紳士からの呼び出し
「時計を買うならクロックワーク」のCMでおなじみ、庶民からセレブまで幅広い客層を持つ腕時計メーカークロックワーク社の社長、リチャード=クロックワーク。
そんな偉大なセレブの前に坊ちゃんの誓約書を手に立たねばならなくなったとき、私は本当に胃が痛かった。
それは別に彼の容姿や人柄が恐ろしいからではない。
穏やかな人柄と時計にかける情熱で社員と顧客に愛されてきた彼のトレードマークは、いつも絶やさぬ穏やかな微笑みで、使用人である私にも彼はいつも優しくしてくれる。
だが問題は、彼がとても優しい紳士であると同時に坊ちゃんの父親である事だ。
「ウチの息子がまた馬鹿なことを言い出したそうだが、大丈夫かね?」
と私を気づかうリチャード様の声はやっぱり穏やかで、逆に申し訳ない気持ちになってきてしまうのだ。
「別に君を責めている分けじゃないよ。ただ、少し話を聞きたかっただけなんだ」
心得ておりますと私は静かに頷けば、リチャード様は私の肩を気づかうように叩いてくれる。
坊ちゃんと私は、リチャード様と共に彼が有するニューヨークのペントハウスにすんでいる。
故に朝の珍事の詳細を教えて欲しいと、家主であるリチャード様から呼び出されたのはすぐのことだった。
この家には私以外にも7人ほど使用人がいるし、多分その誰かから話が回ったのだというのは見当がついていた。
とはいえ皆気が利く者達なので、伝わった話に無駄な尾ひれや憶測はないようだった。
それに感謝しつつ、私が事の次第を手短に説明しながら誓約書を渡せば、リチャード様は副社長が金を横領したときでさえ消さなかった笑みを消失させた。
なにせ誓約書には、結婚後はどれくらいの頻度で体を重ねろだの、どれくらいの金額で囲ってやるだのという生々しい事項が並んでいるのである。
そして何よりリチャード様は常識的な紳士なのだ。
坊ちゃんの行動を理解するのは酷く困難なことに違いない。
「すまないねリナ、後で私の方から叱っておく」
絞り出すような言葉は苦渋に満ちていて、むしろこちらが申し訳なくなってくる。
「ただまあ、私が言ったところで考えを改めるかどうかが問題だが」
ここでもまた、心得ておりますと私は頷く。
坊ちゃんとリチャード様は決して仲が悪い関係ではないが、恋愛の2文字がつくと、坊ちゃんがリチャード様の手に負えない暴れ馬に変身するのはいつものことだ。
とはいえ別に、リチャード様が多くの金持ち同様、愛人を囲ったり家族を無視して羽目を外した反発で、その手の言うことを聞かないというわけではない。
むしろリチャード様は、その手のことに金を使うなら息子と野球を見に行くタイプの方だった。早くに母を亡くした息子を、大切に大切に育ててきた方なのだ。
大切にしすぎて、坊ちゃんが異常な性癖に目覚めてしまったとき目をつむってしまったのは問題だったが、リチャード様の努力を思えばそれを責めることも出来ない。
むしろあれだけ変態なのに、有能な跡取りに育て上げただけで快挙である。
あの物言いからは信じられないが、坊ちゃんは恋愛以外のことは酷くまともで、リチャード様の跡取りとして仕事の方もまっとうにやっているらしい。
主にその恋愛面で迷惑をかけられている私にはにわかに信じられないが。
「なあリナ、君はこれをどう思う」
日頃の傍若無人な態度を思い起こし、眉の間に深い渓谷を作っていた私に、リチャード様が不意に尋ねた。
「お相手の方に失礼だと思います」
「他には?」
「リチャード様には申し上げにくいですが、クリス様の性癖には矯正すべきゆがみがあると思います」
そう言う私の体をじっと見て、それからリチャード様は慌ててすまないと目をそらした。
「たぶんその、あの子は無意識に母親の影を追っているのだろう。アンは君に似てとても大らかでふくよかだったからね」
「私はふくよかどころか完全にデブの部類ですよ」
気温が寒くなったせいか、今月だけで2キロも体重が増えている。けれどそんな私の腹部を抱きしめるのを極上の喜びとしているのが坊ちゃんである。
「リナの贅肉は世界一だ、この脂肪は絶対に手放さない」
と冗談ではなく本気で言ってくるのが坊ちゃんである。
もし雇い主の息子でなければ、本気で殴り飛ばしているところだ。
「差し出がましいようですが、クリス様にはその手の趣向を変えるカウンセリングを受けさせるべきだと思います。あのご様子だと、結婚生活が破綻するのは間違いないでしょう」
私の顔に、リチャード様はまたしても申し訳なさそうに私を見る。
「そもそもこの結婚の話を了承させるつもりはなかったんだよ。クリスには君がいるし、絶対断ると思って話をしたんだ」
確かに、坊ちゃんの恋愛に口を出したことのなかった彼が、突然彼に相手を宛うのは不自然だと思っていた。
何せはじめて坊ちゃんに告白された15の時から、リチャード様は交際に文句ひとつ言わなかったのである。
あのころから私はまん丸で、いじめられっ子で、セレブだらけの社交場では浮きまくるタイプの少女であったにも関わらず、彼は今の今まで別れろと言ってきたことはない。
「ねえリナ、君はどうしたい?」
そして相も変わらず、リチャード様がそんなことを言う。
彼の優しさはわかっているから、彼が何を言わせたいかもよくわかる。
けれどそれに乗るほど、私は女々しくはない。
「クリス様が普通の女性を愛せるよう、少し手を打とうと思います」
私の言葉にリチャード様は残念そうだったが、あの子のことは任せると最後は頷いた。
「クリスは君に甘えすぎていたしね、これも良い機会かもしれない」
「では多少手荒なことを行っても?」
「好きにしてくれていい、君にはその権利がある」
「ではさっそく、クリス様にはデブ断ちをして頂こうと思います」
きっぱりすっぱり言い切れば、リチャード様は酷く不安そうな表情になり、それから躊躇いがちに頷いた。