第67話 名湯の町なのに、湯守が自分の湯を誇ってない
ユノハ湯郷で一夜を明かした翌朝、五人は昨日より少しだけ早く動いた。
温泉街の朝は、思っていたよりずっと早い。
客が起ききる前から、湯は動いている。
湯気はすでに立ち、桶の音がして、どこかで湯を落とす水音が絶えず聞こえる。
旅館の表はまだ静かでも、裏側では一日がとっくに始まっていた。
「……朝から、町がぬるく熱い感じする」
ももかが通りへ出ながら言った。
「うん」
るなが頷く。
「空気が起きてる」
「でも、人の顔はあんまり起きてない」
えれなが言う。
「昨日の延長で疲れてる」
「そう」
ジェシカが短く言った。
「特に裏方」
「今日はそこだね」
みうが静かに言う。
「湯守の人」
「うん」
るなは昨日見かけた若い男の背中を思い出す。
「たぶん、あの人から入る」
「なんでそんなに確信あるの」
ももかが聞く。
「背中」
「雑」
「でも、わりと当たる」
「それは否定できない」
えれなが言う。
昨日、見晴らしのいい場所から町を見た時、五人の間ではもう共通認識ができていた。
この町は華やかだ。
でも、癒やしの町そのものは休めていない。
そして、その町を一番深いところで支えているのが、たぶん“湯”を守る人たちだ。
なら、その人たちがどう疲れているのか。
どう誇れなくなっているのか。
そこを見ないと、この章は始まらない。
◆
旅館街の奥、共同湯場の裏手へ回ると、昨日見かけた若い男はすぐに見つかった。
朝の薄い湯気の中で、木桶と金具のついた道具を持ち、湯の流れを見ている。
無駄のない動き。
しゃがみこむ姿勢も、立ち上がる速さも、全部が慣れきっていた。
湯気で少し湿った黒髪。
整った顔立ちなのに、表情の線が固い。
年は二十代前半くらい。
若いのに、妙に“休憩の仕方を忘れてる人間”の雰囲気がある。
「……いた」
るなが小さく言う。
「うん」
みうが頷く。
「どう入る?」
「正面」
るなが答える。
「ここで遠回ししてもたぶん通じない」
「わかる」
えれなが言う。
「真面目そうだし」
「というか、遠回しにした瞬間、仕事の邪魔扱いされそう」
ももかが言う。
「それ」
ジェシカが短く言った。
るなが一歩前へ出る。
「おはよう」
「……」
男は一瞬だけこちらを見た。
視線は鋭いわけじゃない。だが、明らかに“今止まる気はない”人間の目だった。
「おはようございます」
返事はきちんとしている。
でも、その先へ広げる気配はない。
「昨日も見た」
るなが言う。
「そうですか」
「湯守の人?」
「……」
一拍だけ間があった。
「そうです」
「やっぱり」
ももかが小さく言う。
「声に出すな」
えれなが返す。
「名前、聞いていい?」
みうがやわらかく聞く。
「シオンです」
「シオンさん」
「はい」
「少し、お話聞ける?」
「仕事中です」
「うん」
るなは頷く。
「見ればわかる」
「なら」
「でも」
るなは続ける。
「仕事見ながらでもいい」
「……」
「湯の町で、湯守が何してるか、ちゃんと知りたい」
「……」
シオンは少しだけ目を細めた。
その顔は、“面倒だ”だけじゃない。
“なぜそこに興味を持つ”という、慣れない問いを向けられた人間の顔だった。
「見ても、地味ですよ」
「うん」
るなが言う。
「地味でもいい」
「むしろそこ大事」
えれなが言う。
「……」
シオンは少しだけ黙ってから、短く答えた。
「なら、ついてきてください」
「うん」
るなは頷いた。
◆
シオンの仕事は、思っていた以上に細かくて、重かった。
共同湯場の裏には、客から見えない水路と配湯の仕組みが張り巡らされている。
源泉から引かれた湯を、宿ごとにうまく配る。
熱すぎれば冷ます。ぬるければ流れを変える。
汚れがあれば掃除。詰まりがあればすぐ対処。
しかも、宿ごとに望む湯の状態も微妙に違うらしい。
「……」
みうが目を丸くする。
「思ってたより、ずっと大変」
「大変です」
シオンは短く答えた。
「温度は毎日同じではない」
「うん」
「天気でも変わる」
「うん」
「客の入りでも変わる」
「うん」
「湯の使われ方でも変わる」
「……」
「だから、その日ごとに見る」
「……」
「全部」
「全部です」
「……」
ももかが本気で言う。
「これ、裏方のレベルじゃなくない?」
