花だ」
「リナが倒れたのが嬉しいってのか!」
やはり彼は俺達の仲を喜んでいなかったのだと気付き、俺は怒りで体が震えた。
けれど一度生まれた怒りは早々静まらない。
俺は倒れたことも忘れ、親父の胸ぐらをつかみ上げた。
そのまま右手を振り上げたとき、リナが慌てて間に入った。
「やめてください坊ちゃん」
「こいつはお前が倒れたことを喜んでるんだぞ!」
「見方によっては嬉しいことですから!」
「事故で病院に担ぎ込まれることがか?」
「いやそうじゃなくて、ただその嬉しいことも確かにあって」
「自転車に乗れたことか? だったらこんな所で花を渡すより、あとでマウンテンバイクでも送ればいいだろう!」
「そうじゃなくて……。そうじゃなくて私、子供が出来たかもしれないんです」
その言葉と、俺の拳が親父の頬に激突するのはほぼ同時だった。
リナの言葉にあんまり驚いた所為だろう、俺は予想以上に腕を強く振り下ろしてしまったようだ。
倒れた親父はぴくりとも動かず、俺の口からは痛みを訴えるうなり声しか出てこない。
それでも何とか会話を続けたかったが、騒ぎを聞きつけた医師達に俺は取り押さえられてしまった。
だがここで離れたら、もう二度とリナに会えないような気がして、俺は無理矢理医者達をはね飛ばし、彼女の腕を掴む。
「怒っていますよね?」
「怒ってるのは、こんな素晴らしいことを俺より先に親父に話した事だ!」
「素晴らしいと、思ってくださるんですか?」
「当たり前だろう、俺とお前の子供だぞ!」
「でも愛人との間に子供が出来るのは、嫌じゃありませんか?」
どうやらリナは、まだ愛人話を引きずっているらしい。
そこでまた医者に取り押さえられたたが、誤解があるまま彼女と離れるわけにはいかない。
俺は最後の余力で医者達の腕を振り払い、そしてリナの唇を奪った。
「さっきも言ったが、アレは嘘だ! 俺はお前を、結婚相手としか見たことはない!」
だから結婚しようと言いたかったのに、いつの間にか屈強な黒人看護士に、俺は後ろからタックルを決められていた。
その上床に押し倒された勢いで、どうも頭を打ったようだ。
気がつけばまた世界は回り、遠くでサイレンの音がする。これじゃあホテルの時と同じだ。
けれど抵抗もむなしく、俺は黒人の巨体の下であっけなく意識を失う。
本当に、今日は厄日だ。