最悪の朝
媚薬に300ドルも払い、女どもに叩かれまくり、下らない理由で病院に担ぎ込まれたあげく、翌朝目を覚ました俺の前にあったのは鉄格子だった。
病院で目覚めたときとは違い、俺はそこにいる理由をおぼろげではあるが覚えていた。
もちろん、原因はあの大暴れの所為である。
おぼろげな記憶の中で、俺はめちゃくちゃ怒られていた。
リナと親父は擁護してくれたが、医者達をはね飛ばしたのがどうやらかなりまずかったらしい。
怪我人は俺と親父だけなので訴訟にはならなかったが、少し反省しろと牢屋に放り込まれた光景は、途切れ途切れにだが記憶している。
とはいえ、投げ込まれるなりあっさり爆睡してしまったので、全く反省はできていないが。
「出ろ、迎えだ」
その上運良く、寝ている間に俺のお咎めタイムは大方終わっていたらしい。
今更だが運が戻ってきたなと、俺は喜び勇んで牢から出た。あまりの笑顔に警官から軽くこづかれたほどだ。
とはいえそれ以上の暴力を受けることはなかった。
俺の素性がしれているか、もしくは静かに一晩をあかした俺に、その手のお仕置きはいらないと思っているのかもしれない。
まあ静かにと言うより、反省もせずひたすら寝ていただけだが。
「もう来るんじゃないぞ」
事務的に手錠を外し、俺の持ち物を返してくれた警官は、ドラマなどで良く聞く台詞を俺に言うと、予想以上にあっけなく開放してくれた。
本当にあっけなさすぎて、俺は5回も後ろを振り返りながら警察署を出たくらいだ。
でも6回目に振り返ろうとしたとき、俺はある物を見つけ、動くことが出来なくなった。
それは、警察署の前に止まっていたうちの車だった。
けれど問題は車ではなく、その傍らにリナが立っていたことだ。
それを頭が理解すると同時に、俺は彼女にかけより、返して貰ったばかりのコートで彼女を包んだ。
「病人が体を冷やすな!」
思わず怒鳴ってしまってから、さすがにいきなりすぎたかと後悔した。
けれど俺のコートを撫でるリナは特に怒る様子もなく、彼女らしい飄々とした顔をしている。
「もう退院したので大丈夫です。それに私は坊ちゃんのお迎えです」
「例えそうでも、せめて車の中にいろ」
というか今すぐ入れと、俺は車のドアを開け彼女と一緒に素早く乗り込む。
「なんだか、2ヶ月前みたいですね」
何て呑気な感想を呟くリナに呆れながら、俺は彼女を見る。
それと同時に、車は警察署の前から素早く走り出した。向かっているのはペントハウスのあるアパートらしいと気付いて、今更のように彼女が俺を迎えに来てくれた事を実感した。
「本当に大丈夫なのか?」
「はい」
「だけど俺の迎えなんて、アナベルにでもやらせればいいだろう」
「アナベルはリチャード様についておりますので」
そういえば、親父を殴り飛ばしたことをすっかり忘れていた。
「親父は生きてるか?」
「歯を3本ほど差し歯にしなければいけませんが、おおむね元気です」
あと顔が酷く腫れていて外出も当分無理です。というリナの言葉を聞き、ちょっといい気味だと思った。勿論口には出さないが。
「それに私が、迎えに来たかったので」
「今の言葉は死ぬほど嬉しいが、本当に退院して良かったのか?」
「しばらく通院はするかもしれませんが、入院するほどではないので」
そう言うリナの顔色は、たしかに再会したときよりだいぶ良い。
だがそれでも、通院という言葉に俺の気は沈んだ。
そんな俺に気付き、リナが少し困った顔をする。
「謝らなくて結構です。体に悪いと知っていて、それでも実行したのは私ですから」
「でもそのきっかけは俺だ」
「ならどちらも悪かったと言うことで」
「なら9対1で俺が悪いことにしてくれ」
「7対3なら手を打ちます」
「8対2」
「坊ちゃんが思う以上に、私は酷い女だからそれくらいがいいんです」