「裏方です」
シオンはあっさり返した。
「いやでも」
「客から見えないなら、裏方です」
「……」
るなは、その言い方に少し引っかかる。
見えないから、裏方。
たしかにそうだ。
でも、その言葉の中に、自分の仕事へ線を引きすぎている感じがあった。
シオンは木の蓋をずらし、湯の流れを見て、すぐに戻す。
次の湯槽へ回り、温度を手で確かめる。
その動きに迷いはない。
つまり、この人はかなりできる。
「シオンさん」
みうが言う。
「なんですか」
「すごいですね」
「……」
その瞬間、シオンの動きがわずかに止まった。
「何がです」
「全部」
みうは素直に言う。
「湯の状態を見て、すぐ動いてる」
「……」
「私たち、昨日ちょっと町を見ただけじゃ全然わからなかった」
「……」
「でも、こういうふうに守られてるから、客の人たちが安心して入れるんだなって」
「……」
シオンは少しだけ目をそらした。
「そういうものです」
「そういうもの、で終わらせる?」
るなが聞く。
「終わらせます」
「早」
ももかが言う。
「そうしないと回らない」
シオンは答えた。
その言い方は、ハイレン村の若い農夫たちと少し似ていた。
自分の仕事を軽んじているわけじゃない。
むしろ真面目にやりすぎている。
でも、その真面目さのせいで、“誇る余白”まで削れている。
◆
共同湯場の奥には、配湯の調整に使う小さな管理小屋があった。
木札、記録板、金具、桶、布。
そこへ入ると、湯の匂いがさらに濃くなる。
「宿ごとに違うの?」
えれなが記録板を見る。
「違います」
シオンが答える。
「湯の温度の好み、量、時間帯」
「……」
「全部?」
「全部ではないですが、多いです」
「それ、かなり面倒では」
ももかが言う。
「面倒です」
「即答」
「事実です」
「……」
るなは小さく笑う。
「でも、嫌いじゃないでしょ」
「……」
シオンが初めて少しだけるなを見る。
「何がです」
「湯のこと」
「……」
「今の“面倒です”の言い方、嫌々じゃなかった」
「……」
「雑な勘ですね」
「よく言われる」
「でも当たる」
ジェシカが言った。
「お前が言うと怖い」
るなが返す。
シオンは少し黙ったあと、低く言った。
「湯そのものは、嫌いではありません」
「うん」
「むしろ、好きです」
「……」
みうがふっと息をつく。
「ですよね」
「……」
「でも」
シオンは続けた。
「好きとか嫌いとかで回るものでもない」
「……」
「町は客を止めないといけない」
「宿は湯を切らせられない」
「湯守は崩せない」
「……」
「だから、やるだけです」
「……」
「そこ」
るなが言う。
「たぶん、この町のしんどさあるね」
「……」
シオンは答えない。
でもその無言は、“違う”ではなかった。
◆
午前の後半、五人はシオンに連れられて、いくつかの宿の配湯口まで回った。
宿ごとに湯の表情が違う。
少し熱めの湯。やわらかい湯。湯気の立ち方。匂い。
素人でも、違いはなんとなくわかる。
でも、その違いを“味わう側”ではなく“保つ側”として見ているシオンの顔は、やっぱりどこか固い。
「この湯、いいね」
るながある宿の湯を見て言う。
「……」
「何」
シオンが聞く。
「なんか、落ち着く」
「そうですか」
「うん」
「湯の当たり方が丸い」
「……」
シオンは少しだけ驚いた顔をした。
「わかるんですか」
「ちょっとだけ」
るなが笑う。
「ハイレン村で畑見たあとだからかな」
「関係ありますか」
「ある」
「どこが」
「ちゃんと手が入ってるものって、なんか出る」
「……」
「雑」
えれなが言う。
「でも、今回はわかる」
「そう」
みうが頷く。
「“整えられてる感じ”はある」
「……」
シオンはその湯を少し見てから言った。
「その宿は、流れを少し変えています」
「へえ」
「湯の角が立ちすぎないように」
「……」
「それ、誰が?」
みうが聞く。
「自分です」
「……」
「うわ」
ももかが言う。
「今のもっと言いなよ」
「何を」
「“この宿の湯、こういうふうにしてる”って」
「……」
「客はたぶん、そういうの聞いたら普通に“へえ”ってなるよ」
「なりそう」
るなが言う。
「この町、そういうの言ってないの?」
「言いません」
シオンが即答する。
