第29話 海風に揺れる、小さな飾り
セレストの朝は、昨日までより少しだけ落ち着かない空気をしていた。
明るくなったわけじゃない。
魚市場の声が急に戻ったわけでも、宿屋街の空き部屋が埋まったわけでもない。
港に船が増えたわけでもなければ、子どもたちが一斉にはしゃぎ始めたわけでもない。
それでも、何かが違う。
それはたぶん、町の人間が少しだけ「次」を意識し始めたからだ。
「……空気、変わった気がする」
宿《海鳥亭》の窓から通りを見下ろしながら、みうが小さく言った。
「うん」
るなも頷く。
「まだ元気になったとかじゃないけど、“なにかあるらしい”のざわつきがある」
「わかる」
ももかが後ろから覗き込む。
「静かなんだけど、昨日までの“諦めて黙ってる静かさ”じゃない」
「落ち着かない方の静かさね」
えれなが言う。
「準備前って感じ」
「準備前」
るなが繰り返す。
「たしかに」
「お前、その言葉好きそう」
ジェシカが窓辺の壁に寄りかかったまま言った。
「好き」
るなが即答する。
「何か始まる前の感じって、嫌いじゃない」
「それで突っ走るから困るんだけど」
えれながため息をつく。
「今日は突っ走らない」
「本当に?」
「……七割くらい」
「下がった」
ももかが笑う。
昨日、ザルグ、セシリア、イアンと広場で話したあと、結論らしい結論は出なかった。
でも、“昔と同じ海鳴り祭”ではなく、“今のセレストでできる形”なら、という方向までは見えた。
それは大きかった。
町の人たちにとって、“無理だ”と切り捨てる以外の言葉が初めて見えたのだから。
「……今日からだね」
みうが言う。
「うん」
るなが頷く。
「ほんとの準備は」
◆
広場へ行くと、すでに何人かが集まっていた。
最初に見えたのは、イアンだった。
昨日までのように腕を組んで不機嫌そうに立っているだけではなく、今日は同じ年代の若い漁師を二人連れている。三人とも眠そうな顔ではあるが、少なくとも“来てやった”だけの態度ではない。
「来たか」
イアンが言う。
「来た」
るなが返す。
「人、増えたね」
「若いのなら話を聞くだけ聞くってやつがいた」
イアンが後ろの二人を親指で示す。
「ミロとハイン」
「どうも」
片方が気まずそうに頭を下げる。
「……異界人ってほんとにギャルなんだな」
もう片方が呟く。
「何その確認」
ももかが言う。
「まあギャルだけど」
少し遅れて、セシリアもやって来た。
今日は宿屋街の若い従業員らしき女を二人連れている。片方は緊張した顔、片方は半信半疑といった目だ。
「女将たちは?」
えれなが聞く。
「年寄り連中はまだ様子見さ」
セシリアが肩をすくめる。
「でも若い子らの方が、動く話なら早い」
「それはたしかに」
えれなが頷いた。
ザルグは少し遅れて現れた。
相変わらず不機嫌そうな顔だが、昨日のような“何しに来た”の一点張りではない。しかも今日は、魚市場の店先で見かけた年配の女――昨日るなたちに「買わないなら“もったいない”なんて言うな」と言ったあの人まで一緒だった。
「来てくれたんだ」
みうが少し嬉しそうに言う。
「気になるだけだよ」
女はぶっきらぼうに言う。
「リナ婆って呼ばれてる」
ザルグが横から補足する。
「自分で名乗りなよ」
リナ婆が即座に返した。
「息ぴったり」
ももかが小声で言う。
「市場側の空気、ちょっと好きかも」
「今そこ言う?」
えれなが呆れる。
ガルドは一歩引いた位置で全体を見ていた。
護衛としているのは変わらない。だが今日は、それ以上に“場を壊さず見張る”役でもあるらしい。
「では」
えれなが自然に広場の中央へ出た。
「昨日の続きです」
「仕切るの、お前なんだな」
イアンが少し意外そうに言う。
「いちばん話を散らかさないから」
ジェシカが代わりに答えた。
「ひどい」
るなが言う。
「でも事実」
えれなが冷静に続ける。
「今日は、“今のセレストでできること”を具体化したいです」
「具体化、ね」
セシリアが腕を組む。
「大きい言い方だ」