「…そうは見えないけど」
と言いつつも、リナが頑ななので最後は俺が折れる。
「8対2で手打ちにする」
するとリナが、俺の肩に小さくなった頭を乗せた。
その仕草は、リナがよく見せるの仲直りの合図だ。
幼い頃から俺はリナを怒らせることが多く、そのたびに寄るな触るなと接触禁止例を言い渡される事が多かった。それは彼女の脂肪を触らずにはいられない俺への最高の罰で、俺はそのたびに泣きじゃくったものだ。
けれどリナは絶対、俺が謝るまで許してくれない。それも誠心誠意謝るまで許してくれない。
だが一方で、謝罪が成功すると、彼女は自分の方から俺に近づいてきてくれる。だからきっと、これも成功の証だと俺は確信した。
「坊ちゃん」
「なんだ」
「私、細くなったでしょう」
唐突な言葉に驚きつつ、俺は素直に見違えたと答える。
すると僅かな沈黙が流れ、そしてリナがぽつりとこぼした。
「だから、もう二度と触って貰えないと思ってたんです」
静かな告白のあと、リナは俺の唇を優しく奪う。
彼女から口づけをくれたのは、これが初めてだったので俺は泣きそうになった。
けれど言葉を失う俺に何を勘違いしたのか、リナは酷く不安そうな顔をする。
「前より柔らかくなくて、がっかりしたでしょう」
「正直に言えば、そりゃあ前の方が感触は良いさ」
ここで嘘をついても仕方がない。むしろ嘘を重ねても何の良いこともないとわかっていたので、俺は真実を口にする。
「しかしこれも好きだ。悪くない」
「けどこれが続くのはいやでしょ? 私、医者から太りすぎは駄目だって言われてしまって……。とくに急な減量で体に負担がかかってるから、子供のためにも食生活はちゃんとしなさいって」
「もちろんそうすべきだろう」
「でも坊ちゃんは、それでいいんですか? 私に脂肪がなくてもいいんですか?」
抱き心地は前の方が良かった、と思ったのは残念ながら事実である。
でもそれがリナであるなら、きっとすぐに慣れる。むしろ新しい快感をもたらしてくれる。
「細くてもお前ならば我慢できるし、今でもやっぱり、ほっと出来るのはお前の側だけだ」
「でももし私そっくりな太った女性が現れたら、そっちの方が良いでしょう?」
「確かに脂肪は好きだ。でもリナに脂肪が付いてるから良いんだ。リナじゃなきゃ駄目なんだ」
それを俺はこの2ヶ月で痛いほど知ったのだ。
「リナを失うくらいなら、俺はお前以外の女にたたなくなっても良い。自分以外のデブに欲情するなと言うなら、デブ断ちも引き続き頑張る」
だから結婚しよう。夫婦になろう。俺だけの物になって欲しい。
ついに、俺はずっと言いたかった言葉をリナに告げた。
酷く真面目な顔で、彼女だけをしっかりと見つめて。
なのに次の瞬間、リナは俺の顔を見て吹き出した。
「何で笑うんだ!」
「すいません、あまりに坊ちゃんらしかったのでつい」
「俺は真剣に告白してるんだぞ!」
「その真剣さが、なんかおかしくて」
リナの言葉に俺は激しくショックを受けた。
だが驚いたのはそのあとだ。
リナが、笑いながら泣き始めたのだ。
「泣くほどおかしかったのか?」
「ごめんなさい、すぐ止めます」
「別に止めなくて良い。それとも、俺はまた何か酷いことを言ったか?」
「違います。ただなんか、ホッとしてしまって、そうしたら涙が……」
リナの涙に、俺はもう一度深く深く反省した。
多分俺は、俺が思う以上に、いや彼女が思う以上にリナのことを傷つけたのだ。
デブ断ち計画と過酷な減量は、多分彼女の痛みの証だったのだ。
淡々としているからわかりにくいけれど、彼女は傷つき、そして猛烈に怒っていたのだろう。
そう思えば彼女の強引なやり方もしっくり来る。
「私、思った以上に坊ちゃんのことが好きだったみたいです」
「過去形か?」
「ごめんなさい、今も好きです」