「なんで」
「裏方だからです」
「……」
その“裏方だからです”は、さっきより少しだけ強かった。
自分で自分の線を引き直すみたいな言い方。
たぶんそれだけ、この人はそこを越えないようにしてきたのだ。
◆
昼頃、五人は共同湯場の裏で簡単な食事を取ることになった。
シオンもその場にいる。
食べているのは、温泉饅頭と簡単な汁もの、それに塩気のある干しもの。
温泉街らしくはあるが、裏方の休憩は思ったより短い。
「……短いね」
みうが小さく言う。
「いつもです」
シオンが答える。
「もう少しゆっくりできないの?」
ももかが聞く。
「できる日もあります」
「今日は?」
「無理です」
「……」
「だよね」
るなが言う。
「客の入り、昨日より多いし」
「見てたんですか」
「見てた」
「……」
少しの沈黙のあと、えれなが静かに聞く。
「シオンさん」
「なんです」
「この町の湯、好きなんだよね」
「……」
「そう言いました」
「うん」
「じゃあ、自分の湯、誇ってる?」
「……」
その問いに、空気が少しだけ止まる。
シオンはすぐには答えなかった。
温泉饅頭を置き、指先についた粉を軽く払う。
それから、すごく低い声で言った。
「誇っても、しょうがないでしょう」
「……」
みうが目を上げる。
「なんで」
るなが聞く。
「客はどうせ“有名かどうか”“宿の格がどうか”“町の評判がどうか”を見る」
「……」
「湯守が何をしているかなんて、ほとんど見ない」
「……」
「宿も忙しい」
「客も急ぐ」
「町も回す」
「……」
「その中で、湯を誇るとか」
「……」
「そんなもの、湯気みたいなものです」
「……」
「湯気?」
ももかが小さく聞く。
「湯は生きてる」
シオンは言った。
「でも、俺たちは湯気みたいに消えるだけだ」
「……」
その言葉は、静かだった。
でも、やけに深く刺さった。
るなは、息を吐くのを忘れそうになる。
ハイレン村で若い農夫が言った
“畑は生きてる。でも俺らは生きてる感じがしない”
と、どこか重なる。
この町でも、やっぱり同じだ。
守るものはある。
誇れる技術もある。
でも、それを持つ人間の手応えが薄い。
「……」
みうが、とても静かに言う。
「その言葉、かなりきつい」
「……」
シオンは返事をしなかった。
でも、否定もしない。
◆
昼のあと、五人は町の少し高いところへ戻って整理した。
湯煙の町は、相変わらずきれいだ。
足湯の客は笑い、旅館の暖簾は揺れ、饅頭の湯気はあたたかい。
でも今は、その下で動く“湯守の時間”が少し見えるようになっている。
「……来たね」
るなが言った。
「うん」
えれなが頷く。
「かなり核」
「この町も、やっぱり“誇る場”を失ってる」
ジェシカが言う。
「そう」
みうも静かに言う。
「湯はある」
「技術もある」
「でも、それを守ってる人が“裏方だから”で全部しまってる」
「……」
「ハイレン村は、実りを見せることをやめてた」
るなが言う。
「うん」
「ユノハ湯郷は、湯の良さを“感じさせる側”が、自分では感じる時間を失ってる」
「しかも」
えれなが続ける。
「湯守って、町の根なのに」
「自分の湯を誇ってない」
「うん」
ももかが言う。
「それ、相当きつい」
「かなり」
るなが頷いた。
少しの沈黙のあと、みうがぽつりと言う。
「この町、たぶん」
「うん」
「湯そのものをどうこうする前に、“湯ってこういうふうにいいんだ”って一回ちゃんと届く形が要る」
「……」
「それ」
えれなが言う。
「かなり近い」
「客だけじゃなく」
ジェシカが言う。
「町の人にも」
「そう」
るなが頷いた。
風が吹き、湯煙が少し流れる。
ユノハ湯郷は今日も華やかだ。
でも、その奥にいる若い湯守の言葉は、たぶんこの章をずっと引っぱる。
湯は生きてる。
でも、俺たちは湯気みたいに消えるだけだ。
その感覚を変えられないなら、この町は本当には休めない。
「……よし」
るなが小さく言う。
「うん」
「次、女将さん側」
「うん」
みうが頷く。
「迎える側の疲れ」
「シオンと、宿の人たち」
えれなが言う。
「両方揃えば、この町の構造もっと見える」
「来たね」
ももかが言う。
「中盤」
「言い方」
るなが笑う。
「でもまあ、そう」
ジェシカが短く言った。




