誘拐と勝負
ゴミの処分を他の使用人達に任せ、私が少ない荷物と共に家を出たのはその日の夕刻のことだった。
頂いたお暇は2ヶ月。その間、私は友人の家に厄介になることになっている。
目的の家は前方に広がるセントラルパークの丁度反対側だ。
日が暮れかけているし、ここは華麗にタクシーでも拾いたいが、通りに出たとたんそれは無理だと気付いた。
手を挙げた直後、私の目の前に見慣れた高級車が私の前に止まったからである。
「乗れ」
と車の窓から顔を出したのは坊ちゃんだった。
一度こてんぱんにされたくらいではめげないと思っていたが、まさかこうも早い復活を遂げるとは正直思わなかった。
「謹んで辞退致します」
「乗れ」
「坊ちゃん、その顔の横についている物は飾りですか?」
「もういい、乗らないなら俺が乗せる!」
開いた扉から伸びてきた腕が、私を車に引きずり込んだのは宣言とほぼ同時だった。
扉が閉まるやいなや走り出す車。行き先は告げていないが、運転手はかなり強くアクセルを踏んでいるため逃げ場はない。
「坊ちゃん、これは立派な誘拐ですよ」
「別にお前から身代金を取るつもりはない」
「でも脅迫するつもりでしょう」
考えを改めない限り降ろさないと平気で言うのが坊ちゃんである。
むしろこのままどこかのホテルに連れて行かれ、軟禁されないとも限らない。
実際二十歳のお祝いに坊ちゃんから指輪を送られたとき、高すぎて受け取れないと拒否したら、「指にはめるまで外に出さない」とセントレジデンスのスイートルームに3日間軟禁されたことがある。
結局あのときは私が折れたので、今回もそれを見越しているに違いない。
椅子に座り直しながら、私は坊ちゃんの出方をうかがう事にした。
だが部屋での厳しい態度が功を奏したのか、坊ちゃんはなにやら難しい顔で黙っている。
代わりに、コホンと咳払いをしたのは運転手だ。
「坊ちゃんから、リナの送迎を頼まれております。よろしければ目的地をおっしゃって頂けませんか」
今の今までそんな気の利いた事をされたことがなかったので、私は正直驚いた。
だがこのまま無駄に車を走らせるのも申し訳ないので、私は友人の家の住所を告げる。
「かしこまりました。坊ちゃんも、よろしいですね?」
運転手の言葉に、坊ちゃんは黙って頷く。
それから彼はわざとらしく私と距離を置き、そして更に黙り込んだ。
私も言うべき事は全て告げていたので、これ以上坊ちゃんと喋る気にはなれなかった。
ぼんやり窓の外を見ながら、私が坊ちゃんの無言の訴えを無視し続けること10分。
やはりというかなんというか、坊ちゃんが唐突に愚痴り出した。
「2ヶ月も会えなくなるのに、別れの言葉も言わないつもりか」
拗ねたその声があまりに子供っぽくて、私は思わず笑ってしまう。
「真面目に言っているのに、何だその態度は!」
「いえ、本当にあなたは面白いなと」
「面白くなどない! お前の所為で、俺は身も心もボロボロだ」
「その割にはお元気そうですが」
「元気ではない! 元気ではないが、ボロボロのままでいてもお前を引き留められないから! だからこれは空元気だ!」
何ともおかしな主張をしつつ、坊ちゃんは私をじっと見る。
「そんな目をされても、考えは変わりませんよ」
「わかっている」
「じゃあ何故そんな顔をするんです」
「お前のことを目に焼き付けておく。そうすれば、あのヘンテコなカウンセリングも耐えられそうだからな」
坊ちゃんの言葉に思わず驚くと、心外だという顔で坊ちゃんはむくれる。
「俺だってバカじゃない、一度怒ったお前がてこでも動かないのはわかってる」
「ちゃんと、受けて下さるんですか?」
「それで俺の性癖が変わるとは思わないが、真面目に受ければお前は帰ってくるだろう?」
さり気なく、坊ちゃんは私の手を握る。本当は振り払うべきなのだろうが、ここは彼の覚悟に免じて好きにさせておいた。
それにきっと、彼がこの太い腕を触るのはもう二度とない。
「お暇は2ヶ月だけです。それがすぎれば、ちゃんと仕事に戻ります」
「わかった。ただし、一つだけ我が儘を言わせろ」
私が頷くのも待たず、坊ちゃんは私の手を更に強く握った。
「戻ってきたら俺と勝負をしろ」
「勝負?」
「本当にデブ断ちできるかの勝負だ。2ヶ月のカウンセリングを受けても、もしまだお前に欲情したら俺の勝ち。出来なかったら俺の負けだ」
「それは、カウンセリングを真面目に受けるという条件で?」
「そうだ。お前がセッティングしたカウンセリングやらなにやらは全てちゃんとやる。でももしそれでも治らなければ、お前の計画は無駄と言うことになる。そんなことに2ヶ月も付き合わされて、ごめんなさいじゃすまさない」
「私が負けたらどうするんですか」
「俺の言うことを、何でも一つ聞け」
愛人になれと言われるのだろうかと、坊ちゃんの言葉に少しだけ不安になった。
けれど坊ちゃんがあんまり真剣な目で私を見るので、最後は渋々頷いてしまった。
「わかりました。私に欲情したなら、何でもお聞きします」
「約束だぞ」
そういうと、坊ちゃんは私が昔教えた指切りを迫る。
「ハリセンボンだからな」
「わかっております」
そう言って小指を絡めたとき、車は目的地に到着した。
扉を開けてくれようとする運転手と坊ちゃんを制し、私は一人車を降りる。
「俺は絶対、デブ以外には欲情しないからな!」
「その言葉は2ヶ月後にお聞かせ下さい」
「わかった。では2ヶ月後に、お前の泣き顔が拝めるのを楽しみにしている」
坊ちゃんらしい勝ち気な台詞と私を置いて、車はゆっくりと走り出す。
途端に寂しさと罪悪感が胸を突き、私は自分を情けなく思った。
坊ちゃんは自信満々だが、あの勝負はどうあがいても私が勝つと決まっている。
坊ちゃんに宛ったカウンセラーやら療法士は皆評判が良いし、何より私には奥の手があるのだ。
きっと負けたと知ったとき坊ちゃんは私を酷くなじるだろう。今度こそ心底嫌われるかもしれない。
だがそれでも、一度決めたことは覆さないのが私の信条だ。
それでもうずく胸の痛みを必死に押し込めて。
私はたった一枚、破らずに持ってきた坊ちゃんの写真を撮りだした。
そこに映る私と坊ちゃんはまだ子供だ。私はデブな上に酷く暗い顔しており、対する坊ちゃんは、そんな私に抱きついて顔をニヤニヤさせている。
幼い頃から変態の片鱗はあったが、実を言えばその変態の部分に救われた時期もあった。
けれどもうそこに縋り付くわけにはいかない。
坊ちゃんの変態な一面に救われたからこそ、今度は私が坊ちゃんのために頑張るときなのだ。
坊ちゃんが素敵な結婚相手に出会えるように。そしてその方といつまでも幸せに暮らせるように、坊ちゃんの中にあるデブへの愛は駆逐せねばならないのだ。
彼のメイドとして、そして彼女としての最後の仕事をやり遂げるべく、私は来るべき勝負の日に向けて写真をきつく抱きしめた。
※1/8誤字修正しました(ご指摘ありがとうございます)