4回目
涙も涸れたと思っていた。
オレは西夫人なんて呼ばれていても、将軍が快楽を貪るための道具に過ぎない。
具合が悪ければ棄てるのが当然なのかもしれない。
頼むからひとりで散歩させてくれ――って、侍女を拝み倒したオレはその日、よちよちと杖を突きながら庭を歩いていた。
将軍が朝から不在だということもあり、屋敷の雰囲気はいつもよりものんびりとしたものだった。
緑色の薄い葉が玉のように鮮やかな庭でぼんやりとしていた。
丸く刳られた出入り口の向こうは、将軍の居住区になる。
その塀に背もたれていた。
しゃがみこみたいところだけど、足の先半分くらいを断たれて整形されてしまったオレにとって、その動作は辛いんだ。どうしても膝から下を地面にぺったりとつけないとならなくなる。
足も杖を抱える脇の下も痛かった。
調子に乗って歩いたからな。
風が通り抜けるたび、庭の色んな木の葉が揺れて音をたてる。
それが、草原を思い出させるんだ。
草の揺れる音。
どこまでも続く緑の大地を、風が駆け抜けてゆく。
そこに寝っころがって空を見上げると、青い空に白い雲がながれてゆくのが見える。
遮るものもない、まぶしいくらいの空の色だ。
胸いっぱいに、草の匂いを吸い込んで、吐き出す。
そうして、目を瞑るんだ。
馬が草を食む音や、小さな虫のたてる音。
あれは、何よりも気持ちのいい時間だ。
ここには、ない。
現実に立ち返ると、不様な自分のありさまに、立ち竦んで動けない。
一歩踏み出すその方向すらわからないんだ。
どうすればいいんだろう。
背中を岩壁に押し当てて、細い道の下は、断崖絶壁で、何かの拍子で足を滑らせることすら簡単に出来るに違いない。
奇跡でも起きて、誰かが綱を投げてくれでもしないかぎり、オレは、ここで怯え続けるんだろうか。
女たちのひそめた声が塀の向こうから聞こえてきたのは、オレが涙を堪えようと空を仰いだときだった。
長いわね。
旦那さまも、いつになくご執心。
奴隷あがりで、男なのにね。
これまでだと、飽きられれば捨てていらしたのに。
奥さまが身罷られてからというもの、情け容赦なくおなりでしたのに。
少しでも媚びるようになったら、部下に下げるか、追い出すか。
お手打ちというのもありましたよ。
ああ。
あれは、旦那さまを裏切って、他の男に気のあるそぶりを向けたからでしょう。
妓女上がりでしたから。
あれからすっぱり、旦那さまも女性を侍らすことをおやめになられていらしたのに。
いつの間にやら、御夫人たちもひとりもいなくなられて。
すっかりお屋敷も静かになって、寂しいって思っていたら。
今度は、男。
奴隷。
しかも、異人。よりによって、もとは敵の兵。
でも、今は、西夫人。口を慎まなければね。
確かに、整った顔はしておいでだけれど。
あんなにまでしてお傍に置かれたいほどなのかしら。
なんにせよ、捨てられないだけお幸せですよ。
それを最後に塀の向こう側の声は、静まり返った。
汗が滴り落ちる。
目の前が、くらくらと歪んだ。
どこでもいいから腰を下ろしたかった。
このままでは、頽ることすらできないで、倒れ伏してしまうだろう。
石畳の上でそれは避けたいことだった。
だから、オレは、杖を使った。
やっきになって、塀から遠ざかろうとした。
遅々として進まない足に苛立ちが募る。
しだいに限界が近づいてくる。
空気を求めて喘ぐように口を開けた。
滴る汗が、眇めるように細めた目に染みる。
生理的な涙がにじみ、汗に混じった。
「あぶないっ」
耳を打つ男の声に汗が冷たくなる。全身を温めていた血流が、瞬時にして引いてゆく。
将軍の帰りが遅いことは知っていた。それでも、別に逃げるつもりなどない。
ただ独りになりたかっただけなのだ。
侍女の目も声もなく、ひとりぎりに。
身を硬くして目を瞑らずにいられなかった。
「大丈夫ですか」
心配そうな声に目を開けた。
「遠医師………?」
まだ薄ら昏い視界の中に、彼の顔があた。
二十代半ばほどに見える若い医師が、
「失礼を」
とつぶやいて、傾いだままだったオレの膝裏を掬い上げるようにして抱きかかえたのだ。
「え…………」
視界と同じくひっくり返ったオレのからだが、激しい鼓動に震えあがる。
