『小さなコメント』
夜の二時を回ったアパートの一室。
蛍光灯の明かりを落とし、ノートパソコンの青白い光だけが、三十代半ばの男・マサトの顔を照らしていた。
机の上には、冷めたインスタントコーヒーのマグカップと、書き散らしたメモ用紙が散らばっている。マサトは背もたれに体を預け、深いため息をついた。
画面には、自分の投稿した短編小説のページが開かれていた。
タイトルは『雨の匂う記憶』。
ページビューはすでに四百を超えていた。いつもより少し多い数字だ。
「……でも、誰にも届かなかったんだな」
コメント欄は真っ白だった。
いいねの数も、ゼロ。
シェアも、ブックマークも、ない。
マサトはマウスを握る指に力を込めた。指先が小さく震えていた。十年前に会社を辞めて、ずっと書き続けてきた。
昼は倉庫のアルバイト、夜は小説。夢はいつか本を出して、誰かの心に残ることだった。
「もう、いいか……」
マサトは、十年間抱き続けた夢を、今夜で終わらせようとしていた。
今夜パソコンを閉じたら、もう二度と小説を書くことはない。マサトは、そんな覚悟でブラウザを閉じようとした。
その瞬間、画面の隅に小さな通知が灯った。
「いいね」という、ただそれだけのコメントがつきました。
送信者は「mizuki_1987」という、名前も顔も知らないアカウントだった。
マサトは一瞬、目を疑った。
画面の向こうで、誰かが静かにクリックした音が、部屋の静けさに小さく響いた気がした。
その一瞬で、世界が変わったわけではなかった。
けれど、マサトの胸の奥に、凍りつきかけていた何かが、わずかに溶けた。
五年後。
都内の小さな書店で、マサトの単行本『雨の匂う記憶と、十七の続き』が平積みになっていた。
インタビュアーの女性がマイクを向け、柔らかく微笑む。
「マサト先生、どうして作家になろうと思われたのですか? 最初はとても苦労されたと伺っていますが」
マサトは少し照れたように笑い、椅子の上で姿勢を直した。
「名前も知らない誰かが、僕の作品に『いいね』という、ただそれだけのコメントを一つしてくれたんです。
たった一つでした。でも、その一つが……もう一作書こう、という勇気をくれました」
会場に小さな笑いと、優しい溜息が混じった。
「その人は今、どこで何をしているんでしょうね。
会ってお礼を言いたい。
『あのとき、僕の人生が変わったんです』って」
マサトは窓の外を見た。
秋の柔らかな陽射しが、書店のガラスを暖かく照らしている。
その「mizuki_1987」は、三十代の会社員・水木遥だった。
あの日、深夜の通勤電車の中でスマホをいじっていた遥は、たまたまおすすめに流れてきた短編を読んだ。
雨の匂いがするような、切なくて優しい物語。
胸がじんわりと温かくなった。
「コメントをするか迷った。わざわざ私がしなくても、読んだだけで十分かな……」とも思った。
でも、ふと、昔自分が書いた日記を誰にも読まれずに捨てたことを思い出した。
指が、自然に動いた。
「いいね」
それだけ。
ただ、それだけのことだった。
特別な善意でも、深い思いやりでもなく、ただ「読んだよ」という、気まぐれなメッセージ。
彼女はその小説のことを、すぐに忘れかけていた。
三年後、書店で平積みになった本を見つけたとき、遥は目を丸くした。
帯に書かれた推薦文に、こうあった。
「たった一つのいいねが、僕を救ってくれました」――マサト
遥は本を手に取り、静かに微笑んだ。
一粒の涙が、表紙に落ちた。
人は、自分の小さな気まぐれが、どれほど遠くまで届くのかを知らない。
ある夜、マサトは新作の原稿を書きながら、ふと思う。
画面の向こうで、誰かが今頃、自分の文章を読んでいるかもしれない。
心が少し動いているかもしれない。
そして、もしその人が「いいね」を一つ、押してくれたなら——
それは、きっとまた、新しい物語の種になる。
たったひとつのクリック。
画面の向こうでは小さな音しかしない。
けれど、その音は、誰かの人生を変え、一冊の本を生み、さらにその本が別の誰かを救うかもしれない。
おしまい




