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『小さなコメント』

掲載日:2026/06/12


夜の二時を回ったアパートの一室。

蛍光灯の明かりを落とし、ノートパソコンの青白い光だけが、三十代半ばの男・マサトの顔を照らしていた。

机の上には、冷めたインスタントコーヒーのマグカップと、書き散らしたメモ用紙が散らばっている。マサトは背もたれに体を預け、深いため息をついた。

画面には、自分の投稿した短編小説のページが開かれていた。


タイトルは『雨の匂う記憶』。


ページビューはすでに四百を超えていた。いつもより少し多い数字だ。


「……でも、誰にも届かなかったんだな」


コメント欄は真っ白だった。

いいねの数も、ゼロ。

シェアも、ブックマークも、ない。

マサトはマウスを握る指に力を込めた。指先が小さく震えていた。十年前に会社を辞めて、ずっと書き続けてきた。

昼は倉庫のアルバイト、夜は小説。夢はいつか本を出して、誰かの心に残ることだった。


「もう、いいか……」


マサトは、十年間抱き続けた夢を、今夜で終わらせようとしていた。

今夜パソコンを閉じたら、もう二度と小説を書くことはない。マサトは、そんな覚悟でブラウザを閉じようとした。


その瞬間、画面の隅に小さな通知が灯った。

「いいね」という、ただそれだけのコメントがつきました。

送信者は「mizuki_1987」という、名前も顔も知らないアカウントだった。

マサトは一瞬、目を疑った。

画面の向こうで、誰かが静かにクリックした音が、部屋の静けさに小さく響いた気がした。

その一瞬で、世界が変わったわけではなかった。

けれど、マサトの胸の奥に、凍りつきかけていた何かが、わずかに溶けた。


五年後。

都内の小さな書店で、マサトの単行本『雨の匂う記憶と、十七の続き』が平積みになっていた。

インタビュアーの女性がマイクを向け、柔らかく微笑む。

「マサト先生、どうして作家になろうと思われたのですか? 最初はとても苦労されたと伺っていますが」

マサトは少し照れたように笑い、椅子の上で姿勢を直した。

「名前も知らない誰かが、僕の作品に『いいね』という、ただそれだけのコメントを一つしてくれたんです。

たった一つでした。でも、その一つが……もう一作書こう、という勇気をくれました」

会場に小さな笑いと、優しい溜息が混じった。

「その人は今、どこで何をしているんでしょうね。

会ってお礼を言いたい。

『あのとき、僕の人生が変わったんです』って」

マサトは窓の外を見た。

秋の柔らかな陽射しが、書店のガラスを暖かく照らしている。


その「mizuki_1987」は、三十代の会社員・水木遥だった。

あの日、深夜の通勤電車の中でスマホをいじっていた遥は、たまたまおすすめに流れてきた短編を読んだ。

雨の匂いがするような、切なくて優しい物語。

胸がじんわりと温かくなった。

「コメントをするか迷った。わざわざ私がしなくても、読んだだけで十分かな……」とも思った。

でも、ふと、昔自分が書いた日記を誰にも読まれずに捨てたことを思い出した。

指が、自然に動いた。


「いいね」


それだけ。

ただ、それだけのことだった。

特別な善意でも、深い思いやりでもなく、ただ「読んだよ」という、気まぐれなメッセージ。

彼女はその小説のことを、すぐに忘れかけていた。

三年後、書店で平積みになった本を見つけたとき、遥は目を丸くした。

帯に書かれた推薦文に、こうあった。

「たった一つのいいねが、僕を救ってくれました」――マサト

遥は本を手に取り、静かに微笑んだ。

一粒の涙が、表紙に落ちた。


人は、自分の小さな気まぐれが、どれほど遠くまで届くのかを知らない。

ある夜、マサトは新作の原稿を書きながら、ふと思う。

画面の向こうで、誰かが今頃、自分の文章を読んでいるかもしれない。

心が少し動いているかもしれない。

そして、もしその人が「いいね」を一つ、押してくれたなら——

それは、きっとまた、新しい物語の種になる。

たったひとつのクリック。

画面の向こうでは小さな音しかしない。

けれど、その音は、誰かの人生を変え、一冊の本を生み、さらにその本が別の誰かを救うかもしれない。


おしまい

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