将軍を別にして、遠医師はオレのからだのすべてを知っている。オレを囲う将軍に命じられてのこととはいえ、元々軍医の家系の出だというこの男が、オレのからだを変えていったからだ。
穏やかでやさしい雰囲気とは別の、冷徹とも見える顔をオレもまた知っている。
そう思えば、オレが怯えたとしても不思議ではないだろう。
オレの感情を悟ったのか。
遠医師の眉間がかすかに暗く翳ったような気がして、オレは目をしばたかせた。
べたべたと白く塗られて目や口頬を彩られているオレの顔は、見れたものじゃないだろう。けど、このときオレはそれを忘れて、遠医師を凝視してしまった。
「怖がらないでください」
すまなさそうな困惑したような、それでいて喉に絡んだような声で、遠医師がささやいた。
「もうあなたを傷つけることはありませんから」
「……気休めはいいよ」
口角が震える。
「―――夫人」
「将軍に仕える者として、私はこれから先なにもできはしません。けれど、私もあなたをこれ以上苦しめたくはないのです」
今更と思った。しかし、オレを見下ろすまなざしの真摯さに、オレは心の奥深いところが捩れるような錯覚に襲われた。
奴隷に落とされてから初めてだった。
冷たく硬い声や態度にさらされていたオレには、オレを玩具だと貶めつづける将軍の指先ひとつ、言葉まなざしのひとつに、動揺しないでいられなかったんだ。
涙がこぼれた。
そのときから、オレの心は遠医師に惹かれていった。
駄目だと、自分を戒めれば戒めるたびに、心が遠医師に向かうのが感じられて、オレは苦しんだ。
こんな身になってはいても、オレは紛うことなく男なのだから。
たとえ将軍に日々抱かれているからとはいえ、心まで男に抱かれることを望んではいない。
―――望んではいない。
慕わしいという思いと肉欲とは、必ずしも一致しないはずだ。これはたぶん、折れそうな心が何かにすがりつきたいと、心の拠り所を求めたからなんだろう。
第一。
遠医師が望むわけもない。
気持ち悪いとでも思われたりしたら、悲しい。
それに、もしも将軍に知られたりしたら。
自分が望んだ境遇でなくても、一応オレは夫人などと呼ばれている。もしも、そのオレが遠医師に惹かれているなどと知られでもしたら。
『お手打ちというのもありましたよ』
『あれは、旦那さまを裏切って、他の男に気のあるそぶりを向けたからでしょう』
女たちの噂話がよみがえる。
オレは仕方ない。
けど、オレのせいで遠医師が酷い目にあったりしたら。オレは、悔やんでも悔やみきれないに違いないのだ。
オレには、態度を変えるつもりなんか、これっぽっちもありはしなかったんだ。
それからしばらくの間は何事もなかった。
オレは相変わらずだったけどな。
将軍がなにか気づいているみたいには思えなかった。
それよりも、きな臭い噂が広まっているみたいだった。
オレのとこまで、戦が始まるだろうなんてざわついた空気が伝わってくるんだ。
「もう……………」
快感に喉がつまった。触れてくる指の一本さえもを苦痛に感じるほどに高められて、全身が小刻みに震え揺れる。
終わってほしい。
どこもかしこも熱をはらんで、滴る汗すらも過ぎる快感に繋がった。
執拗な愛撫と律動。
埋め込まれている箇所は引き攣れて、痛みが快感に結びつく。
切なくて悲しくて、どうしようもなかった。
激しく揺さぶられて、声にならない悲鳴をオレはあげた。
戦への期待からか、いつもよりも猛り激しく、将軍はオレを苛んだのだった。
一応はオレも兵士だったわけだけど、特に戦が好きってわけじゃない。
オレは徴集されるまでは平凡な羊飼いだったからだ。それまでは馬に乗って広い草原に広がった羊を集めたり放したりして暮らしていた。
家族はいなかった。親父はやっぱり徴集されて、以来行方不明だ。オレみたくどっかで奴隷として暮らしてるのか、それとも戦死したかのどっちかだろう。おふくろは実を言うとオレとの血のつながりはない。ふたり目だったし、この国の人間だった。奴隷としてつれてこられて、親父に惚れられて半ば略奪されるようにして親父の妻になったらしい。あまり気にしたことはなかったけど、だから少しほかの女に比べたら心が弱かったのかもしれない。生まれたばかりの妹をすぐに亡くすと、親父が徴集されたことで、心を壊してしまった。妹が生まれるときにからだを壊していたっていうのもあるんだろうけど、その冬が深くなったとき、あっけなく死んじまった。オレが十四の冬だ。以来三年、オレはずっとひとりきりだったんだ。