「でも必要でしょ」
えれなが言う。
「“何かしたい”だけだとまた散る」
「それはそうだ」
ザルグが短く返した。
るなは広場を見回した。
曇り空の下、石畳の真ん中に立つ人の数はまだ少ない。
でも、昨日までならこの場所に大人たちがこんなふうに集まって話すこと自体なかった気がする。
その時点で、もう少しだけ空気は動いている。
◆
最初に話が進んだのは、“何があるか”ではなく、“何が出せるか”だった。
ザルグが言う。
「魚市場としては、大量に出す余裕はない」
「うん」
えれなが頷く。
「それは前提でいい」
「だが、見栄えのする魚なら少しは回せる」
「見栄えのする魚?」
ももかが反応する。
「色がきれいとか?」
「そういうことだ」
リナ婆が口を挟んだ。
「銀の立つやつ、形のいいやつ、焼いた時に香りの出るやつ。数は少なくても“おっ”と思うやつはある」
「それだ」
ももかがぱっと顔を明るくする。
「最初の入口って大事だし」
「入口」
ザルグが繰り返す。
「うん」
ジェシカが静かに補足した。
「通りすがりが足を止める理由」
「……」
「全部の魚じゃなくていい。最初に目を引くものがいる」
「市場でも言ってたやつだ」
るなが言う。
「そう」
ジェシカは短く返した。
セシリアも口を開く。
「宿屋街としては、料理を少しだけ外へ出せる」
「お」
るなが見る。
「本格的な屋台とかじゃないよ」
セシリアが先に釘を刺す。
「でも、干し魚を使った簡単な串とか、港のスープを小さい器でとか、そのくらいなら」
「いいじゃん」
みうがやわらかく言う。
「“港の匂いがするもの”って大事だと思う」
「そうだね」
ももかも頷く。
「匂いで人って結構引っ張られるし」
「匂いは大事」
るなが真顔で言うと、
「そこはお前が言うと変な説得力がある」
えれなが返した。
イアンたち漁師側は最初、少しだけ乗り気が薄かった。
だが、ミロという若い漁師がぽつりと言った。
「港見せるだけでも、案外子どもは喜ぶかも」
全員がそちらを見る。
「何を」
イアンが聞く。
「網直してるとことか、船の名前とか」
ミロは少し気まずそうに頭を掻いた。
「……俺、小さい頃そういうの好きだったし」
「うわ、いい」
みうがすぐに反応する。
「見たい、それ」
「お前が?」
イアンが言う。
「いや、子どもが」
みうは笑う。
「でも私もちょっと見たい」
「正直」
ももかが言う。
るなは、その瞬間に胸の中で何かが明るくなるのを感じた。
そうだ。
今のセレストに必要なのは、“大きな祭りの再現”じゃない。
港町の中にまだ残っている良さを、一回ちゃんと見える形にすることなんだ。
「いいね、それ」
るなが言う。
「魚市場は見てほしい魚。宿は食べてほしいもの。港は見てほしい仕事」
「……」
「全部、“今あるもの”じゃん」
「そうだな」
ザルグが低く返す。
「失ったものじゃなくてね」
みうも頷いた。
◆
その流れの中で、子どもたちの話も自然に出た。
「ノアたちみたいな子、他にもいる」
ももかが言う。
「海見てるのに静かすぎる子」
「いるよ」
セシリアが少し顔を曇らせる。
「宿の手伝いしてる子も多いし、港の周りをうろついてるだけの子もいる」
「走らなくなった」
イアンが小さく言う。
「……そういうの、多い」
「うん」
るなが頷く。
「だから、子どもたちも来やすい感じにしたい」
「来やすい、ね」
ザルグが少し考える。
「魚ばっか並べてもつまらんか」
「つまらんっていうか」
ももかが言う。
「見るだけでもちょっと楽しいものあると違う」
「絵とか?」
みうが言う。
「え」
るなが振り向く。
「海の絵?」
「うん」
みうは少し考えながら続ける。
「この前、海辺でノアちゃんたちと話した時、みんな海のこと見てはいたから」
「……」
「好きじゃなくなったんじゃなくて、楽しみ方が止まってるだけなら、絵でも、飾りでも、何か作るきっかけがあるといいかも」
「なるほど」
セシリアが頷いた。
「子どもに魚の絵でも描かせるかい?」