「まるで悪いことのように言うな。詫びるのは俺だけで良いんだ」
先ほどよりはっきりと謝罪を告げながら、俺は彼女を抱き寄せた。
「むしろ前より好きかもしれません。坊ちゃんが私を見て泣いてくれたとき、嫌われたくないって凄く思いました」
「嫌うわけないだろう」
「でも私は、もう80キロのデブじゃありません」
「デブじゃなくていいと、何度言わせるつもりだ。それに安心しろ、お前が泣いてるトコ見たらあそこもちょっと反応した」
俺が言うとリナがまた吹き出した。
「やっぱり変態ですね」
五月蠅いと呻いて、俺はリナの涙を指で拭う。
泣いている彼女も魅力的だが、やっぱりリナは笑っている方が良い。
「変態な所は治らないかもしれないが、それでお前を泣かせたりはしない。もう二度と」
「かもしれないじゃなくて、きっと一生治りませんよ」
誰よりもそこはわかってますからと、微笑むリナは細いがとても美しかった。
「訂正する、俺は一生変態だしやっぱりどちらかというと太った女が好きだ。だけどそれ以上にお前が好きなんだ」
だから結婚してくれと、今度は笑われないように更に気をつけていった。
「痩せている私でよければ」
そう言うリナは本当に可愛くて、俺は思わず何度も何度もキスをした。
でも吐き気は勿論来ない、むしろちょっとムラムラしてしまった。
「家に帰ったら、色々やばそうだな」
「考えがだだ漏れですよ」
「だって2ヶ月もリナに触れてなかったんだぞ」
と言って首筋にキスをしたら、リナに頭を叩かれた。
「ここでは駄目です」
「じゃあ家で」
「構いませんが、その前にまずリチャード様に謝罪と報告をなさってください」
途端に俺は気が重くなった。
「親父がすんなりOKしてくれる気がしない」
「そんな事無いですよ」
「でも、あいつは俺達のことを良く思っていない」
だから気が重いと素直に言うと、リナが酷く驚いた顔をする。
「そんなわけないでしょう。今こうして坊ちゃんのお迎えが出来ているのも、リチャード様が許可してくださったからですよ」
「でもこの二ヶ月、俺は散々茶化されてきたんだ」
「きっと心配で口を挟んでいただけですよ。デブ好きが祟って、結婚に苦労されたとおっしゃっていましたし」
ちょっと待てと、俺は思わずリナの話にかみついた。
「あいつも、まさか俺と一緒なのか?」
尋ねると、リナが呆れた顔をする。
「坊ちゃんほどの変態が、一世代で形成されるわけがないでしょう」
「何だその理屈は!」
「良くリチャード様に謝られるんですよね。坊ちゃんが私に迷惑をかけるのは、ご自分の変態遺伝子を受け継いでしまったからだって」
「そんなこと言うなら、俺の子供は更に変態になるって事だぞ」
「坊ちゃんが酷すぎるので、むしろ反面教師で少しはマシになりますよ。リチャード様も分をわきまえた変態ですし、何より私は普通ですし」
と言うリナの笑顔はビックリするほど可愛かったが、その言い分は納得いかなかった。確かに変態の自覚はあるが、変態の頂点扱いされるのは嫌だ。
「絶対、子供は俺より変態に育ててやる」
「やったら離婚ですよ」
結婚する前から離婚届を叩き付けられるなんて酷い話だが、俺を失意のどん底に落とすためならリナはどんなことでもやる女だ。
それは2ヶ月でここまで痩せた体が証明している。
「……俺は、もう二度とお前に勝てない気がするな」
「そもそも勝ったことがありましたか?」
「ないけど」
「なら無駄なことはなさらないでください」
もちろん素直に同意は出来なかったが、そうやって久々に彼女に叱られるのも悪くはないと一瞬思った。やはり俺は色々と変態だ。
「聞いていますか?」
「わかってる、これからは前以上にお前の言うことを聞く」
だから死ぬまで一緒にいてくれと、俺はリナの頬に唇を落とした。