この国を打ち負かすことは、オレの国の悲願だった。その理由は、この国に蹂躙されたからだ。
国境を越えてやってきたこの国の兵たちがオレの国になにをしたか。
国土を荒らし、まるで異民族のオレたちは人間じゃないとばかりに狩のように殺し犯し、女子供を奴隷にして連れて行った。
最初は防衛一方だったものが、いつしか、反撃侵略略奪と変化するのは自然なことなのかもしれない。だからって、それが良いことだとはいわないけどな。それでオレたちだってしんどい目を見たわけだしさ。けど、男はどうしても戦となれば血に猛る。勲をあげようと、無茶をする。いつもは嫌なのに、戦の最中は、血を見ると、血の匂いをかぐと、なぜか全身の血が沸き立つんだ。
命令が下ったんだろう。
ある日、ついに、将軍は出陣していったんだ。
後に残ったオレはといえば、心もからだもずたずたのへろへろだった。
戦の予感に逸った将軍は、いつもよりも酷い行為をオレに強いたんだ。
縛りつけたり鞭を使ったり、気味の悪い道具で散々もてあそばれた。
オレの意思も懇願もことごとく無視されて、ただ将軍の快感に奉仕する抱き人形のようにして扱われたんだ。
そうして朝、投げ捨てられた襤褸のようなオレを見下ろして、
「行ってくる」
そう言って出て行った。
遠医師も当然出陣したものだと思っていた。なぜなら、あの朝オレの手当てをしたのは、遠医師ではなかったからだ。見知らぬ顔色の悪い男が、無表情にオレを治療して出て行った。最初から最期まで無言のままでだ。
もしも出陣の日を知っていたなら、その日までに遠医師が治療にやってくるようなら、オレはひとこと「ご無事で」と告げただろう。けれど、そんな機会は、なかった。オレは十日近くの間、一度も遠医師の顔を見なかったからだ。
どうしたんだろうと思った。
もちろん、オレと遠医師との間には、なにもありはしない。あるのはオレの一方的な感情だけだ。行動に移すつもりなど微塵もありはしない。それでも、将軍が許しはしないだろう予感があった。
不安だったけど、だからって、誰に聞けただろう。
下手に聞いて藪から蛇を出したりしたら、目も当てられない。
出陣前のあわただしさで、ただ来れないだけという可能性だってあるのだ。
オレはただ沈黙を守ってた。
オレが黙りこくってるのは、いつものことだったから、それなら誰も疑惑を抱くはずもない。
だから彼が来たときにはびっくりした。
そのときオレはぼんやりしていた。
将軍がいない毎日は、オレにはすることはなにもない。
いいご身分とかって思われてるんだろうなぁとか思いはするけど、下手なことをして機嫌を損ねでもしたらなにをされるかわからない怖さが、オレを無気力にしていたんだ。
椅子に腰をかけたままで格子窓から庭を眺めてた。
「西夫人」
ひそやかな声だった。
それでいて、思いつめたような硬さが感じられた。
驚きが過ぎてしまうと、無事な姿を見たうれしさよりも、不安が強くなったのはそのせいだ。
オレは阿呆みたいに、遠医師を見上げてた。
そんなオレになにを感じたのか、遠医師がオレを見下ろしてくる。
将軍と同じ黒い瞳なのに、どうしてこんなに違って見えるんだろう。
どうしてそこに慕わしさを見出してしまうんだろう。
遠医師が両手をオレに差し出した。
「?」
馬鹿みたいにオレはそれを見ていた。
「西夫人………」
もう一度名前を呼ばれて、オレは、顔を上げた。
ためらい、とまどい、怖気、いろんなものが混じった表情で、遠医師がオレを見下ろしている。
「私の手を、取ってくださいませんか」
密やかな声に、しかし、オレは撃たれたような心地がした。
喉に声が絡んでいた。
何か言いたいのに、押し出すことが出来ない。
「このままでは、あなたはまた、からだを変えられてしまいます」
耳から脳を直接何かが貫いたような衝撃だった。
また?