「それ、いい」
ももかがすぐ食いつく。
「“今のセレストの海”みたいなやつ」
「飾りにもなる」
ジェシカが言った。
「広場の支柱、使えるし」
「……」
るなはその言葉に、広場の端に残る古い支柱を見た。
昨日まではただの“名残”に見えていたものが、今日は少し違って見える。
支柱がある。
魚がある。
広場がある。
港がある。
人も、完全にはいなくなっていない。
全部“まだあるもの”だ。
「……なんか」
るながぽつりと言う。
「本当にちっちゃいやつなら、いけそうじゃない?」
「だから、そこで雑に“いけそう”って言わない」
えれながすぐ止める。
「でも」
「でもじゃない」
「いや、でも今の話、結構ちゃんとしてない?」
るなが食い下がる。
「魚も出せる、食べ物も少し出せる、港も見せられる、子どもの絵も飾れる」
「うん」
えれなも認めた。
「それはだいぶ形になってきた」
「なら」
るなが少しだけ笑う。
「“今の海鳴り祭”じゃん」
「名前はまだ出さない」
ジェシカが即座に言う。
「そこは守る」
「……はい」
るなは素直に引っ込んだ。
「今日は素直」
ももかが感心する。
「えらい」
イアンがそのやり取りを見て、小さく息で笑った。
「王都の娘って、ほんと騒がしいな」
「知ってる」
るなが返す。
「でも今の、悪くなかった」
「どっちが」
「騒がしい方」
「褒められた?」
「半分くらい」
「またそれ」
ももかが笑った。
◆
昼を過ぎた頃には、広場にいた人数が少し増えていた。
最初は遠巻きに見ているだけだった魚市場の若い衆が一人近づき、宿の従業員の娘がもう一人加わり、港の端から来た小さな子ども二人が支柱の陰に立って様子を見ている。
誰も中心に入ってくるわけじゃない。
でも、“何かが始まっている”のは伝わっている。
「……噂、回るの早」
ももかが小声で言う。
「うん」
えれなが頷く。
「でも今の流れなら悪くない」
「“王都の娘たちがまたなんかしてる”でしょ」
るなが言う。
「それ自体は変わらないけど」
「でも、そこに地元の人が混ざってるのは大きい」
ジェシカが周囲を見ながら言う。
「外から勝手に騒いでるんじゃなくて、“町の人が話し始めてる”に見える」
「……」
「そうか」
るなは少しだけ胸が熱くなる。
その時、広場の端にいた子どもたちのうち一人が、こっそり石畳にしゃがんで何か描き始めた。
指先で、海。
波みたいな線。
その上に、たぶん魚。
みうがそれに気づいて、少しだけ目を細める。
「……もう描いてる」
「え」
ももかが振り向く。
「ほんとだ」
「早い」
るなが笑う。
「でも、いい」
「うん」
みうはやわらかく頷いた。
「そういうの、いい」
セシリアもその子を見た。
「……ああいうの、最近は見てなかったね」
「何が」
ザルグが聞く。
「子どもが、広場で勝手に何か始めるの」
「……」
「そうだな」
ザルグも小さく認める。
それはとても小さな光景だった。
でも、このセレストではたぶん、無視できないくらい大きい。
るなは広場の真ん中に立ちながら、改めて思う。
昔みたいにできないなら、今できる形でいい。
足りないものばかりじゃなくて、まだあるものを見えるようにすればいい。
だったら――。
「よし」
るなが小さく言う。
「何」
えれなが聞く。
「方向、見えた」
「うん」
えれなも頷く。
「私もそう思う」
「ここからは、“できることを少しずつ持ち寄る”だね」
みうが言う。
「そう」
ジェシカが短く返す。
「復活じゃなくて、再定義」
「言い方かっこいい」
ももかが言う。
「意味も大事」
ジェシカが返した。
海風が吹く。
支柱が揺れ、広場に立つ人の髪を撫でていく。
空はまだ曇っている。
でも、その下にいる人たちの間には、昨日までにはなかった“次の話”が生まれていた。
セレストはまだ暗い。
でも、その暗さの中で、初めて「今のこの町で何ができるか」という問いが形になり始めている。
それが今日の、何よりの前進だった。