なぜ?
まだ、この上、どこを変えられると………。
まさか。
まだ、オレが男だと必死でしがみついていられるのは……………。そうだ、男である証をまだオレは持っている。
そんなことまで。
そこまで奪われてしまうというのか。
喉の奥から、笛のような高い音がほとばしる。
オレは首を横に振っていた。
「う………そだ」
見上げる先では、遠医師が痛ましそうにオレを見下ろしている。
そうして、オレは、オレの予感が遠からず現実になるだろうことを、思い知る。
「いやだ」
血の気が引く。
これ以上奪われるというのか。
「たすけて」
怖い。
怖くてたまらない。
またオレのからだを、オレの意思など無視して変えるというのか。
そのときにオレに襲い掛かるだろう痛みまでも予測して、オレは、自分のからだがどうしようもなく重くなってゆくのを感じていた。
息が浅く、脂汗が流れ落ちる。
間接のあちらこちらが重鈍い痛みをはらんだ。
頭が目が回る。
不思議なほど遠くで遠医師がオレを呼んだような気がした。
犬のような息をつきながら、オレは、遠医師が差し出してくれた碗から水を飲んだ。
かろうじて、気を失いきることは避けたらしい。それでも、今にも吐きそうで、頭も痛んだ。
「私はもう、西夫人を傷つけたくないのです」
からだを変える手伝いをもうしたくはない。そう将軍に申し出ました。愚かにも馬鹿正直に。
今、私はあなたの主治医などではありません。職を解かれてしまいました。過日、あなたの手当てをした者がいたでしょう。あの男が、次のあなたの施術の担当者です。
「もう、決まったことなの………か」
ぞっとした。
遠医師がオレの主治医を解かれていたことも衝撃だったけど、あの顔色の悪い男がこれから先オレのからだを変えてゆくのだと思うと、たまらなかった。
「とめることは、出来ませんでした」
眉間に皺を寄せて、遠医師が目を閉じる。頭を下げる遠医師に、
「あんたのせいじゃないし………」
ほかになにが言えただろう。
「いなくなっちゃうんだな」
寂しい。
「あんたが上手いのわかってるし、だから、まだ、安心だったのにな」
こんなことが言いたいわけじゃない。
でも。
だからって。
言えないっ。
なのに。
「手を取って、ほんとうに、いいのか」
そんなことをオレは口走っていたんだ。
オレは、自分が信じられなかった。
けど、オレよりも、遠医師のほうが、信じられなかったんだろう。
弾かれたように瞼を開いて、オレを凝視したんだ。
オレは、遠医師の手を握ろうと、手を伸ばす。
手が、からだが、無様なくらいに震える。
なにをしているのか、わかっていた。
これは、明らかに、将軍に対する裏切りだ。
わかっていて、止めることができなかった。
「オレがあんたの手を取れば、あんたもオレも、裏切り者だ。多分、殺されるだろう」
それでも、かまわないのか。
遠医師の黒い瞳が、不意にやわらかい微笑をやどした。
「あなたを愛したときから、承知の上です」
オレの手は、遠医師の手に触れる寸前に動きを止めた。
思いもよらないことだったからだ。
「遠医師?」
「愛しています」
ご迷惑ですか。
オレは、首を横に振った。
遠医師の手を握り、
「オレもだ」
それだけを、言った。
全身がしびれるような幸せを感じていた。
紙一重で地獄が口を開いているのを痛いくらいに知っていながら、それでも、オレは、遠医師がオレを抱き寄せるのをうっとりとして受けいれていたんだ。
そのままオレは目を閉じた。
互いの呼気を感じるまでに顔が近づいた。
触れるか触れないか。
遠医師の乾いたくちびるがオレのくちびるに重なろうとしたとき、オレは、なにか、聞いたことがある音を聞いたと思った。
そうして、オレは、オレのくちびるに冷たいものが触れたのを感じた。
オレと遠医師の間に、剣があった。
オレと遠医師のどちらも傷つけることなく、それは、存在したのだ。
いつ帰ってきたのか。
そんな気振りなど微塵もなかったのに。
将軍が、そこには立っていた。
オレと遠医師とを見るまなざしは、奇妙なくらいに人間味がなく、オレは、将軍の怒りをまざまざと感じていた。
「いい度胸だ」
罅割れたような声が、オレの耳を射抜く。
オレは、紙一重の紙が破られたのを感じていた。